第29話

「すまない、止まってくれ!」


「どーう、どうどう!」


 馬のいななきと、それを宥めようとする御者の声が響く。そしてそれはすぐに怒鳴り声に変わった。


「こんな道の真ん中で何やってんだ!」


「俺の馬が急に倒れちまったんだ……おい、頑張ってくれよ。お前にはまだ働いてもらわないといけねぇんだぞ」


「ちっ、しょうがねぇな」


 馬はどうしようもないと判断した御者が御者台から降り、馬車の中にいる人物に話しかける。


「すみません教導師様、少し待っててくだせぇ」


「きょ、教導師様の馬車でしたか……本当に迷惑をかけてすまない」


「まったくだ!」


 ダニエルの演技をすっかり信じ込んでしまった御者は、道から外れて舗装されていない草地を踏んで地面の硬さを確かめている。柔らかい地面だと馬車の重さで車輪がはまってしまうことがあるのだ。


 エドガーは乗っている人物が教導師様と呼ばれた時点で、伏せたまま音もなく馬車に近寄っていた。ダニエルが御者の気をそらしてくれているので、容易く馬車の後方に回り込むと気配を殺す。少しだけ顔を覗かせてダニエルに目配せをしたエドガーは、唯一開いている小窓に意識を集中した。


 ――こちらからでは分が悪いな。


 エドガーはダニエルの馬を指差し、「騒がせろ」と口の動きだけで伝える。ダニエルが馬を心配するふりをして手綱を引っ張ると、驚いた馬が鼻を鳴らしてバタバタと暴れ出した。


「何をやっている」


 騒がしい様子が気になったのか、小窓から中の人物が顔を出した。柔和な表情こそないが、間違いなくディーケン教導師だ。しかし聖職者に似つかわしくないものを小窓から覗かせている。黒く光る鈍い輝きは、エドガーの手の中にあるものと同じ――拳銃だった。


「地面を確認しておりまして、こ、この分ならゆっくり行けば大丈夫そうです」


「教導師様! 俺のせいで、申し訳ありません」


 ダニエルがうまく気を逸らせてくれているので、教導師はまったく後方に注意を向けていない。追っ手も何も気にしていないようで、それは既にレインリットを誰かに引き渡した後だということを示していた。

 エドガーは、怒りから飛びかかりそうになる身体を抑え、ゆっくり深く呼吸を整える。


 ――ソランスターの屋敷に連れて行ったにしては早い……ディーケンめ、早馬を出したな?


 大方、教導師の早馬の報せを受けたウィリアム・キーブルが、ソランスターから迎えを寄越したのだろう。教導師はその役目を果たし、何も知らぬ体を装って教会へと戻るつもりだ。エドガーは腹に力を入れ中腰になる。そして一呼吸の間に素早く小窓に近寄ると、迷うことなく教導師の頭に銃を突きつけた。


「動くな、撃鉄は上がっている」


「お、お前は」


「頭を打ち抜かれたくなかったら、武器を窓から捨てろ」


 歯を食いしばり悔しそうに顔を歪めた教導師が、小窓から小振りの銃を落とす。しかし、エドガーはさらに銃を押しつけ、顎をしゃくった。


「全部出せ」


「随分と手慣れているようだね。ただの優男じゃなかったということか」


 教導師はこれ見よがしに溜息をつく。馬車の前ではダニエルが御者を取り押さえ、シャツを割いて縛り上げていた。それを見ても降参する意思がないようなので、エドガーは表情を変えることなく引鉄ひきがねを引いた。パンッという乾いた音がして馬車の向こう側に穴が空き、火薬の匂いがふわりと漂う。


「次はどこがいいか?」


 エドガーは再び教導師の額の真ん中に紫煙をくゆらせた銃口を突きつけ、撃鉄を起こした。額に脂汗をにじませた教導師が、短剣を二本、震える手で窓の外に捨てる。


「さて、ディーケン教導師様……彼女はどこへ?」


「……」


「仕方ない。そっちを吐かせろ!」


 だんまりを決め込む教導師に、エドガーはあっさりと対象を変える。時間がかかれば誰かに見られる確率が高くなる。教導師からは後でじっくりと聞き出せばいい。エドガーの指示に、ダニエルが御者にを言うと、御者は悲鳴を上げてあっさりと吐いた。


「あ、あの女は、ソランスターから迎えに来た軍人たちに、ひ、引き渡した! それだけだ、俺は、連れて行っただけだっ!」


「だそうだ、ディーケン教導師様。もう少し信頼できる者を使うべきだったな」


 引きつった表情のままもはや悪態すらつけない教導師を後ろ手に縛り、ダニエルが御者を担いで馬車に押し込む。見張りのために馬車に乗ったエドガーは、乗ってきた馬を解き放ったダニエルを御者に据えてノックガル港へと進路を変えた。




 ◇




 軟禁されてから何日目なのだろう。多分、五日は経っているのではないか、とレインリットはランプの火を見つめ続ける。暗いままだと気が狂いそうだと訴えたところ、無口な従僕が食事と共にランプを持ってきた。それは以前兄の部屋にあったもので、レインリットは首から下げていた妖精のチャームを取り出すと光にかざす。


 ――こんな形でしか戻って来れなかったけれど……お帰りなさい、ファーガル兄様。


 本当であれば父親と一緒に出迎えてあげたかった。こんなことにならなければ、いつかエドガーが訪ねて来てくれていたかもしれなかったのに、と考えて何回目かもわからない溜息がこぼれた。


 ウィリアム・キーブルは、あれから一度だけレインリットの様子を見に来たっきりだ。怯えている様子が見たかったのか、レインリットが平然としていることが気に入らなかったようで、罵詈雑言を喚いて出て行った。


 ――使用人たちがすっかり怯えているわ。


 レインリットの世話を担当する使用人たちは、皆一様に余計な口を開かない。そう命令されているのか、レインリットと会話をすることを極力避けていた。この部屋から出る時は軍人もついてくるが、彼らもほとんど話さない。きっと、ウィリアム・キーブルが命令を聞かない者に罰を与えているのだろう。ウィリアムの名前を出すと、使用人たちは顔色を青くして俯いてしまう。


 ――エドガー様、私はこれからどうすればいいのですか。


 レインリットは妖精のチャームを撫でながら、エドガーのことを考えた。ここまで協力してくれたエドガーも、これ以上の危険をおかしてまで助けに来てくれるだろうか。ソルダニア帝国の伯爵という肩書きがあるエドガーには、たくさんの義務と責任がある。


 目を閉じれば、あの銀色の瞳を鮮明に思い出す。優しい光を灯したり、激しい感情に揺さぶられたり、情熱を込めたり。言葉よりも雄弁に語る、記憶の中の瞳は今、レインリットにくじけるなと言ってくれているように感じる。


 ――はい、エドガー様。私は第十六代ソランスター伯の娘、最後まであきらめません。


 その時、扉を叩く音が響いて顔を俯けた使用人が入ってきた。チャームを胸元にしまったレインリットは、平静を装って使用人を見据える。


 ――また違う使用人……いったい何人の使用人たちがいるの?


 白い頭巾で髪を覆った女性の使用人が、レインリットの食事を準備していく。パンに具の少ないスープだけという粗末なものだが、食べなければ力が湧かない、とレインリットはただ一心に腹に詰め込んだ。


「あっ」


 水を注ごうとした使用人が、水差しごと倒してしまった。慌てて前掛けで水を拭き取る使用人を手伝い、レインリットも布巾を持って床にしゃがみ込む。すると、その手首を使用人がはっしと握ってきた。自分の仕事だと主張しているのだろうか、と顔を上げたレインリットは、その使用人の顔を見て驚いた。


 ――エファ?!


 変装をしているのか、頭巾から見える髪色はエファの茶色とは違う黒い巻き毛だが、確かにエファだ。心なしか目が釣り上がり、目元や口元に皺が見えて幾分か年を取っているようにも思えるが……。

 レインリットが声に出さずに名前を呼ぶと、その使用人は目を閉じた。そして袖口から小さな紙片を見せてくる。素早くそれを見たレインリットは、涙がにじんでくる目をパチパチと瞬かせてごまかそうと努力した。


『必ず助け出す。待っていてくれ』


 エファはレインリットにわずかに頷くと、床にこぼれた水にその紙を落とす。すると、紙はみるみるうちに水に溶けてしまった。


 結局、会話を交わすことなく食事を終えてしまったが、レインリットは失われそうになっていた勇気が湧いてくるのを感じていた。誰が書いたのか示すものは何も記されていなかったが、あの力強い筆跡はエドガーのものだ。エドガーとエファの二人が、危険を犯してまで自分を救い出そうとしてくれていることに胸がいっぱいになる。

 レインリットは胸元のチャームではなく、エドガーが付けてくれた赤い印に手を当てた。消えかかってはいるが、確かにまだそこにエドガーの痕跡が残っている。


 ――エドガー様。


 自分も何かできることはないか、とレインリットは考え始める。そしてここに閉じ込められてから初めて、自分からウィリアムに会って話がしたいと申し出た。

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