花言葉
家森夕空
金木犀(1)
夏は嫌いだ。
体温調節がどうも苦手で、クーラーのついた教室から一歩廊下に出た瞬間が本当に地獄だ。動悸がして発作が起こりそうになる。
高校に入学して初めての夏休みを終えた俺は、案の定始業式で発作が起きる一歩手前までいった。夏休みの間は調子が良いと思っていたのに学校に来るとすぐにこうなってしまうのが本当につらい。左手のツボを押して少し粘ろうかと思ったけど、このまま全校生徒の前で倒れてしまうのも嫌だから静かにクラスの列を離れた。体育館の後方にいた養護の先生に声をかけて、ひとり保健室へ向かう。いつものことだからと付き添いは断った。
できるだけ呼吸の吐く方に意識を向けて、せめて過呼吸にならないように気をつける。心の中で大丈夫を繰り返しながら、なんとか保健室手前の水飲み場にたどり着いた。制服のズボンのポケットから頓服薬を取り出し、発作がこれ以上ひどくならないようにと口に放り込んだ。薬がすぐに効くわけではないけど、それを口にするだけでもう大丈夫だと自分が安心する。そんなこんなで、なんとか保健室にたどり着いた。
クーラーがついたままの室内はひんやりと冷たい。先生が使う大きな机の向かいに二人掛けのソファがある。冷凍庫から保冷剤を取り出して、首に巻きながらそこに深く腰掛けた。
薬が効いてくるまであと少し。深呼吸をして、目を瞑る。少しだけ速い心臓の音が鼓膜を内側から震わせていた。
最初に身体の異変を感じたのは、ちょうど一年前、中学三年の夏頃だった。突然、給食の牛乳が飲めなくなった。はじめは暑さからくる一時的なものだと思っていたけど、そのうち給食のおかずも食べられなくなっていった。お腹は空く。けれども、喉が狭くなって食べ物を受けつけない。喉の奥が苦しい。動悸がするようになり、授業中に吐きたくなることが多くなった。我慢しようとすると両手が小さく震えてきて、だんだんと教室にいるのが怖くなっていった。体調不良だと思って保健室へ行く。保健室に入ると、それまでものすごく吐きたかったのが嘘みたいに元気になった。手の震えも治まるし、呼吸も深くできるようになる。そしてなにより自分の身体は大丈夫なのだと安心した。
そんなことを何度も繰り返していくうちに、養護の先生に言われる。
「受験生で色々と不安定なのはわかるけど、サボるのもほどほどにしなさいよ。ここは家じゃないんだから」
怪訝な顔をされた。はい、と言うけど、教室に一歩足を踏み入れると結局気持ちが悪くなる。次の日からは朝に玄関から出られなくなった。
どうしたの、と母親に声をかけられる。そこでようやく全部話した。
動悸がする、吐きたくなって教室にいられない、学校に行こうとしている今この瞬間が怖くて気持ちが悪くて仕方ない──。
病院に連れて行かれた。内科、循環器科、消化器内科、それぞれで色々な検査をしたけど、その結果はいたって健康だった。それでも原因不明の体調不良は治らない。逆流性食道炎かもしれないと消化器内科で処方された吐き気止めは、全然効果がなかった。
日に日に黒い影が頭を覆っていく。明日を考えるのが怖くなって、夜を迎えるのが怖くなって、眠れなくなっていった。
たまに行った学校で友人に言われる。
「お前、随分痩せたよ。もう少し太らないと」
そんなことはわかっていた。今ならそれが優しさや心配からくるものだって思えるけど、そのときの自分には何気ない言葉がとても重かった。煩わしくなって距離を置いた。
秋に入った頃、最後に母親に連れて行かれたのは、完全予約制の精神科だった。地元の大学附属の病院で、院内は想像していたよりもずっと綺麗で明るかったのをよく覚えている。
自分の症状を全て話した。話していくうちに言葉に詰まって目の前が滲む。先生の姿がぼんやりと歪んだ。
「大変でしたよね。ゆっくりで大丈夫ですよ」
藤原先生のその一言で苦しかった喉の詰まりが嘘みたいにほどけていった。眼鏡を外して滲んだ目元を拭う。眼鏡を掛け直したあとで、初めてじっくりと先生の顔を見た。すごく綺麗だった。目鼻立ちがはっきりとしていて、優しい笑顔が印象的だった。
原因不明の体調不良にそのとき初めてパニック障害という名前が付いた。その瞬間、すごく安心したのを覚えている。
