第17話

自分の唇に感じる熱くて柔らかな何か。それがエドガーの唇だと気づいたレインリットは、反射的に逃れようとしてエドガーの胸を押し返す。しかし、片手を掴まれているので思うように力が入らない。


 ――私、またキスされてる?


 息苦しさから口を開くと、キスがもっと深くなる。 エドガーの息遣いに、レインリットの身体が勝手にピクリと反応した。うやむやになってしまった最初のキスより濃密で、レインリットは戸惑いながらも唇を受け入れてしまっていた。

 合間に息をついたエドガーが、自分の鼻先をレインリットの鼻先に擦り付けてくる。そして、囁くような声を出してきた。


「レイン、レインリット……次に君がダンスを踊るのは、私とだ。私以外に誰とも踊らないでくれ」


「そんなこと……エドガー様、私に、何故キスを」


「約束はしてくれないのか?」


「し、知りません!」


 エドガーが唇を離した隙にレインリットが顔を背けると、今度は抵抗されなかった。顎から手を離したエドガーが、レインリットの肩に額を押し当てて荒い息をつく。


「……まいったな、もう少しうまく立ち回れるはずだったのに」


 レインリットの耳元で、エドガーの囁くような低い声が紡がれた。甘えるような仕草で擦り寄られ、エドガーからキスをされたという事実がレインリットをじわじわと絡めとっていく。


「エドガー様、酔っていらっしゃるのですね」


 唇に残るわずかな酒の味が、レインリットまで酔わせてしまったようだ。ぽわぽわとした熱が全身に回り、エドガーから伝わってくる体温が心地よく感じられたレインリットは、おずおずとその広い背中に腕を回す。しばらくの間お互いに抱き合っていた二人だったが、急に流れ込んできた冷たい川風が合図となり、抱擁を解いた。


「嫌だったか?」


 流れるような動作で立ち上がったエドガーが、レインリットの手を掴んでぐいっと引き寄せた。エドガーの胸に頬を寄せる形となったレインリットの耳に、自分のものとは違う心音が聞こえてくる。今度のキスは、エドガーもうやむやにするつもりはないようだ。


「嫌では……ありません、けれどその、よくわからなくて」


 自分と同じように緊張しているらしいエドガーが、はっと短く息をついた。本当は、そのキスがどういう意味を持っているか、わからないわけではない。いつか素敵な貴公子が、と子供の頃にお伽話に憧れを抱いていた女性であれば、誰しも知っていることだ。

 レインリットには、それを素直に受け入れることができなかった。自分の気持ちすら曖昧で、それ以前に色恋にうつつを抜かしては駄目だという戒めが、突き詰めることを拒む。


「では、私は君を困らせているか?」


「困るわけでは……そ、そんなに見られては、落ち着きません」


「そうか、それは困ったな。私は君を見ていたいんだが」


 柔らかく微笑んだエドガーが、またもや顔を近づけてくる。乱れた銀色の髪が額にかかり、月明かりによる印影のせいで大人の艶っぽさが増していく。その吐息を感じる距離まで縮まった瞬間、レインリットは両手を突き出した。


「あっ、や、やっぱり、困ります!」


 再びキスされると感じたレインリットは、とっさにエドガーの唇を両手で押さえた。手のひらに熱くて柔らかな感触がして、これが先ほど自分の唇を覆っていたのかと思うと叫びだしたくなる。


「レイン?」


「このように、親密なキスは、夫婦や恋人同士がするものです!」


 エドガーが自分のことを好きだ、と言うことすらまだ受け入れられないというのに。淑女としてはしたないと感じる気持ちの方が強いレインリットは、急に力が抜けたエドガーから身をよじって距離を開けた。固まってしまったように動かないエドガーに、雰囲気に流されまいと意思を強く持ったレインリットが続ける。


「エドガー様のことは、頼り甲斐があって、優しくて、素敵な方だと思います。時々、困ったことに、少し胸がドキドキしてしまいすが」


「そうか、もっとたくさんドキドキすればいいのに」


「エドガー様っ、私の心臓が壊れてしまったらどうするのですか!」


 ドキドキしたり、痛んだり、苦しくなったり。レインリットの心臓は、エドガーと出逢ってからとても奇妙な動きをみせるのだ。病気じゃないかと心配するくらい、今も外に音が聞こえているかもしれないと思うくらいに激しく鳴っている。


「それは困るな。うん、困る」


 しかし、月明かりに怪しく輝く銀色の目を向けたエドガーは、言葉とは裏腹に少しも困った素振りも見せず、レインリットを見つめていた。


 そうして押し問答をしているうちにレインリットは再び抱き寄せられてしまった。エドガーの手はレインリットの背中から腰を上下に撫で続けてくる。時々かすめるように腰のあたりで指が蠢くと、レインリットの身体が勝手に反応してビクンと跳ねた。


「……どうすれば君の信頼を勝ち得ることができるのだろうな」


 溜息と共に先ほどと同じように肩に顔を埋められ、レインリットはその悩ましげな熱い吐息を肩に感じて震える。しかし嫌な気持ちにはならず、甘えるように額を擦り付けるエドガーを、何故か可愛いとさえ思えてしまう。おずおずと手を持ち上げたレインリットは、エドガーの広い背中に手を伸ばした。


「私は、エドガー様のことを信じています」


「そうかな」


「はい。エドガー様だからこそ、私は本当の名前も告げました。何より、最初に助けていただいた時から、称号に誓ってくださいましたではありませんか」


 貴族が自身の称号に誓うことは、そうそうできるものではない。名誉をかけることになり、その誓いが破られた時には不名誉を被ることになるからだ。だからおいそれと簡単に称号を持ち出すことはない。


「過信しすぎるのも考えものだが、君からそう言われると嬉しい」


 エドガーのくぐもった声には、確かに喜色が感じられた。レインリットの背中を這う手に力が入り、グッと引き寄せられる。


「では、君を好きだと言うこの気持ちも信じてくれ……レイン、レインリット、どうしたら伝わる? どうしたら、君も私のことを好きになってくれる?」


「エドガー様、私……私は」


 顔を上げたエドガーが、銀色の瞳に熱を込めて見つめてくる。言葉に詰まったレインリットは、その目や端正な顔を間近で見てしまい、顔が火照ってしまった。風が吹くたびに漂う女性ものの香水の香りを、嫌だと感じるのはどうしてだろう。夜会でたくさんの女性からダンスに誘われるエドガーを想像しただけで、自分の心にもやもやとした暗い感情が湧き上がってくるのはどうしてだろう。

 今この月明かりの下で、レインリットは伯爵令嬢としての責務や矜持を放り出してエドガーにすがりたくなった。この告白を受け入れて、何も考えずに二人寄り添えたならば。


「君は、美しい」


 レインリットのほつれた紅い髪を一筋、エドガーがすくい上げる。くるくると弄び、長い指に巻き付けると、エドガーはそれを自分の唇に当ててキスをした。


「貴族たれとあらんとするその心意気も、凛と佇む姿勢も、意志の強い眼差しも」


 髪を離したエドガーの手が、そのままレインリットの頬に添えられる。指腹が優しく頬を滑り、レインリットは煩いくらいに鳴り響く心音がバレやしないかと緊張に身を強張らせた。瞼、鼻筋、顎、と、ゆっくりゆっくりと撫でるエドガーは、ジッとある一点に姿勢を定めている。


「キスがしたい」


「い、いけません」


「何故? 君のその魅力的な唇と瞳は、そうは言っていないが」


 抗議をしようと開いたレインリットの唇に、エドガーの指が触れる。するりと滑り込んできた指先を噛むわけにもいかず、押し出そうとして舌先を指に当てると、エドガーが色気溢れる笑みを浮かべた。

 一方、レインリットは少しがさつくエドガーの指先を図らずも舐めてしまい、どうすることもできずに固まってしまった。自分がとてつもなく背徳的なことをしているように思えてくる。目頭が熱くなり、何故かわからない涙が込み上げてきたレインリットは、この状況から助けて欲しくて、原因たるエドガーに救いを求めた。


「……泣くほど、嫌……だったか」


 その涙に気づいたエドガーが切なげな表情になり、レインリットの唇から指を抜く。そして抱擁を解くと距離を置いた。


「無理強いをするつもりはなかった。すまない、このことは忘れてくれ」


 そう言うと、エドガーは立ち上がる。そして呆然としたままのレインリットに手を差し伸べる。月明かりの影になりその顔は暗くて見えないが、レインリットはその手が僅かに震えているように見えた。


 ――エドガー様も、緊張している?


 レインリットが知るエドガーは、レイウォルド伯爵に相応しく、自信に溢れる紳士然とした男性だった。少し強引だと感じることもあるが、その強引さが間違った方向に進むこともない。何より、亡き兄ファーガルが、家のことを話したり愚痴をこぼすくらいに信頼していた人である。使用人たちの忠誠はエドガーの人柄に捧げられており、まさに理想的な貴族だと言えよう。そのエドガーが、成人したばかりの自分を相手に緊張することなどあるのだろうか。

 レインリットが手を取ると、エドガーが身体をビクリと揺らした。


「エドガー様……私には、すべきことがあるのです」


 その手をギュッと握ったレインリットは、迷う心を正直に告げる。自分でもどうしたらいいのかわからないこの気持ちを、誤解して欲しくはなかった。


「ソランスターを取り戻して父の汚名を晴らすことが私の望みだというのに」


 それ以外を望んでしまうことに罪悪感を覚え、しかし、惹かれる心は止めることなどできはしない。


「エドガー様、私は、お側にいたいと、でも、これ以上貴方に頼れば、いずれ訪れる別れが怖いと、そう思うのです」


「レインリット」


「こんな風にして出逢わなければ、夢を見ていられたのでしょうか」


 そう告げた瞬間、レインリットは力強い手に引き上げられ、あっという間にエドガーの腕の中にいた。

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