人媒花
@Fugu_Fugu_Fever
第1話
桜には絶対に恨まれるな、という。
そう教えてくれたのは同じ町に住むお婆ちゃんだった。仕事でいつも忙しそうなお父さんとお母さんはそういった話はしてくれなくて、祖母の話は恐ろしく聞こえた。
「いちど恨まれたら、どこへ行っても逃げられないからね」
やけに厳しい祖母の顔の前に何処からともなく桜の花弁が漂ってきて、その画があまりに印象的で、言葉がずっと頭にこびり付いている。
***
「巨大樹って知ってる?」
「日本で一番大きい木ってなんだと思う?」
そう言っていたのは、中学のときの先輩だった。いつも古くて難しそうな変な本――そう言うと怒られるんだけど――を埃っぽい部室の隅で読んでいる人だった。もう長いこと会っていないし、今何をしているのか、どこにいるのかも知らないけど。
巨大樹とは読んで字の如く、巨大な樹のこと。北欧神話のユグドラシルに旧約聖書の生命の木、世界を支え命を司る巨大樹信仰は世界中に分布している。日本だと、屋久島のスギが有名だと思う。
「桜、ソメイヨシノだよ」
そう言う先輩の顔は逆光でぼやけている。先輩の背後の窓の向こうで、春の日和に桜が満開になっていた。あの頃はいつも一緒に居たのに、何故かどうしても顔が思い出せない。
「ソメイヨシノは人工的な樹、種子を作って繁殖することが出来ず、挿し木によってしか殖えることの出来ない樹。だから日本に存在するソメイヨシノは全て、同じ遺伝子を有する同じ個体」
「つまり、全て一つの樹なんだ」
先輩の声にリフレインがかかる。視界が揺れる。
氷山の一角、という言葉が思い浮かぶ。水上に見える氷はその全体のほんの一部分でしかなく、この氷も彼方に見えるあの塊も水面下では繋がって存在していて、そうと知らず通りがかった船を座礁させる。あるいは水溶液の中で成長していく鉱物の結晶、動物の体内に潜伏し周りへと感染していくビールス、深く広く地下茎を伸ばす根茎植物。人の目につく部分はほんの一握り、水中や細胞の中、目に見えない部分で広がっていくものたち。
日本を代表する樹木であるソメイヨシノは全国に植えられている。同じ生物の欠片が日本中のあらゆる場所に散らばっている、とも言える。それらが本当に個々にばらばらで繋がりのない欠片であると、どうして断言できるのだろう? 大陸棚に根を絡ませ山脈を主幹が貫き道も川も越えて枝を地上へ伸ばす、日本列島のかたちをした大木が、普段目にするソメイヨシノの正体である可能性を、私たちは必ずしも否定できない。
「だって桜はあんなにも綺麗なんだ。その裏に、その地下に、少しくらい秘密を抱えていないと釣り合いが取れないと思わないかい?」
背後の桜の枝が先輩の声に呼応するように大きく揺れて、花弁が散った。
桜が。その地下に。秘密を。秘密?
花吹雪はとどまる所を知らず舞い散って、いつの間にか開いていた窓から部屋の中に降り積もって、目の前が薄紅で埋まった。
視界と思考のホワイトアウト。
***
がたん、という衝撃でふと目を覚ました。
春休みの旅行の道中の、舗装のない田舎道を走るバスの中だった。旅行というより、研究のためのフィールドワークという方が正しいんだけど。
生物の授業の一環として行う春休み直前の自主研究で、教師に何かひとつ研究の題材となる植物を挙げてみなさいと言われて一番最初に思い浮かんだのがソメイヨシノだった。もうすぐ春だったからというのもあるかも知れないし、それまでに聞いた祖母や先輩の話が頭に残っていたのかも知れない。そんな何となくの理由で研究テーマを決めて、それでもまあ妥当な選択かなとも思っていたのに。
「え、研究対象、桜にするの?」
自分の書きかけのプリントを覗き込んできた友達のそんな一言で、好奇の視線が一斉に集まった。教師でさえ驚愕の色を隠そうとしない。考えていただけだと慌てて撤回したけれど、不審げな視線がいつまでも突き刺さるようだった。
思えば、町には桜が少なかった。帰り道、そんなことを考えていた。桜が植えられているのはせいぜい町境の駅前の大通りくらい。小学校にも中学校にも高校にも無くて、卒業式に満開に咲く校庭の桜なんてフィクションの中でしか見たことがない。それが当たり前だと思っていた。
どうしてなのか、詳しくは分からない。ただ、土地柄なのか昔何かあったのか、町全体がそういった美しいものや妖しいものに敏感で、恐れ敬った上で遠ざけるような雰囲気があった。
たまに出かけていって目にする、浮世離れした綺麗な花をつける樹。そんな共通認識があって、人が見てはいけないもの、踏み入ってはいけないものとして皆無意識のうちに扱っていた。隣町にある大病院に初めて行った時、その中庭に数本の桜の樹が植えられているのを見て、こんな身近にあって良い樹なのか、と衝撃に思ったことを覚えている。
だからあんな反応だったのか、と納得しかけて、ふと自分が帰り道を外れていることに気が付いた。目の前には、奇しくも桜の樹。早咲きなのか、まだ蕾ばかりの樹に取り囲まれて、その一本だけが満開の枝を広げている。気付かないうちに、例の駅前にまで来てしまったようだった。
なんだか意図的な巡り合わせを感じた。
招くようなソメイヨシノの花の傘の下に踏み入れて見上げると、世界が薄紅に取り囲まれる。
その時、強い風が吹いて、枝が大きくしなった。花房が一斉に揺れて、ざあっと下を、自分が今いる樹の根元を向く。全ての花弁の中の蕊までが見える。
桜と目が合った。直感的にそう感じた。
ほんの思いつきで手を出すべき樹では無かったのかなともその時思って、けれど、もう引き返せないともどこかで気付いていた。
次の日、朝家を出て、前の道に昨日まで無かったトラックが停まっているのを見つけた。トラックの荷台には、若木が一本。道の一角の舗装が剥がされ地面が剥き出しになって、ちょうど若木が収まりそうなくらいの穴が掘られている。その若木が何の木なのか、訊かなくても何故か分かるような気がした。あのささくれ立つような黒い樹皮は、ほのかに赤らみ肥え膨らむ蕾は、間違いなく。
「この通りにね、ソメイヨシノを植えることになったんですよ」
背後から急に声をかけられた。振り向くと、作業着を着た町の役人のような男の人がこちらに歩み寄ってくるところだった。その目はどこかぼんやりして、自分を見ているのか、それとも荷台の桜の樹を見ているのかはっきりしない。
「昨日、急に決まったことなんだけどね。この通り沿いにね、並木に植えようかと」
昨日急に決まった? それも、ちょうど自分の家の前の通りに?
気付かれたのだ。自分の好奇心に。忌み事に触れかけていることに。これは牽制だ。あるいは監視でもあるかもしれない。
咄嗟のうちにそんなことが思い浮かんで、でも気付かれるって何だよ、何にだよ、とも思い直す。桜に? そんな馬鹿な。そう分かってはいつつも、本能が訴えるような警鐘は止む気配がない。
「いやあ、実はこの町には桜はあまり無くてね。でも、こうして見てみると、こんな綺麗な樹をどうして今まで植えようともしていなかったんだろうね?」
酔っているような、ぼうっとしたような口調で、その男はつらつらとソメイヨシノへの賛辞を並べ立てる。
気味の悪さに思わず男に背を向けて駆け出した。背後の声は自分を呼び止めることもなく、変わらない調子で桜を褒め称え続けている。
気付かれた。一度そう思ってしまうと、もう考えは止められなかった。
あの不気味な出来事をどうにか説明しようとしてか、自分の中に芽生えた桜への好奇心は消えるどころかますます盛るばかりだった。
暗闇の中に簾の後ろ、祠の神体に御守りの中身、見えないものと見てはいけないものを見ようとするのが人の質だ。自分の経験をある訳がないと否定したい自分とあれは本物だと訴える自分が頭の中でぶつかり合って思考がぐちゃぐちゃになって、結局のところが桜の真相を知りたいという好奇心に帰結した。
何か参考になることがないかとインターネットで検索をかけて見つけたのが『ソメイヨシノの故郷』だった。
そうキャッチコピーが掲げられた町おこし用のホームページには、その町には調査された中で最も古いソメイヨシノの樹があるのだと書かれていた。日本全国にあるソメイヨシノは全てその樹に由来するクローン、らしい。
何かが分かるならここだ、と思った。
***
そうして決心を固めてから、あれよあれよという間に時は過ぎ、春休みになった。親には学校の講習だと嘘を吐いて一日予定を空けた。自分をここまで駆り立てるソメイヨシノへの好奇心を、人にうまく説明できるとは思えなかった。
