第10話

エファからああ言われたものの、やはり心配になったレインリットは、レイウォルド伯爵に丁重に断り部屋に戻った。


「メアリ様、丁度よくお戻りになられました。エファ様を説得なさってくださいませんか」


 レインリットの姿を見て、侍女がホッとした表情を浮かべる。何事かと思いエファの姿を探すと、寝室の方から何やら声が聞こえてきた。


「私が寝台で寝るなんて! ソファで構いません!」


「エファ様、お熱が上がってしまいます。安静にしなければ」


「私はこれくらいのことで倒れるわけには……」


「今はお休みください」


 天蓋付きの豪華な寝台の側で、締めつけが緩やかな部屋着に着替えたエファと薬袋を持った年配の家政婦が何やら押し問答をしている。話の内容からして本当に具合が悪かったようだ。そういえば今朝、いつもレインリットより先に起きていたエファが、珍しく起きていなかったことを思い出す。


「その通りよ。休まないと本当に倒れてしまうわ」


 レインリットの姿を見たエファが、絨毯の上に座り込む。言い合っていたせいか心なしか頬が赤いが、それ以外は白く血の気がない。それに、いつもより目が潤んでいるように思える。きつそうなエファの様子に、レインリットは自分の額に手を当てると、その反対の手で額に触れた。


「お願い、言うことを聞いて」


 先ほどの居間でのやり取りは、熱があることを隠そうとしてのことだったようだ。レインリットの言葉に、それでもエファには譲れないものがあるのか、ゆっくりと首を横に振る。


「熱があるのであればなおさらです。病気をうつすわけにはいきませんので、私を別の部屋に隔離してくださいませ」


「ここなら私が看病できるわ」


が看病など、そんなことはさせられません!」


 咄嗟に大きな声を出したエファは、頭に響いたのか額を押さえて呻き声を上げた。こんなことをしている場合ではない、とレインリットは侍女に頼んで無理矢理寝台に押し込める。熱で苦しいのか、ポロポロと泣き出したエファの目頭をハンカチーフで拭い、レインリットはほつれた髪を直してあげた。




 ◇




 結局エファは別の部屋で休むことになり、薬を飲んで落ち着いた頃には夕方になっていた。ようやく眠りに落ちたエファの側から離れ、レインリットは最初に充てがわれた客室に戻る。ソファに座り考えごとをしていたところ、ほどなくして扉を叩く音が聞こえた。


「どうぞ」


 レインリットが顔を上げると、入ってきたのは侍女ではなくレイウォルド伯爵であった。慌てて立ち上がったレインリットを手で制し、振り返って待機している侍女に目配せをする。


「看病で疲れただろう。少し一息入れた方がいい」


 机の上に用意されていくカップや軽い軽食に、レインリットは伯爵が自分のためにわざわざ持って来てくれたことに気づいた。


「さあ、座って」


「伯爵様、私……なんと言っていいのか」


「エファは侍女たちが責任を持って看病するよ。決して無理をしないでくれ。君まで倒れてしまう」


 お茶の香りが鼻腔をくすぐり、レインリットは自分のお腹が空いていたことを知る。壁際の柱時計は午後五時を指していて、晩餐までにはまだ時間があるようだ。伯爵の正面に座ったレインリットは、伯爵にならってお茶を一口飲んだ。温かいものが胃に落ち、緊張が解かれていく。


「彼女は身体が弱かったりするのかい?」


「いえ、そのようなことは……旅疲れが出たのかもしれません。国を出てからずっと私を支えてくれていましたから」


 いつのまにか、部屋には二人だけになっていた。気まずさからレインリットはわずかに目を逸らす。エファがいないことで急に心細くなると共に、小さな嘘を積み重ねていくことにより心苦しくなる。そんなレインリットの様子を気にしたのだろう。レイウォルド伯爵が気遣わしげに顔を覗き込んできた。


「メアリ、君が気に病むことはない」


「伯爵様」


「エドガーだ」


「えっ?」


「エドガー・レナルド・フォーサイス。エドガーと呼んでくれ」


 レイウォルド伯爵――エドガーの銀の瞳がレインリットを捉える。この目に捕まると心が騒めくので苦手だった。立ち上がり、すぐ側まで近づいてきていたエドガーが、手袋をつけたレインリットの右手を取る。ただそれだけのことなのに、心臓が痛いほど鳴り響いた。


「メアリ……何が君をそこまで追い詰める? その瞳に潜む憂いを、どうやったら晴らすことができるんだ?」


 手袋の上から手の甲を撫でられ、レインリットの身体に経験したことがないような痺れが走る。昨夜、酔っ払いの一人に手を掴まれた時には嫌悪しかなかった。エドガーに触れられると、くすぐったいような、変な気分になる。


「君たちが何故二人で逃げなければならなくなったのか、本当の理由を聞かせてくれないか」


 答えないレインリットに、真剣な表情のエドガーが低い声を出す。この諭すような声が、素直になれと言っているように耳に響く。

 クロナンの追っ手に怯える日々は、思いのほかレインリットの神経をすり減らしていた。助けを求めようにも、知らない土地に知らない人たちの中では誰に頼ってよいのかすらわからない。元家令のマクマーンの行方も知れず、このままエーレグランツという大都市に飲み込まれてしまうかもしれない、という漠然とした不安が常につきまとっている。


 そろそろとエドガーに目を移したレインリットは、鳴り止まない心臓を隠すように両手で胸を押さえた。


「私がどこの誰であるか、聞かないでいてくれますか?」


 レインリットは震える声で続ける。


「もし、何かあったとしても、私たちのことは名前すら知らなかったとおっしゃってください」


「そんなに危険な状況なのか? それならば尚のこと力になりたい」


 エドガーの手に力が入り、掴まれたままのレインリットの手に痛みが走る。それでも、約束してくれるまで譲れなかった。


「私たちに関わることで、伯爵様にこれ以上……」


「エドガーだよ、メアリ」


 エドガーに遮られ、レインリットは言葉に詰まる。


「君にはそう呼ばれたい。何故とは聞かないでくれ……自分でもよくわからないんだ」


 急に声を落として拗ねたように吐き捨てたエドガーは、頬を赤らめて睨みつけるようにレインリットを見た。照れているのだろうか。エドガーはどこか子供っぽい仕草で髪をかき上げる。


「エ、エドガー、様」


 レインリットがそう呼ぶと、エドガーは満足したのか、大きく頷いて表情を緩めた。その微笑みに、レインリットは顔が熱くなるのを感じた。


「なんだい、メアリ」


「エドガー様は、ずるくていらっしゃいます」


「私がずるい?」


「何故、見ず知らずの、怪しい身なりの私たちに、そこまでしてくださるのです」


 気まぐれだとか、慈善家だとか、そんなことでは言い表わせないくらいに心を砕いてもらっている。何か明確な理由があるのでは、と思っていたレインリットに、エドガーは意外なことを話し出した。


「君は知らないだろうけれど、私はこれでも社交界では引く手数多でね。話題に富んでいて、洗練されていて、色男、なんて言われているが、本当は田舎で馬を駆っている方が好きな、地味な男さ」


 恥ずかしいのか、あらぬ方向を向くエドガーは、耳まで真っ赤になっている。


「社交界の華やかな舞台より、どんなに着飾った女性より……私は、腕の中に落ちてきた君の方が気になるんだ。目の前で泣くのを我慢している健気な女性を助けたい、と思うことは、そんなにおかしなことだろうか」


 再びエドガーがレインリットに目を合わせてきた時、大きな緑色の瞳からほろりと涙が溢れ出た。エドガーの前で泣いてしまうのは二度目だ。旅の途中でどんなに辛くても泣いたことはなかったというのに、エドガーにかかればあっという間に弱くなってしまう。家族以外の異性からこんなに心乱されることなどなかったレインリットは、その優しさにすがりつきたくなった。


「君たちを困らせるようなことはしない。少しずつでもいいから、私に話してくれ」


 昨夜とは違い、ハンカチーフで直接涙を拭ってくれたエドガーは、レインリットに「泣かないで」とは言わなかった。そろそろと背中に手を回してきて、労わるように撫でてくれる。温かな腕が心地よい。仄かに香るエドガーの匂いを、もっと嗅いでいたくなる。

 泣き止むまでそうしてくれていたエドガーに、頑なだったレインリットの心が次第に溶けていった。


「エ、エドガー様、きちんと、お話しします」


 もうこれ以上、エドガーに対して嘘をつきたくない。体調を崩してしまったエファのこともある。レインリットのために人生を投げ打ってくれた彼女のためにも、これ以上嘘をつき通せとは言えない。そして真摯な姿勢で手を差し伸べてくれるエドガーにも、誠実に向き合うべきだ。


「出自については、やはり話せません。でも、それ以外のことであれば、なんなりとお聞きくださいませ」


 レインリットは、決意を秘めてエドガーの手を取った。

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