花はそこで咲く
愁風 まな
花はそこで咲く
わたしの焦りをせせら笑うように、三月の桜は瞬く間に散ってしまった。花嵐に吹かれて足元に積もったソメイヨシノの花びら。その上の方を両手で救い、空に放つ。シャッターを切る音が矢継ぎ早にやってきた。
今日は卒業式だから、スマホの使用も許されている。クラスメイトや部活のチームメイトたちと自撮りをして、それから別れの言葉を贈りあう。思い出の校舎に、思い出の校庭。小説やドラマの世界みたく特別で輝かしい何かがここにあったわけじゃなかったけれど、それでも、それなりに悲しかった。
友人から貰い泣きした涙を拭っていると、視界の奥を見知った人影がひとつ消えていく。その瞬間、わたしの中で惜別の念が込み上げた。
「待って! 行かないで、あゆむくん」
久しぶりに名前を呼んでその柔さに時の流れを痛感する。背中のわたしに気づいて微かに眉を動かした彼は、その顔にこの三年間ですっかりとしかめっ面を貼り付けた。
「
放して、とやんわりと腕を掴まれ、下ろされる。服を突っ張るものがなくなったことによって自由を得た彼と、真正面から対峙する。肩で息をするわたしを無機質な瞳がじっと捉えた。
わたしはついに、この瞳に色を灯すことができなかった。初めて彼を見た時から、ずっとずっと、表情の欠落したその白い肌に笑顔を咲かせることだけを考えて生きてきたはずなのに。中学の三年間、一度も同じクラスになれなかったという些細なチャンスを逃しただけで、気がつけばもう卒業だ。
悔しさがつーっと頬を伝う。
この先、ふたりの道は交わらない。わたしはもう二度と彼に会えないだろう。だってわたしと彼の関係には名前がない。学校というわたしたちを唯一繋いでくれた場所を失くして、わたしが彼と話をする理由などどこにもなかった。
「あゆむくん、三年間ありがとう。小学校の時とは違って一緒のクラスにはなれなかったし、話もあまりできなかったけど……」そこまで紡いで、自分が何を言っているのか分からなくなる。わたしの中を渦巻くのは、ただ後悔と懺悔の荒波ばかりで、どうしようもない苦しさが喉に張り付いて呼吸の邪魔をする。
どうして彼を引き止めた? 彼にとって別れが何よりも酷いトラウマであることを、わたしは誰より知っていた。それなのに彼へ手を伸ばしてしまったのは、自分の内の単なるエゴだ。
唇から零れ落ちる小さな嗚咽音がふたりの空間を塞き止める。ぼやけた世界に映る彼の顔は苦痛に歪んでいた。
もっと一緒に居たかった。わたしが笑顔にしたかった。あの日、道端に咲いた一輪のクリスマスローズを泣いているわたしに差し出してくれた時からずっと、あなただけを好きだったのに。
溢れる想いは言葉にならず、震える身体が何かを伝えようと必死に叫ぶ。けれどもきっと、わたしの想いは届かない。どんな言葉も身勝手になって、今はただ、残酷なまでに彼を傷つける。
彼もそれを分かっていたのだろう。
「……またね」押し殺した声とともにわたしの口は覆われて、その手の冷たさを感じる前に、彼は残花と連ねて消え去った。
「それでは、今年度初・震災復興支援プロジェクトの成功を祝して、乾杯!」
かんぱーい、と総勢四〇人ほどいる男女の声があちらこちらで上がり、チンとグラスが弾かれた。
「いやー、ヤバかったですね、
「でしょう? 今回も新聞載るかもねえ、あのどえらい笑顔」
テーブルを挟んだ向かい側で、同じ大学の同期生が後輩相手に生ビールを啜りながらいつもの話を始めた。プロジェクトの参加が三回目になる自分にとっては馴染みの居酒屋だが、初参加の学生にはそうでもないのだろう。
「あ、そうそう。咲久は沙藤くんと小中学校一緒なのよ、ねえ?」
名前が出されることを分かっていたかのようにわたしはこくりと頷いた。え、マジですか? と驚く後輩をよそに、視線の先で一人の男を凝視する。隣のテーブルは他大学生の領域で、彼はそこからわたしをじっと見ていた。
このプロジェクトは二つの大学の連携によるボランティア活動であり、不定期的に震災が起きた被災地を訪れては、作業の手伝いや現地の子どもの支援をする。わたしたちの団体は大学の知名度もあってか、毎度何かしらのかたちでニュースになった。
大抵は新聞の地域欄だ。わたしもそこでこの活動を知った。衝撃だった。
大きく囲われた枠の中央に写る沙藤
それを読んで間違いなく彼だと確信した。小学生の頃に震災で家族を失い、その絶望から全ての感情を置き去りに、わたしのいた町へと越してきたあの彼だと。同時に、ああ、敵わないと思った。彼を笑顔にできるのは、端からわたしじゃなかったのだ。
「咲久ちゃん、ずっとおれのこと見てる」
馴染みの居酒屋で初めてトイレを借りれば、馴染みの顔に、大学生になって初めて声をかけられた。
そっちこそ、と近くのベンチに腰を下ろして、わたしは言葉を返した。向こうで友人たちが待っていると分かっていても、この機会を逃す気にはならなかった。
「折角の打ち上げなんだから、友だちと話くらいしなよ」ボランティア活動中の人柄が嘘みたいに、沙藤歩はクールな存在感を放ち、本人曰く、人と話すのが苦手らしい。嘘つけ、と思う。子どもにはあんなに笑顔で話してたくせに。
「……酔ってる?」
心に蟠りを抱えているせいで態度がツンケンしてしまう。自分でも何を言い出したか定かではなかった。ただ、彼が笑ったのをはっきりと目視した。
「飲んでない。ねえ、何で笑ってるの。何で……わたしが一番に笑顔にしたかったのに」
柔らかな表情を受けて、あの日の二の舞の如く感情が昂った。けれど今わたしを支配するのは、完全なる醜い嫉妬心だ。
「おれを変えたのは咲久ちゃんだよ」「嘘だ」「ほんと」有無を言わせぬ口ぶりに息を呑む。
「おれが辛かったとき、ずっと側に居てくれたのは咲久ちゃんだった。いつもおれのために必死で、両親を亡くした悲しみは消えないけど、自分を心配して寄り添ってくれる誰かがいるだけでこんなに救われるんだなって……あの頃は上手く表せなかったけど、本当はすごく嬉しかったんだ」
だから、ありがとう。微笑とともに長い指で目尻の涙を掬われ、胸がぎゅっとなる。彼は人が優しすぎるのだ。卒業式の日、泣いているわたしに「またね」と言ってくれたのも、こうして再び巡り逢える保証なんてなかったはずなのに……。
「ねえ、久しぶりに名前呼んでよ」
不意にお互いの顔が近づいた。そこにあったのはこれまでにない表情で、慈愛に溢れた瞳にわたしは思わず自惚れてしまった。
「あゆむくん」「うん」彼がふわりと破顔する。あの日言えなかった言葉を、今なら届けられると思った。
「大好き」
花はそこで咲く 愁風 まな @amai_mana
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