電車を乗り継ぎ、県外へ、山奥へと向かった。家族旅行の人気も大分無くなった路線から無人駅に降り立ち、調べておいたバスに乗った。過疎が進んでいるのか、自分一人しか乗っていないバスに揺られる内、いつの間にか微睡んで、中学時代の夢を見ていたようだった。
タイミング良く車内放送がかかって、次が終点だと知らせる。バスが町の入り口の標を通り抜けた瞬間、まるで別世界かと見紛うような桜の群れに包まれた。桜並木は一本違わず満開で、霞の中にいるような気分になる。その薄朱の、自然物とは思えない程の儚さに思わず一瞬、これまであったことも忘れて見惚れていた。やっぱり全部が自分の思い過ごしだったのではないかと思わせる、あまりに神秘的で華やかしい光景。
我を忘れて見入っているうちに目的地に着いていて、ぼうっとしたままバスから降りる。風景を隔てていたガラス窓が無くなって、溢れるような花房たちが手の届くところにある。その非現実的な綺麗さとリアルな距離感の取り合わせ。思わず手を伸ばせば花吹雪が舞って、その軽やかさに目を奪われる。
「運が良かったですね、お客さん」
まだ発車していなかったバスから、思いがけず声がかかった。ふっと現実に引き戻されるような気分になって、自分が桜に夢中になり過ぎて少しの間聴覚を忘れていたことに気が付く。桜並木に背を向けて振り向けば、バスの運転手が穏やかな顔で話しかけてきていた。
「ちょうど今朝、貴方を待ってたみたいに満開になったんですよ。それで、ああ、きっとお客さんが来るんだなあなんて町の皆で予想していたんですけど」
そんなに気に入ってもらえて、桜もきっと嬉しがってるでしょう。
「は、」
サァと血の引いて体温が下がるのが分かった。心臓がドクドクと波打つのが煩い。頭がゆっくりと言われた言葉を噛み砕いて理解する。
桜に待たれていた。追いかけられていた? 自分がこの町に来ることは、見通されていた?
全部が自分の思い過ごしだったのでは、という思考が何処かに飛ぶ。明らかに自分の行動を先取りする、何かの意図が感じられる。そして、思い過ごしだったと思わせたほどの桜のあの美しさ。それ自体が、何か禍々しいものに思えてならなくなってくる。背後の桜の気配が重たい。
運転手は業務に戻ろうとして、ああそうだ、と思い出したように付け足す。
「もうバスは明日まで無いですし、泊まって行かれるでしょう。ここには宿屋なんて無いですから、よければ私の母の家にでもどうでしょう? この道を行けばすぐなので」
「えっ、何言って、嘘、バスがもう」
無いなんて。だって調べた時刻表では。
それでは、と一言言って、混乱する自分をよそに運転手は今度こそ会話を切り上げた。思わずバスに駆け寄った目の前でドアが閉まって、運転手はさっきの人当たりのいい雰囲気は何処へ行ったのか自分に目もくれずに引き返していく。窓越しのその横顔がまるで表情が抜け落ちたみたいで、目の焦点が合っていないようで、追い縋る足が止まる。
帰りのバスがもう無いなんて、そんな事あり得ないはずだ。
慌ててスマホを取り出して、ブックマークに入れておいたバス路線の時刻表を開く。解像度の低い見にくい画像を拡大して、予定を立てた時には確かにあった夕方のバスが無くなっているのを見つけた。
そんな。泊まりの予定は立ててない。親にも言っていない。いつの間に運行が変わっていたんだろう。ダイヤが変わったなんてどこのページにも書いていないのに。
周りを見回すと、自分が降り立った辺りには停留所すら無いことに気が付いた。ならあのバスの本当の終点はどこだったんだろうか。いやそもそも、自分はあの運転手に目的地を告げていただろうか。あのバス路線は、本当に存在するものなんだろうかという奇妙な底冷えのする気分になってきて、慌てて思考を振り払う。
いずれにせよ、泊まる事は確実になってしまったようだった。
振り払ったはずの嫌な思考が忍び寄って来る。何かに意図して招かれて、待ち構えられていて罠に嵌ったような感触。何か、だなんて濁す必要すらないかもしれない。
改めて、背後のソメイヨシノの大群を意識した。直接目にせずともそこにあるのが分かるくらいの存在感。振り向かなくても分かる。今、自分は桜に見られている。