保健室の扉がものすごい音を立てて開いた。驚いた衝撃で首元に巻いた保冷剤がソファの上に落ちる。拾ったそれはもう完全に溶けていた。
「
「大丈夫……えっと、
ずれた眼鏡を掛け直して、レンズの向こうにいる人物を見つめる。その人が小野田ということを確認して安心した。
「よかったあ。ふと後ろ見たらさ、立山が列からいなくなってんだもん。めーっちゃ心配した」
そんなことを言いつつ、当然のように小野田が隣に腰掛ける。
「てか、あたしの名前覚えてんじゃん」
「まあ、さすがにね」
「よく言うわー。夏休みんときは覚えてなかったくせに。同じ学校同じクラスで入学から四か月も経ってたのにさ。でも覚えてくれたのは素直に嬉しい」
小野田が歯を見せて笑う。
保健室超涼しいー、と小野田がポニーテールを結うように長い髪をかき上げる。かなり明るい色に染めているのにそのままでいられるのはこの高校の緩さを物語っている。校則自体は厳しい。しかし、生徒の大半がそれを守らないため、教師も半ば諦めているのが現実だ。
小野田みたいに制服のワイシャツを第二ボタンまで開けているのもこの学校では普通のことで、俺みたいに着崩していない方がむしろ珍しいくらいだ。
「あのさ、立山」
小野田が髪の毛から手を離し、かしこまったように身体をこちらに向ける。
「あたしと付き合ってよ」
「は?」
あまりにも唐突な告白で、間抜けな声しか出なかった。親しげに話していたけど、彼女と話すのはこれが二度目だ。初めて言葉を交わしたのは夏休み中で、そのとき小野田には恋人がいた。
そう思って、一つの考えに至る。
「もしかして、それって罰ゲームかなにか?」
「はあ⁉︎ 違うよ! なにその陽キャがじゃんけんで負けてクラス一の陰キャに告白、みたいな。動画広告かよ」
小野田が悪気ない顔でそんなことを言う。陽キャとか陰キャとか、俺たちを区分けするにはちょうど良い表現だけど、なかなかに失礼だと思う。
「ほんとに、本気であたしは立山のことが好きになったの。だから付き合って欲しい」
「ごめん、無理」
「即答かよ! なんで無理なわけ⁉︎ 誰か好きな人でもいんの」
「いる」
「え、誰? うちの学校?」
首を横に振る。
「同じ地元の人とか?」
再び首を横に振ったら、「じゃあ誰なんだよー」と小野田が俺の肩を叩いてくる。痛い。別に隠すことでもないから話そうと口を開いたとき、小野田が手のひらをこちらに向けた。
「あー! 待って、ストップストップ! やっぱり言わなくていい。あたし、立山に好きな人がいたとしても振り向かせられる自信があんの。全力出して立山を夢中にさせるから、覚悟してて」
そんなことを言われても困る──と言う前に、小野田は風の如く保健室から飛び出していった。
ちょうど薬が効いてきたのか、あくびが止まらない。
正直、面倒だと思った。全力を出されたところで自分の気持ちは変わらないから、小野田のこれからの努力は空振りにしかならない。
こんなことになるなら、止められてもちゃんと言えばよかった。今現在、誰のことが好きなのかをはっきりと伝えればよかった。
パニック障害と診断されてから三度目くらいの診察のときだ。ひと通り話をしたあとで、藤原先生が後方にある窓の外を見て言った。
「そこの駐車場のすぐそばに金木犀が植えられているんです。この時季窓を開けていると良い香りがして、これから寒くなるんだなーって実感します」
そう言われて深呼吸をすると、換気のために少しだけ開けられた窓からたしかに強い花の香りがする。そもそも花に明るくない自分は金木犀の存在をそのとき初めて知った。
「私、この香りが好きなんです。ご存知ですか? 金木犀の花言葉」
いいえ、と首を横に振る。
「たくさんあるんですけど、中でも私、初恋っていう花言葉が好きなんです。金木犀のこの独特な香りが印象深いでしょう。その忘れられない香りを初恋に重ねているみたいです。ぴったりですよね」
藤原先生が柔らかな笑顔を向けてくる。頷いて、そのまま診察が終わった。診察室を出ようと扉に手を掛けたとき、独特の香りが鼻をくすぐる。動悸がするけど、なんとなくそれが発作とは別物だとわかった。
目を瞑って鼻から深く息を吸う。
先ほど覚えたその香りに、たしかに初恋を感じた。
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