第9話
控えめなノックの音がどこかから聞こえる。
レインリットはぼんやりとした意識を浮上させ、状況を把握すると勢いよく起き上がった。
「エファ、エファ起きて!」
向かいのソファで眠るエファに声をかけると、急いで扉まで駆け寄って隙間を開ける。廊下には昨夜の年配の家政婦がいた。
「ごめんなさい、今何時ですか?」
「おはようございます。朝八時を少し過ぎたばかりでございます。よろしければ、お着替えの方を」
「自分たちだけで十分です」
大したドレスでもないので、むしろ手伝ってもらう方が申し訳ない。レインリットの後ろでは、同じく目が覚めたばかりのエファが慌ただしくシーツを畳んでいた。
「旦那様からこちらを預かっておりますので、中に入れてもよろしゅうございますでしょうか」
どうやら何か大きな荷物があるらしい。失礼にならないようにケープを羽織ったレインリットは、家政婦のために扉を開ける。すると廊下に控えていた二人の侍女と、昨夜は見かけなかった下女たちが大きな箱を抱えて入ってきた。
「こちらのドレスをお召しくださいませ」
下女たちが出て行った後、侍女の手によって次々とかけられていくドレスの数に、レインリットとエファは目を丸くして驚いた。流行のドレスや、レースをふんだんに使用したドレス、色の濃いドレスは乗馬用だろうか。併せて帽子、靴なども取り出され、部屋の中はさながらドレスの見本市のようになった。
「わ、私がこのようなドレスを着るわけにはいきません!」
侍女であるエファが辞退を申し出る。レインリットもドレスに見入っていたものの、エファと同じだという意思表示のために頷いた。
「旦那様のご指示にございます。ご希望がなければそこの侍女が相応しいものを選びますので、お着替えくださいませ」
家政婦は、主人たるレイウォルド伯爵の命に忠実に仕事をしているようだ。ここで押し問答をしていても仕方がなく、レインリットはエファに向かって小さく首を横に振る。「諦めなさい」と声を出さずに口だけ動かすと、エファが渋々受け入れた。
「私たちは、こちらの流行やしきたりなどに明るくありません。どうか、伯爵様のお心遣いに恥ずかしくないようにしていただけませんか?」
レインリットがそう伝えると、家政婦は満足そうに頷いて、侍女に指示を出した。
◇
部屋の中央に置かれたソファにゆったりと腰をかけ、新聞を読んでいたレイウォルド伯爵が、レインリットたちに顔を向けて目を見張る。彼女の緑の瞳と伯爵の銀の瞳が交差し、この場所に二人だけしかいないような錯覚に囚われる。
どれくらいの間そうしていたのだろうか。伯爵が慌てて視線を逸らし、二人を出迎えるために立ち上がった。
「お嬢様方、気分はいかがかな?」
「伯爵様……お心遣いに感謝申し上げます」
着替えの後、部屋で朝食を食べた二人は急に増えたドレスを選別し終えた後、侍女の案内によりレイウォルド伯爵が待つ居間に来ていた。朝から隙のない姿の伯爵は、先ほどの一瞬などなかったかのように朗らかに笑うと、ソファに座るように促す。
「二人ともよく似合っているよ」
「ありがとうございます。シャナスではまだ流行っていなかったので、少し得をした気分です」
レインリットは襟元まで詰めた、小花柄の薄い緑色のドレスを選んでもらった。袖が肘のあたりから広がっている袖は、ひらひらしていて何かに引っかけないか心配になる。背後にのみ膨らませた不思議な形のドレスは、座るのにコツがいる仕様だった。
一方、エファは水色のドレスで、胸元についた同色のリボンが可愛らしいものだ。ドレスに合わせて髪も結ってもらい、レインリットは久しぶりの貴族の装いが嬉しくもあり、複雑な心境になる。
「妹のものだったんだけれど、昨年結婚して置いていってしまったんだ。もう使う人がいないから遠慮なく着倒してくれないかな?」
「伯爵様、私たちのためにそのように……」
「まさか私が着るわけにはいかないだろう? 私を助けると思って頼むよ」
これ以上拒否の言葉を続けられず、レインリットは声に出さずに頷いた。
「エファもくつろいでくれ。昨日からずっと緊張しっぱなしのようだけれど、私は無害だよ」
レイウォルド伯爵とはもっぱらレインリットが会話をしていたので、急に話を振られたエファが「ひゃ」と変な悲鳴をあげた。従姉妹という設定だが、エファは貴族ではなく侍女だ。伯爵と直に会話することがかなり負担になっているようで、スカート部分を握りしめて助けを求めるような顔をした。
「伯爵様。姉様は、少しばかり人見知りなのです」
レインリットも我ながら苦しい言い訳だとは思ったが、これしか言いようがない。シャナス公国出身のどこかの令嬢とばれた時点で、打ち明けていればよかったかもしれない。しかし、こんな風に自分を偽ること自体が初めての二人には、機転をきかせることができなかったので仕方がなかった。
「そうだったのか。無理をしなくていいからね、エファ」
「は、はい」
咄嗟にごまかしたレインリットを、伯爵は不審に思わなかったようだ。なんとかなったと息を吐き出した二人に、伯爵が興味深そうに聞いてくる。
「二人はとても仲がいいんだね。その、メアリがエーレグランツに来なければならなくなった原因は、その、まさかエファの家族の誰かかい?」
「違います! あの男は、父が他界する直前にいきなり現れた父の異母弟を名乗る男です。エファ、姉様の家族は、べ、別のところに働きに出ていて、一緒ではないので」
「そうか、それは失礼した……しかし、お父君の異母弟とは。結婚相手を充てがうことができるくらいだ、その男がメアリの後見人?」
それはレインリットも知りたいことだ。何の権利があってクロナンはソランスターの屋敷を乗っ取ったのか。しかし、それをレイウォルド伯爵にどうこうしてもらう義理はない。昨晩の馬車でのやり取りのとおり、
「実は私は、後見人が誰か知らないのです」
「不躾な質問をして申し訳なかった。何か君たちの役に立てないかと思っていたんだけれど、詮索するつもはなかったんだ」
「いえ……私たちの問題を伯爵様にお任せするわけには参りません。そのお気持ちだけで十分でございます。親戚を探していただくだけでもありがたいのですから」
「そうだった。まずは君たちの親戚を探さないと! これから話すことを書き取ってもいいかい?」
話が親戚のことになると、レイウォルド伯爵は真剣な表情で紙に色々と書き入れていく。元家令のマクマーンは、レインリットが幼い頃から見知った男だ。名前と生誕日を聞かれたが、そういえば生誕日は知らなかったと思い至る。エファが知っているかもしれないと隣を見れば、だいたいの年齢しか知らないらしかった。
「カハル・マクマーンという五十歳くらいの男性です。髪は白髪混じりの茶色、目は濃茶色。移り住んだのは去年の冬で、奥様はアンといいます」
「ふむ、エーレグランツと言っても広い。どの地区かわかれば助かるよ」
「それが中流階級だとしかわからないんです。葬儀やその他のことで忙しくて」
「手がかりなし、か。渡航記録を確認する方が早いか……しかし、住んでいる地区は特定できないな」
しばらく何かを考えていたレイウォルド伯爵が、万年筆を置いて呼び鈴を鳴らした。すかさず昨晩見た執事が入ってきて、恭しく腰を折る。
「一息入れよう。少し早いがお茶にしようか。バークレー、準備を」
「お気遣いいただきありがとうございます」
「いい香茶があるんだ。領地の特産品でね」
そんな話をしていると、エファがおずおずと言いにくそうに申し出た。
「あの……少し、気分がすぐれなくて……」
見ると、エファの顔色が悪い。青白いというか、唇がカサカサになっていた。慌てたレインリットは、無意識のうちに指先に光を灯す。すると、エファがよろけてレインリットに覆い被さってきた。
「エファ、姉様! お部屋に戻りましょう」
「これはいけない。バークレー、エファを先に部屋へ」
ばたばたと慌ただしくなり、エファの不調に気づかなかったレインリットが自分を責めていると、エファがぎゅっと手を握ってくる。何か言いたそうにしており耳を寄せると、エファは申し訳なさそうに囁いた。
「お嬢様、
エファにそう言われて指先の光を消したレインリットは、レイウォルド伯爵を見る。どうやら気づいてはいないようだ。
「やはり私には伯爵様とご一緒するなど気が重過ぎます……申し訳ございません、ここはお嬢様にお任せしたいのですが」
エファにとって、使用人の立場で主人とさらに身分的に上の貴族と同席することは想像以上に過酷なことであったらしい。やってきた侍女の手を借りながら退出していくエファを、彼女は複雑な顔で見送った。
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