意を決して振り向くと、桜は意外なほど穏やかに咲き誇っていて、その繕われたかのように一分の隙もない完璧な美しさに、返って一片の恐怖を感じた。
その姿を直視したら取り込まれてしまいそうで、なるべくソメイヨシノの花を見ないように下を向いて歩いた。それでも視界の端で揺れている花弁の、その触れたら崩れそうな程の嫋やかさに頭が揺さぶられる。美しさはある一定を超えると毒にもなり、人の思考を奪う能力があるのだと身をもって思い知る。
息も絶え絶えに並木を潜り抜けると、そこにあったのは一軒の民家だった。傾斜のついた茅葺きの屋根に板張りの壁が古さを感じさせる。
そこが自分のこの町における当初の目的地であり、おそらくバス運転手の母で家を貸してくれるかもしれないというその人の家だ。
この一致に気付いた時、偶然ではもちろん無いだろうと確信した。これもまた誘導の一つなのだ。その家に行けと、桜は確実に示している。手の内なのだ。自分の思考に誰かの手が入っているようで少しぞっとする。誘いには乗ってやるもんかとも考えたけれど、どのみち夜になってしまえば行くところは無くなるのだと気付いて、それにこの町に来てしまった以上真っ向から向かっていく以外は無いような気がして、結果として桜の思惑通り家の前にいる。
この家には桜守りと呼ばれる人物が一人住んでいるという。
扉を叩けば中から返事があって、出てきたのは一人の老婦人だった。事前に取っておいた連絡通り、生物の課題のソメイヨシノの研究で来たと伝えれば中に通してくれた。
「桜を? それはまた、奇矯な。こんな遠くまでご苦労様です」
話し振りはしっかりしているけれど妙に間伸びした口調で、所作は重力がないかのように柔らかだけれど隙が無い、不思議な雰囲気の人だった。髪だけでなく身体全体から色素が抜けたように色が薄くて輪郭が淡く、着物から覗く肌は桜の樹皮のように硬く節っぽい。何百年も歳を重ねているようにも、反対にもっと若いようにも見える。その年齢不詳さと合わせて、まるで桜の樹のような人だと思った。
聞けば、彼女は若い頃からこの町で、桜を植え育て守り殖やす、桜守りとして働いてきたらしい。
「桜は、綺麗でしょう。特に、この町の樹はお膝元に近いですから」
指さされるままに、畳敷きの和室の窓から外を見る。窓という枠を一枚挟んで見れば、非現実と半ば無理やり割り切って眺めれば、咲き誇る桜の狂おしいまでの美しさもまあ緩和されるということに気付く。春の霞がかる午後の空に、花弁の一枚二枚が舞っている。
その人が指差した方向に、この町の小学校がある。そしてその校庭に植えられているソメイヨシノの樹が、最も古く全てのソメイヨシノの源流の樹なのである、と桜守りは言う。
「古い樹には、美しさと力が宿るんです。最も古い樹に近いから、この町の桜の樹はどれも力が濃くて強くて、そして綺麗なんです」
だから、と続ける。
「私はその綺麗さに奪われてしまって。それ以来ずっと、桜守りをしています。もう何年前のことだかも、忘れてしまいました」
そう言って窓の外の桜を眺める目の奥が揺らいで惚けているようで、背筋に冷たいものが走る。あの、役所の男、あるいはバスの運転手、それらと同じような目、に見えた。
「それは、一体いつくらい? あなたはいつから桜守りなんですか?」
「あれは、あれはそう、私がちょうど貴方と同じくらいの歳の時」
桜守りの窓から離した目がひたとこちらに据えられる。何だか寒気がして、なんでもない振りを取り繕って考え込む。
高校生ということだろうか? それからずっとだとしたら、半世紀はとうに経ているだろう。過ごした年月の長さが重い。きっとその分だけ桜に魅入られているということだから。唾を飲んで、核心に切り込む。
「何かその時、不思議なことがあったりしませんでした? 桜に操られているような、誘われているような、少し不気味なことが」
桜守りは緩く頭を傾げる。
「そう思えば、不思議と言えば不思議でした。あれは何だったか、旅行の途中か、それとも別の何だったか、もう忘れてしまったけれど、この町を訪れて。ちょうど春の盛りでした。桜がそれこそ今日のように満開で、その綺麗さに見惚れてしまって。長居をするうちに、先代の桜守りに声を掛けられて、そうして気付いたら桜守りとなっていました。あれは、桜に誘われたと言えばそうなのかもしれません。旅のまま、この町に住み着いてしまったんですから」
「旅行の途中に? そのとき別の町に住んでいたんですか? というより、それからずっと?」
やっぱり何かがおかしかった。追うように質問を投げて、そして後悔した。
「ええ、気付いたら時間が経っていて。思い返せばそれ以来、この町を出てもいないのかもしれません。ここ最近は、この町の外に世界があること自体も忘れかけていました。いいえ、それだけじゃない。そういえば私には町の外に家族も友人もいました。でも、あれ以来、あの旅でここに辿り着いて以来、連絡も取っていない。今の今まで忘れていたんです。だって、必要無いような気がして、桜の世話をするのに要らないと言われて、あれは、誰に? 桜に?」
最初は穏やかだった声を次第に荒げて、早口になって、焦点を桜にもどこにも合わせずに霞ませた目を彷徨わせて、桜守りは言葉を続ける。途中からはもはや自問自答になって、言うことの半分も理解できない。抑圧に耐え続けた地層が僅かな刺激でマグマを噴出させてしまうような,積み重なり続けた歪みがとうとう誤魔化しきれなくなり額面を飛び出してしまうような。そんな様子。最後のとどめとなったのが自分の訪問なのか質問なのかは分からないけれど、とにかく自分は何らかの触れてはいけない部分に触れてしまったのだ。
何か声を掛けようとして、喉が乾いて張り付いて、引き絞ったような声しか出ない。何を言えば良いのかが分からない。
なるほどこれが、桜の秘密か。美しさで人を惑わせて操る、人造の樹。
被されていたヴェールを剥いでやったぞという気持ちと、これは本当に暴いても良かったことなんだろうかという気持ちの間で不安が育つ。この町にやって来たのは桜への反撃の手を見つけるためだったけれど、その力の真相を暴いたところで何の切り札もなっていないような気がする。とにかく分かるのは、この町を離れた方が良いということだけだ。桜を見つめながら錯乱する桜守りの姿が、桜に囚われた姿が、未来の自分の姿でないという保証はどこにもない。
戸惑っていると、ふいに桜守りが静かになった。俯いた顔が見えない。ややあって再び顔を上げた時、その目の揺らぎはもう無くなっていた。
「私はこの後、桜の見回りに行くことになっています。付いて来たいですか?」
まるで何もなかったかのような平常ぶりに、ぎこちなく否と伝えることしかできなかった。
***
虫媒花という植物の種類がある。虫を受粉及び繁殖の媒介とする植物。 虫を呼び込むために蜜を蓄え花弁を彩り香り高く進化した、粘性の花粉を持つ植物たち。
では桜は、ソメイヨシノは?
ソメイヨシノはより綺麗な見た目になるようにと人の手が入った樹である。人はその容姿のために繁殖機能を樹から奪った。人によって殖やされないと生き延びることが出来ない樹、それがソメイヨシノ。
いわば、人媒花である。
であれば、生き延びるため、より人を惹きつけ思い通りに操るために、ソメイヨシノ自身がなんらかの変異を起こしていても不思議はない。
***
あの後桜守りが出かけて、自分は桜守りの家に残って探索をした。一人になることに不安が無かった訳ではないけど、何となく桜守りと離れていたかった。あんな姿を見たのだから当然かもしれない。
その家は代々の桜守りが住んで来た家らしく、鋏や木鉢など樹の手入れに使うらしき道具や、何に使うのか想像も出来ないような道具もあった。家は相当古くて、入り組んでいて不思議な造りをしていた。
裏の庭には一本の古い桜の樹があって、その太い幹と枝の一部が家の木の壁に溶けて組み込まれていた。あれはつまりどういう仕組みになっているのか分からなかったから、もしかしたら見間違いだったのかもしれない。庭には他に倉庫があって、その壁には点の集まりで描かれた日本地図が貼ってあったのだけど、その小さな点はよく見るとそれぞれが小さな小さな桜の樹の絵だった。その地図では何故か、自分の住んでいる町の部分だけが白く抜けていた。
後は、庭に続く土手にあった桜の森でたいして広くもないのに迷子になりかけたり、何か物音がしたと思ったら薪置き場があって風も無いのに枝が勢いよく転がっていたり、色んなことがあった。本屋に戻った後は座敷で考え事をしていたら、いつの間にか眠っていたようだった。桜の見回りと手入れを終えて帰ってきた桜守りに起こされたらもう夕方も遅くなっていた。変な夢を見ていたらしく、そんなに何かをした訳では無いのに身体が疲れていて重かった。
「美味しいですか?」
「すみません、泊まらせて頂くだけじゃなくて、夕食まで」
そして今は、桜守りに夕食を出してもらっている所だった。古い家だとは思っていたが、囲炉裏に板敷きの時代がかった部屋まであって、そこで桜守りと二人、膳を並べていた。囲炉裏の中で薪が爆ぜる。吊るされた鍋の中身が煮える音がして、桜守りが後ろ姿でかき混ぜている。
明日の一番のバスで帰ろう。色んな衝撃の連続で麻痺したような頭でそれだけを強く決意していた。そもそも泊まりの予定なんて無かった。それ以上長居したら、桜守りの二の舞になってしまいそうな、予感よりもっと具体的で確実な確信があった。
本当は、この人も町の外に連れ出せたら良いんだけど。ご両親はもう亡くなってしまっているだろうけど、元の町に帰してあげたい。
そう思いながら、椀の汁を飲み干そうとして。じゃりっとした異物感に動きが止まる。食べ物ではなさそうな、少し粘つくような食感。部屋に立ち籠める煙と混ざって、生臭いような匂いで口の中が充満する。何だ。これは。汁に入っていたものだろうか。
椀の中に、その異物を吐き出してみる。
それは、ソメイヨシノの花房だった。つゆを吸って大分色が濃くなって潰れたようになっているけれど、その花弁の形は、奇形のように矮小化した子房は、間違いなく。じゃりっとしたのは雄蕊と雌蕊で、生臭く感じたのは花粉のようだった。
異物の正体を視認して、え、と再び固まったところに、声がかかった。
「きちんと全部、食べてくださいね」
桜守りの平坦な声。咄嗟に、異物を手のひらの中に隠していた。花がいよいよ潰れて、湿ったそれがべちゃりと張り付いて気持ち悪い。
この人が入れたんだ。そしてそれは、味のため、正当な食べ物としてではおそらくない。でなかったらこんな椀の底に隠すように入れたりしない。というより、口に含んだ時の違和感が、それは食用物ではないと語っていた。
「っ、はい、ご馳走様でした」
何とか声を絞り出す。振り返った桜守りは揺らぎのない仮面のような笑顔で、全ての椀の中身が空になっていることを確認してから、お粗末さまでした、と膳を回収して行った。
間違いない。あれは、桜守りが、食べさせようとしたのだ。気付かれないように。私に。桜を。不快感と薄気味の悪さが背筋を駆け抜ける。この町の桜を体内に取り込んでしまうのは、何故だか分からないけれどとても駄目な気がした。
身じろぎに手の中の桜の成れ果てが音を立てて中身がはみ出すのが感触で分かる。
さっきまでの思考はどこかへ行ってしまった。この人を元の町に帰してあげたい? とんでもない。桜守りはとうに、この町とこの町の桜に取り込まれてしまっている。少なくとも、人の食事に桜を混入させるくらいには。
なるほど今自分の周りには逃げ場がないのだと改めて認識する。とりあえず、食事は後で全て吐き出してしまおうと決めて、気が遠くなった。
***
時刻は丑三よりも少し早いくらい。桜守りが寝静まったことを何度も確認して、家を飛び出した。
朝など待っていられない。早くこの家を、町を出たいの一心だった。安心できる場所など、味方などいないのだと分かってしまったからには、正気のままで町に留まり続けることなど無理だった。バスで来たのだから道はあるし、歩いて行けば先はどこかに繋がっているだろう。少なくともこの町からは出られる。そんな、半ば衝動的な行動だった。
奇しくも満月で、桜は月光を受けとめて銀色に反射していた。夜だというのに眩しく感じるほどの光の洪水。昼間とはまた違った、冷たささえ感じさせるような樹々。夜の静寂の中、昼間来た桜並木を引き返して行く。月に照らされて、足元に影さえ出来る。こんなに明るければ桜に気付かれてしまうと畏れたけれど、風も止んだ深夜、桜が騒ぎ出す様子はない。草木も眠る、とは本当だったのだろうか。
その時、並木の一本の向こうに、小さな白い影が動いて見えたような気がした。
足を止めて物陰に隠れ、影をじっと見る。
影は一つではない。列になって続くそれらは、よく見ると人影、それも小さな子供たちだった。小学校の低学年くらいの子供たちがたくさん、満月の下、真夜中に列をなしてどこかへ向かっている。
異様と言えば異様な光景だった。足音しかしない、子供らしくない静けさも。前の者に続いて皆一方向に進んでいく、子供たちの迷いの無さも。見渡す限り、通りに続く子供たちのその数も。
歩みが止まったのは当然のことだろう。不気味さを感じたのも、何だあれはと慄いたのも。この町に来てから一番の現実離れした光景で、かえってそういうものかと受けとめてしまったほど。だってあまりにも画になるから。
そして気づけば、足は列の後を追っていた。どうせ町から出るんだ、最後に見ていきたいと、余裕めいたことを心中で呟いた。それは言い訳でしかなくて、結局のところ自分はハーメルンの子供たちの一人でしかなかったわけだけど。子供たちと満月、そして夜桜の醸し出す神秘さに、何かおかしいと思いながらも抗えない魅力を感じていた。
列が進んでいった先にあったのは小学校だった。広い校庭の周りを囲むように、そしてその中央に一本、桜が、ソメイヨシノが植えられている。その全てが満開。
そういえば、と桜守りの言葉を思い出す。
この町の小学校にあるソメイヨシノが、一番古く、全ての祖である樹である。
あの樹なのか、と学校の柵の外から見定める。
あの樹が全ての根元。今までソメイヨシノと関わって起こったこと全てが、あの樹に由来する。そう思うと、そのふた抱えもみ抱えもあるような幹が、黒く固くねじれた枝が、重ねた歳の分だけ彼岸に近づいたように幽玄めく花が、ひどく恐ろしいものに感じられてくる。
校門は列の先頭の手によって開け放されて、子供たちは続々と校庭に入っていく。そして当然、当たり前というように、目的地は校庭の真ん中の桜の樹だった。列が初めて崩れて、樹の根元を子供たちが何重にも取り巻く。
あんなに桜の樹に近付いて大丈夫なんだろうか、というのが一番の感想だった。あんなにも桜は恐ろしいのに。あんなにも不思議で不気味なことを次々と起こせるような、人間の手には到底負えない樹なのに。
そこで、嫌なことに思い当たる。
桜が持つ力、人を操り不思議な現象を起こすその力。それはもちろん桜本来のものでもある。古くて美しい物はそれだけで何らかの影響力を持つ。でも、それだけでは足りないだろう。他のエネルギーが必要だ。言い換えれば他の存在の生命力とも言える、何かしらの媒介が。
そして、未来ある子供たちは、きっとさぞ生命力に溢れているのであろう。
子供たちが皆、その手に何かを握っていることにその時初めて気が付いた。月の光を反射して、桜に負けず劣らず銀色に輝くそれは。刃物だ。カッターナイフ。包丁。彫刻刀。それぞれが思い思いの、手にちょうど収まるくらいで子供の弱い力でも扱えるような、刃物を持っている。一つ残らず逆手に握られたそれらはぎらりと光って、よく研いであるんだと分かる。
嫌な考えが嫌な予感になって、そして嫌な事実になるのはすぐだった。
何かの合図で、一斉に刃を握った手が空へ掲げられる。そして勢いをつけて振り下ろされた刃は、迷いなく、子供たちの自身の右腕へと。
皮膚を破って肉を断つ音が聞こえたような気がした。幻聴かもしれないけれど。動脈から溢れる血が地面へと滴り落ちる音は間違いなく本物だった。赤が伝う腕を、子供たちはそれぞれ桜の樹の根元へと差し出して。地面にできた血溜まりは、吸い込まれるようにたちまちのうちに地中に消える。地面が血を飲み干しているようなあり得ない速さ。子供たちは身動きもせずに注ぎ続けている。痛みを訴える声さえ聞こえない。
そして、一陣の風が吹いた。
老齢の桜の樹が枝を風にざわめかせて、まるで満足げに深呼吸をしたようだった。根元から這い上がるように、何かが樹の中を染み通っていくのが分かった。幹が、枝が、風にひらめく花弁が、それぞれに僅かに姿を変える。月光よりもさらに明るく光を発して、蕾が開くように、匂い立つような美しさが樹を満たす。
見てしまった。桜の力の、その源を。一番知られてはいけないだろう、その真髄を。
桜と目が合った時よりも、この町の桜を初めて目にした時よりも、桜守りの錯乱する姿を見た時よりも、口の中から桜が出てきた時よりも、どんな時よりも切迫した警鐘が頭の中で響く。これは、本当にいけない。尊いものは、そのほんとうの姿を人間なんかが直視してはいけないのだ。
何の前触れもなく、全ての子供たちが振り向いた。こちらを。自分を見ている。子供とは思えないやつれたような幾対もの目が、一つ残らず自分を見つめている。その背後にある銀色に光る桜の樹。引き攣れた悲鳴のなり損ないが洩れる。見つかった。いや本当は、ずっと前から自分の存在なんて手の内だったのかもしれない。逃げようとした足が上手く動かなくて、数歩後退ってその場に座り込む。
子供たちが、こちらに近付いてくる気配がする。視界が揺れる。風も無いのに桜の花弁が舞い散って体に張り付く。息が上手く出来ない。肩が震える。
近付いてくる。身震いが止められない。
桜が次々と舞い落ちる。
視界のホワイトアウト。
***
目を覚ました時、まだ目の前が真っ白なのを見て少し混乱した。
桜守りの元からの逃避。夜桜。月。最も高齢のソメイヨシノ。子供たちの白い腕と赤い血。頭の中に次々と思い出される光景。ここは、どこだ?
そこで初めて落ち着いて周りを見渡した。どこかの病院の病室のベッドの中にいた。真っ白だったのは病院の清潔な天井だった。
どうして、自分は病院に?
頭を捻っていると、病室のドアが開いて人が入ってきた。白衣を着た医者らしき人と、後ろに続く二人は両親だった。身体を起こした自分の姿に三人は驚いた様子だった。
受けた説明によると、自分はあの桜の町で倒れているところを今日の明け方に町の住人に発見されたのだという。昨日、町を訪ねた日、桜守りとあの子供たち以外をあそこで見かけなかったから、突然現れた意識の無い余所者である自分のことを分かる人は誰もいなく、救急車と警察が呼ばれた。そこで持ち物が調べられ、同時に行方不明者届が出されていた自分は身元が判明。そうして搬送され、今は元の町にいる。言われてみれば病室は見覚えがあって、何回か行ったことのある隣町の大病院だった。
体のどこにも異常は無いのに意識不明の状態で、急いで駆けつけたのだとお父さんが説明した。
日が暮れても帰ってこなくて、連絡は付かなくて、本当に心配したのだとお母さんは涙ながらに言った。
意識不明。その理由は間違いなく、昨晩見たあれだ。桜と子供たちに気付かれてしまったところまでは覚えている。あの後何があったのかは分からないけれど、意識を飛ばしていたということはかなり危なかったのでは無いだろうか。
でも、あの町からは出られた。あの桜たちの元から、逃れることが出来た。それだけで十分だった。あのまま桜の傍に居たら何が起こっていたのか、想像も出来ない。
そう、胸を撫で下ろした時だった。
片方の壁にかかった、閉め切られていたカーテンが風に翻った。その隙間から覗いた窓は開いていて、その向こうには中庭が見える。そして、中庭の中央には、ソメイヨシノが満開だった。
半ば反射のように息を詰めた視界に、風に乗った花弁が窓を超えて部屋の中に入ってくる。思わず鳥肌が立つ。
「あら、桜。綺麗ね」
そう言って微笑むお母さんの横顔の、その目の奥にある揺らぎのようなものに見覚えがある気がして、目眩がした。
そうだった。ここは隣町。自分の元いた桜を忌避する町ではなく、桜が美しくて良いものとして植えられる、ごく普通の町。ごく普通。平均的。日本全国に渡り、桜が一本も無い町なんてそうそう無い。もしかしたら、もうどこにも無いのかもしれない。桜の若木の前で笑みを浮かべたあの役人のことを思い出す。
桜は、世界で一番大きい樹。美しくて恨み深く、どこへ行っても逃げられない。なるほど、こういうことだったのか。窓から部屋に流れ込んでくる花弁の量が、少しずつ増えている。床に積もるほどに。両親も医者も微笑んだままで、そのおかしさに気付く様子は無い。
そして悟った。
逃げ場は、無いのだ。
人媒花 @Fugu_Fugu_Fever
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます