チューリップ(5)
次の日の朝、姉ちゃんに謝ることができなかった。謝罪もお礼もそのたった数文字がどこまでも難しい。せめて長谷川さんに昨日のお礼をしようと思って早めに学校へ向かった。
教室に入るとすでに人がいた。朝練があると勘違いした野球部のやつだった。結局朝のうちに長谷川さんに声をかけることはできなかった。──なんか、昨日からツイていない。
『好きな人相手だったら緊張するかもしれない? 周りの目が気になって動けない? そんなの全部自分の中の事情でしょ』
姉ちゃんの言葉が頭の中でこだまする。
今日中に言わなきゃ。頭ではわかっているのに身体が動いてくれない。窓際の席から廊下側の席へ行って、「昨日はありがとう」と言うだけでいいのに、自分勝手な事情が足を重くする。こんなことを思っていると姉ちゃんが知ったら『この期に及んで……』って言われるかもしれないけど、それでも僕は願っていた。どうにか二人きりで落ち着いて会話できる状況にならないだろうか。そんなありえない奇跡を望んでいた。
どうやら奇跡というのは気まぐれに起こるらしい。お昼直前の四時間目、美術の時間の話だ。
「今日は外でスケッチを行いまーす。僕、場所とか指定しないんで、学校外に出なきゃどこでもいいからテキトーに好きなところ行ってくださーい」
生徒だったら根暗と言われそうなじめっとした雰囲気の先生が言う。その言葉でみんな靴を履き替えて各々外へ散らばっていった。女子は仲の良い人同士で固まっていたから、当然長谷川さんもそうだろうなと思ってこっそり見つめた。最初こそ友達と楽しそうに話していた彼女だが、そのうち手を振ってひとりその場を離れていく。
タイミングは今しかない!
そう思って急いで長谷川さんのあとを追いかけた。彼女が向かったのは学校の東門だった。偶然を装って「あ、長谷川さんもここ?」と言おうとしたときだった。いつかと同じように、長谷川さんが不意にこちらを振り向いて言う。
「小野田くんもチューリップ?」
「え、あ、うん」
そのとき、東門の前にチューリップが咲いていることを初めて知った。
「じゃあ一緒に描こう」
長谷川さんがチューリップの前に簡易の椅子を組み立てる。僕もそれに倣って彼女の隣に椅子を並べた。早速左隣からシャッシャと鉛筆を走らせる心地良い音が聞こえる。風の音に合わせてたまにウグイスなんかが鳴いたりして、すごく気持ちが良い。手を動かしていない左側が長谷川さんに触れてもいないのに熱い。──って、そうじゃない。このタイミングを逃したら、きっともう一生言えない。
「あのさ、長谷川さん。昨日の放課後、資料綴じをしてくれたよね? その、どうもありがとう」
「あー! あれ、全然問題ないよ! ほんと、タンポポのお礼だから。こちらこそ良いことを教えてくれてどうもありがとう」
「大袈裟だよ、タンポポくらいで……それよりあの資料、結構量も多かったのにひとりでやらせて本当にごめん」
「……律儀だなあ、小野田くんは」
そう言って長谷川さんが再び画用紙に鉛筆を走らせる。その音の隙間で、長谷川さんがひとりごとのように話し始めた。
「タンポポってね、わたしにとってすっごく特別で大切なお花なの。昔、『別離』っていうその寂しい花言葉だけを知ってしまってね。大切なお花だからこそ、その意味を調べるのがずっと怖かった」
鉛筆を持つ手を止めた長谷川さんと目が合う。優しい瞳に息が止まりそうになった。
「あの日、小野田くんにタンポポの花言葉の意味を教えてもらって、わたしすごく嬉しかった。それだけじゃない。他の花言葉も知ることができて、タンポポが明るいお花だってわかったのが本当に嬉しかったの。だからね、わたしにとっては大袈裟じゃないし、タンポポくらいでじゃないんだよ。お互いさまだから気にしないで」
長谷川さんの笑顔が眩しくて、頷くことしかできない。それより、と長谷川さんが画用紙に鉛筆を走らせながら言う。
「小野田くん、なにかあった? 今日ずっと元気ないみたいだったけど」
「んー……昨日、ちょっと姉ちゃんと喧嘩しちゃって」
「小野田くんお姉さんがいるんだ」
長谷川さんの言葉に首を縦に振る。
「明らかに僕の方が悪かったから、自分から謝らなきゃってわかっているんだけど、なかなか口にできなくてさ」
「ああ、近いからこそ言いづらいことってあるよね」
「そうなんだよなあ」
「でも逆にさ、近いからこそそういうのって大事になってくるよね。近ければ近いほど、言葉にするってことがおざなりになってしまう気がするし」
その言葉を聞いて、ふと思い出す。姉ちゃんにプリンを買って行った日、僕はプリンに付箋をつけただけで姉ちゃんに直接『ありがとう』とは言わなかった。それどころかシャープペンの芯を買ったついで、なんてありもしない理由をつけて最後まで照れ隠しをした。
「前に動画で学者さんが言ってたの。自分は家族と喧嘩をしても次の日にまで持ち越さないんだーって。その人は自分が経験した大きな地震をきっかけにそう思うようになったんだって。ほら、人っていつどうなるかわからないでしょ? 大袈裟かもしれないけど、昨日まで普通に会話していた人が突然自分を忘れてしまうこともあるし、『いってらっしゃい』って見送ったその背中が最後になることだってある。簡単に言っているように聞こえたら全然そうじゃないってことをわかってほしいんだけど、もし本当にそうなったときの後悔を考えたら、一瞬で終わる『ごめんなさい』を頑張れるんじゃないかな」
途中まで自分の実体験みたいに話していたのに、言い終えた頃にはいつもの長谷川さんの笑顔に戻っていた。
昨日、姉ちゃんに同じようなことを言われた。お礼は人間にとって当たり前ってやつだ。
柔らかな風が頬を撫でる。その風に合わせて目の前の真っ赤なチューリップが揺れた。
「小野田くんが花言葉に詳しいのはお姉さんの影響?」
「うん、そうだよ」
「いいなあ。わたしはひとりっ子だから、そういうの羨ましいな」
「長谷川さんが花の世話に慣れているのは園芸部だから? ほら、前花瓶に十円玉を入れてたでしょ」
「ああ、あれは知り合いのお兄さんが教えてくれたの」
その人もお花に詳しいんだよ、と長谷川さんが笑う。
「もちろんその人もタンポポの花言葉を知っていただろうけど、ずっと聞けなかったの。だから小野田くんがなにも気にせずに唐突に教えてくれてよかったよ。変に身構えずに済んだ」
春の風にチューリップはまだ踊る。
「チューリップの花言葉はなんだろうね」
鉛筆を顎に当てて、長谷川さんが言った。
「思いやりと名声だよ」
緊張で、僕はそれしか言えなかった。
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