真琴の恐怖
最初は、ほんの些細な違和感だった。
仕事帰り、白石真琴はふと背後に視線を感じた。
寄ったコンビニのレジで、会計を待つ間、背筋をなぞるような視線がまとわりつく。思わず振り返る。
――だが、そこにはただのサラリーマンや学生が並んでいるだけ。
誰も彼女に特別な関心を向けているようには見えなかった。
「……気のせい?」
自分に言い聞かせ、そっとため息をつく。
けれど、コンビニを出てマンションへ向かう道すがらも、背後の気配は消えなかった。見られている気がする。振り返る勇気が出ず、そのまま足を速める。
マンションのエントランスに入ったとき、ようやく少しだけ安堵した。
だが、エレベーターの扉が閉まる寸前、入り口のガラス越しに、誰かの影が見えた気がした。
「……っ」
彼女はすぐに目を逸らし、何事もなかったかのように自室の鍵を開ける。
パタン。ドアを閉め、鍵をかけると、ようやく安心感が広がった。
――いつもの部屋。何も変わらないはずの空間。
しかし、違和感があった。テーブルの上の台本。
いつも置いているはずの場所から、微妙にずれている気がする。
気のせいだろうか。それとも、出かけるときに無意識に触れたのだろうか。
「……気にしすぎよ」
そう言い聞かせながら、バッグをソファに置いた。
けれど、台本を手に取った瞬間、ページの端がわずかに折れていることに気がつく。
――そんな風にしていた覚えはない。
胸の奥に引っかかるものを感じながらも、考えすぎるのはよくないと、シャワーを浴びることにした。湯気に包まれながら、今日の稽古を思い出す。
舞台のセリフはほぼ頭に入っている。共演者の演技にも馴染んできた。
順調――そう言えるはずだった。
それなのに、どうしても集中力が続かない。視線を感じる。演技に没頭していても、ふとした瞬間、劇場のどこかから誰かに見られているような気がして、気が逸れる。
そのせいで、セリフが飛ぶことが増えていた。
「……疲れてるのかな」
そう呟きながら、シャワーを止める。湯気のこもる鏡に映る自分の姿。滴る水滴を拭いながら、じっと鏡を見つめた。
そこに映るのは――確かに、自分。
だけど。本当に?
一瞬、鏡の向こうの自分が微かに笑ったような気がした。
「っ……!」
彼女は思わず目を逸らした。
「……もう、考えすぎだってば」
浴室を出ると、髪を拭きながらリビングへ戻る。カーテンを閉める前に、なんとなく窓の外を覗いた。マンションの前の道路は街灯に照らされ、人気はない。
――いつもと変わらない夜の景色。
……いや、違う。
道路の向こう側の暗がり。人影?真琴は息を呑んだ。
――いや、そんなはずはない。
目をこすり、もう一度見る。何もない。ただの暗闇。
「……気のせいよね」
彼女は自分の神経質な性格を呪いたくなった。おかしいのは、自分のほうなのかもしれない。部屋の隅の時計を見ると、深夜0時を回っていた。
もう寝よう。明日も稽古がある。
そう思い、ベッドに入る。
しかし――
その夜、彼女は一睡もできなかった。
ギシ……ギシ……
どこかで、微かな軋む音がする。
――マンションの上の階の住人だろうか?
