金木犀(5)

 今日はなんとか薬に頼らずに一日を過ごすことができた。パニック障害と診断された当初三種類だった薬は、頓服薬一つになった。それもこれも学校を安心できる場所だと認識できるように配慮してくれている先生方のおかげだと思う。

 昇降口を出て日傘を開く。今日も今日とて他の生徒にじろじろ見られながら校門をくぐる。

「たーてーやまー!」

 背後から聞こえた声に振り向くと、小野田が隣で立ち止まった。

「今日も帰んの早いんだね。部活は?」

「所属していない。そういう小野田こそ何部なの?」

「わ! 立山があたしに質問してくれてる! 一歩前進じゃん」

 ただの世間話だと思って振ったけど、それですらこの反応をされてしまうらしい。

「あたしは帰宅部だよ。部活入ったら自由な時間少なくなるし、やりたいこともないしね」

「へえ」

 質問をしておいてこれは我ながら失礼だと思うけど、致し方ない。期待をさせないためなら冷たい人と思われた方がいい。

 痛い日差しに照らされて、アスファルトの表面がゆらゆらと波打つ。思った以上に外が暑くて自分の心臓の音が気になってきた。速くなっていく鼓動に合わせて呼吸がどんどん浅くなる。

「立山ってさ、なんでこんなバカ高校に通ってんの? めっちゃ頭良いのに」

「なんでだろうね」

 自分の心にまだ大丈夫と言い聞かせながら、なんでもないように短く答える。

「立山の性格的に成績一位でマウント取りたいってタイプでもないだろうし……。あ、もしかして、よく漫画である家から一番近いからってヤツ? ──立山?」

 応える余裕もなく立ち止まる。近くにある電柱にずるずると滑るようにもたれ掛かり、急いでリュックから水を取り出す。

「どしたの? 大丈夫?」

 そんな小野田の言葉を無視して制服のポケットから発作を止める頓服薬を取り出す。口の中に放り込んだ薬をペットボトルの水で勢いよく流し込む。ボトルを持つ手が小さく震えていた。

 いつものように呼吸の吐く方に意識を向ける。なかなか立ち上がることができなかった。

「立山、ちょっと大丈夫? 暑さで具合悪くなった?」

 そう言って小野田も同じように道端にしゃがみ込む。彼女に対して面倒に思う気持ちが自分の中で大きくなってきた。

「……小野田はさ、俺と付き合ってなにがしたいの?」

 日傘を差して座ったまま隣にいる小野田に問いかける。

「なにって、フツーにフツーのカップルがするようなことをしたいだけだけど」

「普通に、普通の」

「そう、フツーに、フツーの。放課後二人で帰って今日に寄って、一つのアイスを二人で分け合う──みたいな、そんな普通のことがしたい。デートもいいね。土日に二人で出かけたい」

 それを聞いて思わず乾いた笑いが出た。薬の効きが早くて徐々に心が落ち着いてくる。冷静になった頭の中で普通という自分から最も遠い言葉が色濃く残った。普通じゃない自分にとって、これほど嫌な響きの言葉はなかった。

「やっぱり俺じゃ無理だよ」

「なんで? 立山から見たあたしってそんなにダメ? 今言ったことだって、他の女子でも普通に思うことじゃん」

 たしかにそれはそうなのかもしれない。ただ自分にはその普通が通用しないことを小野田は知らないというだけだ。

「立山の好きな人は、付き合ってもそういうこと言わないタイプなわけ?」

「言わないかはわからないけど」

 少なくとも無理強いはしないだろうなと思った。この病気への知識と理解があるから、そんなことにはならないだろうと思う。

「普通のお付き合いがしたいんだったら、やっぱり俺じゃ駄目だよ。俺は普通から程遠い存在なんだから」

「だから、なんでって」

「俺、パニック障害っていう病気なんだ。だから小野田がやりたいって言ったいわゆる普通のことが俺にとってはすごく難しい。今だってこの暑い中歩きながら会話して、少しずれた呼吸のリズムが気になって発作が起こりそうになった。今飲んだのはそれを止める薬。始業式のときも暑さと人混みで具合が悪くなったから保健室に行った」

 小野田が何度も瞬きをする。

「さっきなんでこの高校に通っているか聞いてきたよね。この高校が唯一誰か身内の家から直接通える範囲内だったってだけだよ。実家からは電車通学するしかない高校ばかりだったから。偏差値関係なくとにかく家から通える場所を探して、該当するのがばあちゃんの家から近いここだった。今は両親とは離れて暮らしている。これが俺の全部。これでもういい?」

 それに対して、小野田はもうなにも言ってこなかった。心臓がだいぶ落ち着いたからゆっくりと立ち上がる。せっかく今日は学校で薬を飲まなかった日だったけど、仕方ない。今まで帰り道で具合が悪くなったこともなかったけど、それも仕方がない。発作はコントロールできるものではない。仕方のないことをいちいち気にすることですら心の負担になってしまうことを自分はよく知っている。

「俺は今、できるだけ発作なく毎日を生きることで精一杯なんだ。普通を求められると苦しいし、それだったら他の人を選んだ方が小野田の時間の無駄にならないと思う」

 しゃがんだまま真っ直ぐこちらを見上げていた小野田がなにも言わずに下を向く。長い茶髪が顔を覆ってどんな表情をしているのかはわからなかった。そんな姿を見て少し胸が痛くなったけど、なんでもないように背を向けた。

「……心配だから、送ってく」

 黙って歩き出すと、後ろで小野田がそう言った。彼女と話すようになって初めて聞いたか細い声だった。

 その日の夜、縁側に座りながらじいちゃんがこだわって作った庭を眺めた。この小さな庭はじいちゃんが亡くなってからもばあちゃんが庭師に頼んで手入れをしてもらっているからいつでも綺麗だ。快晴の夜空には小さな星が瞬いている。冬の空と比べると、夏の空はなんだか遠く感じた。近頃は夜になっても全然涼しくならない。それでも考え事をするにはここが一番だから、うちわを揺らしながらぼーっと外を見つめた。

 小野田に少し言いすぎたかもしれないと、ずっとモヤモヤしている。いくら底抜けに明るい人だとしても、あんな言い方をして傷つかないわけがない。でも変に期待を持たせないためにはこの方が良いと思うし、それで自分のことを諦めてもらえるならそれは願ったり叶ったりだ。

 ──そう思っていても全然すっきりしない。

 普通という言葉がいつからか嫌いになっていた。普通がなにかを考え出したらキリがなくて、自分が普通だったらと仮定してもそうはなれないことを思い知るだけだった。答えが変えられないものを考え続けることはものすごく疲れる。

 小野田が繰り返し言った普通という言葉は自分にとって鋭利だった。でもそれは自分が誰よりも普通になりたいからこその痛みだったのかもしれない。普通になりたいという隠れた気持ちと、普通になれない現実との板挟みに耐えられなかっただけなのかもしれない。そう考えたら小野田を理不尽な言葉で突き放したことが途端に申し訳なくなった。

 一つ溜息をついて、縁側の引き戸を閉める。とりあえず明日は謝るべきだという結論に至った。

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