1夜飾り

藍星めいと

3月2日の決意

別に好きでもないアーティストの曲のインストゥルメンタルバージョンが狂ったように繰り返し流れているのに嫌気が差して初めて、私がずっとスーパーで意味もなくうろうろしていることに気付いた。ふとスマホで時間を確認するともう6時を過ぎていて、思わずスマートフォンの液晶を凝視してしまった。外はもう日が沈み明けていて、絹鼠色の空が顔を出している。私は買い物メモを見ながら駆け足で店内をまわり、野菜や特売のお肉を手に取った。買い物かごを右手で背負ってレジに向かう途中、なんとはなしに横のお菓子コーナーを見た。

 そこには、『ひなあられセール!』と手書きでポップに書かれた文字があって、その下には小振りだけど綺麗なひな壇、そしてすぐそばのエンドに袋入りのひなあられが大量にあった。

 私はそれを見た途端、時間が止まったように固まってしまった。そっか、もうこんな季節なんだ。娘を亡くしてから忙しさで誤魔化し続けてきた自分の心のなかにそれはあまりにも鮮明に映って、私はただぼぉっと突っ立っていることしかできなかった。

 私の娘は快活な子だった。晴れの日はいつも公園に行って走り回るような、元気で太陽みたいな存在の子だった。元気な分しょっちゅう怪我をするから、毎年私たちは3段のひな壇を飾り、二人でひなあられを食べて健康に過ごせますようにってお互い言い合っていた。

 一ヶ月前だったかな。私が料理を作ってたときに突然、知らない番号から電話がかかってきた。病院からだった。事故だ、と、すでに病院に搬送されて死亡が確認された、と。あとから聞いた話によると、娘は学校から走って帰る途中道に飛び出してしまい、そのまま車に轢かれてしまったらしい。

 あの日から、私の時間は止まっている。私は半分死んでいる。あの子のいない日常を、まだ私は見ていない。見つめられない。

 正直、もうひな祭りなんてやらないつもりだった。時の流れに身をまかせてそのままぼんやりと過ぎていくものだと思っていた。

ただ、私が捨てようとしていたものは、今目の先にある。私は1歩ずつ前に進んで、商品棚に手を伸ばし、明らかに1人用のサイズでは無いひなあられの袋を手に取った。少しぼんやりと見つめて、私はゆっくりとそれを買い物かごの中に入れた。

 私はまたエンドにひなあられを戻してしまうことのないように駆け足でレジまで向かい、素早く会計を済ませて家に帰った。

「ただいま」

 私の声はすぐに部屋の空気の中に蒸発してしまった。

 少し前までは元気な「おかえり」って声が帰ってきてたのにな、って思う。忘れようとしていた感情が波のように押し寄せてきて歩くのもままならなかったけれど、ここで止まったらあの子に顔向けできないよと自分に言い聞かせてリビングまで歩いた。

 娘の遺影はリビングの隅に供えてある。テレビを見るのも好きだったから、テレビの見える位置に置こうって夫と話し合って決めた。写真の中のあの子は溢れんばかりの笑顔でピースをしている。私はいつものようにご飯とお水を供えた。そして手を合わせた。

いつもだったらここで終わるんだけど、今日は物置で眠り、埃被っていたひな壇を取り出して、丁寧に汚れを拭き取ってから娘の遺影の前にことんと置いた。

 今日は3月2日。ひな祭りの前日にひな壇を飾るのは1夜飾りと言って、葬式や告別式を連想させて縁起が悪いとされている。ただ、私はそれが良かった。いつまでも引きずったままだと、あの子も天国に行けないかもしれない。ここであの子を送り出さなきゃなと思って、私はひな壇を飾った。静かだった。蛍光灯は私だけを照らしていた。

 買い物袋からひなあられを取り出して、供えた。私も小分けになっている袋を開けて口に入れた。甘すぎない、心にじわぁって染みてくるような味だ。一粒一粒食べていくたびに、胸がいっぱいになっていく。娘の顔を見ながら、最後のひと粒まで口に入れた。

 天国で元気に暮らしていますように。そう願って、私はもう一度手を合わせた。これであの子をやっと送り出せた気がする。ふぅ、と息を吐いて立ち上がった。ちょうどその時、夫が帰ってきてひな壇の存在に気がついた。夫は優しく微笑んでいた。遺影の中に映る娘は、誰よりも眩しかった。

 次の日、仏壇を覗くと、供えていたひなあられは、ひと粒も減っていなかった。

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1夜飾り 藍星めいと @Aiseimeito

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