そう思おうとしたが、彼女の部屋は最上階だ。
上には、誰もいないはず。心臓の鼓動が速くなる。
耳を澄ます。
……しかし、それ以上の音は聞こえなかった。
ただ、静寂だけが広がる。
「……もう、寝よう」
目を閉じる。しかし、心がざわついて、眠れない。
どこか遠くで、誰かが彼女を見ているような気がした。
それが気のせいなのか、本当に誰かがいたのか――
そのときの彼女には、まだわからなかった。
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――
朝になっても、白石真琴はほとんど眠れないままだった。ぼんやりとした頭でリビングの椅子に座る。カップの中のコーヒーは、ほとんど手をつけないうちに冷めきっていた。壁の時計を見る。
――もうすぐ稽古の時間。
「……また、寝不足で行くのか」
つぶやく声に力はない。
昨夜の「音」は、ただの気のせいだったのかもしれない。
――けれど。
最近の違和感が積み重なりすぎている。
視線を感じる。
ものの位置が微妙に変わっている。
夜中に聞こえた、きしむ音。
すべてが偶然?考えすぎだと、自分に言い聞かせる。
けれど、不安は拭えないままだった。
ふと、スマホを手に取り、SNSを開く。
「まこちゃん、元気にしてる?」
「最近、投稿がないけど大丈夫?」
ファンや友人からのメッセージがいくつか届いていた。何気なくスクロールする。
そして、あるメッセージに目が留まった。
――見慣れないアカウント。
開くと、たった一文だけが表示されていた。
「君のことをずっと見ている」
――ドクンッ。
心臓が跳ね上がった。何度も文を見返す。ただの冗談? 悪ふざけ?
ファンの誰かが、気味の悪いメッセージを送ってきただけかもしれない。
――なのに。
背筋を這い上がるような不快感が拭えなかった。
真琴は、震える指でメッセージを削除し、スマホを伏せた。
「……考えすぎだ」
そう自分に言い聞かせる。深く息を吐き、身支度を整えて家を出た。
外に出ると、いつもの街の風景が広がっていた。
すれ違う人々、行き交う車。
見慣れた景色のはずなのに――どこか異様に感じる。
誰かが、どこかで自分を見ている。そんな気がしてならなかった。
足早に劇場へ向かう。
稽古場に着くと、共演者たちはいつも通り談笑していた。
「おはようございます」
声をかけると、仲間たちは「おはよう」と返してくれる。
けれど――
誰かが、じっとこちらを見ている気がする。
共演者の誰か? それとも、スタッフ?
いや、きっと気のせい。
自分の考えすぎなのだと無理やり納得させ、彼女は稽古に集中しようとした。
けれど、台詞を口にした瞬間、違和感が走る。
「――探さないでください」
台詞の一部。しかし、言葉が口を離れた瞬間、自分の声がまるで別の誰かのもののように聞こえた。
「……真琴、大丈夫?」
共演者が心配そうに覗き込む。
「え、あ……うん、大丈夫」
苦笑してごまかした。
稽古が終わり、帰り道を歩く頃には、空はすっかり暗くなっていた。
夜風が肌を撫で、背筋に冷たい感触が走る。駅へ向かう途中、ふと、無意識のうちに後ろを振り返った。
――そこに、いた。
路地の影の中。黒いシルエット。顔は見えない。
けれど、その何者かは、確実に彼女を見ていた。
心臓が跳ねる。足がすくみ、動けない。
「……だれ?」
喉の奥で呟く。しかし、声にはならなかった。
次の瞬間。その影は、音もなく消えた。
「……っ!」
幻覚? それとも、本当に誰かがいた?頭の中で疑問が渦巻く。
彼女は震える足を無理やり動かし、マンションへ急いだ。
エントランスに入り、エレベーターのボタンを押す。
ドアが閉まる寸前、反射的に外を振り返る。
……誰もいない。
それでも、心のざわめきは消えなかった。
部屋に戻ると、急いで鍵をかける。息を整え、深呼吸をする。
大丈夫。大丈夫。何度も自分に言い聞かせる。
しかし。ポストを開けた瞬間、安堵は砕かれた。
――手紙。
真っ白な封筒。宛名はない。
「……なんで」
震える指で封を開ける。中には、たった一言だけ。
「君のことをずっと見ている」
ドクンッ。心臓が大きく跳ねた。
手紙を握る指が震える。部屋の静寂が、異様に重く感じる。
「……どうして」
投げ出したいのに、体が動かない。ゆっくりと顔を上げる。リビングの鏡を見る。
そこに映るのは、いつも通りの自分。……のはずだった。
しかし――
その目の奥に、誰かが潜んでいる気がした。
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――
白石真琴は震える手で手紙を掴み、何度も文面を見直した。
「君のことをずっと見ている」
その言葉は、これまでも何度も受け取ってきた。
警察や劇団の仲間に相談しても、「単なる悪戯じゃないか」と軽く流されるばかりだった。
――けれど。
こんなにも執拗に、確実に届き続ける「何か」が、偶然や気のせいで済まされるはずがない。誰かが、私を監視している。私のことを知っている誰かが。
膝の力が抜け、その場に崩れ落ちた。冷たい床が体温を奪っていく。
息を整えようと深く吸い込んでも、胸の奥に張り付いた恐怖が消えない。
「……もう、無理……」
こうして恐怖に支配されるのは、今日が初めてではなかった。
少しずつ、確実に、誰かが自分の周囲に忍び寄っていた。
ふと、視線を感じる。
――振り向く。
けれど、そこには誰もいない。それでも、確かに「何か」が見ている気がした。
このままでは、おかしくなってしまう。その考えが、彼女の頭を支配する。
もう耐えられない。だったら――逃げるしかない。
真琴は震える手でスマホを手に取り、SNSの画面を開いた。
無言のまま、指を動かす。
「探さないでください」
たったそれだけの言葉を打ち込み、送信ボタンを押した。投稿が完了する。
スマホの電源を落とす。
――これでいい。
いや、これしか方法はない。彼女は立ち上がり、荷物をまとめるために部屋を見渡した。目立たない格好。すぐに帰るつもりはない。どこか、人の目につかない場所で身を隠さなければならない。
クローゼットを開け、奥にしまっていたリュックを引っ張り出す。最低限の着替え、財布、スマホの充電器――必要なものだけを詰め込む。
部屋の電気を消し、静かに息を整えた。すると、ふと目に入ったものがあった。
リビングの鏡。
薄暗い部屋の中、わずかな光を反射し、そこに映るのは――自分の顔。
……いや、本当に「自分」だろうか?
鏡の中の自分を、じっと見つめる。
――この顔が、私のものじゃない気がする。
その感覚は、言葉にできないほど不気味だった。
鏡の向こうの自分が、まるで別の人間のように感じられる。
「……怖い……」
無意識にそう呟く。目を逸らす。もう、この部屋にはいられない。
深く息を吸い、玄関のドアを開けた。
マンションの廊下に出ると、静寂がやけに耳に響く。
鍵を閉める間も、背後に誰かがいる気がしてならなかった。
――早く、ここを出なきゃ。
エレベーターを使うのは怖かった。もし閉じ込められたら?もし誰かが待ち構えていたら?
そんな妄想が頭を支配する。だから、階段を使うことにした。
足音を殺しながら、一段ずつ慎重に降りる。
――そして、マンションの出口が見えたとき。
彼女の鼓動は、激しく跳ねた。そこに、人が立っている。
背の高い影が、じっとマンションの入り口の前でこちらを向いていた。
街灯に照らされたその人影は、不気味なほど静かに、微動だにしない。
顔は見えない。だが、確実にこちらを見ている。
真琴は、一瞬立ち止まった。
――ダメだ、逃げなきゃ。
踵を返し、非常口から裏手へ回る。息が詰まりそうだった。
誰かが、追ってきているかもしれない。後ろを振り向く勇気がなかった。
そのまま全力で走る。どこまで走ったのかもわからない。
気がつけば、見知らぬ駅の近くに立っていた。
「はぁ、はぁ……っ」
息が上がる。手のひらが汗で湿っている。
とにかく電車に乗ろう。どこでもいい。とにかく、この街から離れなければ。
彼女は切符を買い、改札をくぐる。ホームに立つ。やってきた電車に飛び乗る。
ドアが閉まる直前、外をちらりと見た。
――そこには、誰もいなかった。
座席に腰を下ろし、リュックを抱え込む。
電車は静かに走り出す。外の景色が、流れていく。
「……これで、大丈夫……」
震える声で呟く。
しかし――本当に?不安は、まだ消えなかった。
スマホを取り出し、もう一度自分の投稿を見た。
「探さないでください」
その言葉が、まるで自分自身に向けられているような気がしてならなかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます