さようなら、アイドル

神風少女

さようなら、アイドル

 静寂の中、微かな光が目に灯る。


 控え室のソファに沈み込むように座る彼女は、画面の向こうに広がるステージの賑わいを眺めていた。

 その眼差しは何かを探しているようであり、何かを諦めたようでもある。


「たった五年だった」


 そう呟いた彼女の声は、空気に溶けるように消えた。


 五年──彼女がアイドルとして過ごした年月。

 子供の頃はおばあちゃんになるまでアイドルを続けたいと夢見ていたが、現実を知ってからは少しずつ迫り来るゴールに追いつかれないように逃げ続ける日々だった。


 結局、五年という時間が長いのか短いのか、彼女にはわからなかった。

 ただ、振り返ると、苦痛だとか歓喜だとかがない交ぜになった記憶だけがそこにあった。


「たった五年?」


 声の主は、対面に座る男だった。


「それは短いと言うべきか、それとも……」


 男は途中で言葉を切った。

 彼の前に置かれたコーヒーはまだ温かいが、冷めてしまうのも時間の問題だろう。

 だが、彼はそれを口に運ぶことなく、ただ彼女の言葉の続きを待っていた。


「この五年で私は何を失ったのかな」

「それを言うなら、何を手に入れたのか、じゃないか?」


 彼女は微かに笑った。

 画面の中には遠くで輝くステージの光。

 今まではその光の中にいた。ファンの視線を浴び、声援を受ける存在だった。


 ──けれど、今夜で終わる。


 彼女は知っていた。

 アイドルとは夢を見せる存在だと。

 そして、夢が終わる時、現実が始まるのだと。


「何もかも、嘘だったのかもしれない」

「嘘?」

「うん、嘘だったのかも」


 彼女はポツリと呟く。


「ステージの上でどんなに輝いていても、そこを降りればただの人間だ。私はスポットライトがないと輝けなかったし、どこまでいっても、私は私でしかないんだ」


 男は何も言わなかった。

 彼は知っている。彼女がどれほど努力していたのかを。

 どれほどの涙を流してきたのかを。どれほどの嘘を重ね、それでも笑顔を作り続けたのかを。


「君は、後悔してるのか?」

「わからない」


 彼女は静かに首を振った。


「でも、一つだけ信じられることがある」

「何だ?」

「私は、確かにアイドルだったんだってこと」


 私は、確かに存在していたんだってこと。


 その言葉を聞いて、男はようやく冷めたコーヒーに口をつけた。


「ああ、お前は間違いなくアイドルだったさ」

「うん、ありがとう」


 そう言って彼女は目を伏せる。

 一度閉じたまぶたの裏には、あの日の光景が焼き付いていた。


 歓声。

 拍手。

 ステージの照明。

 スポットライトの熱。

 名前を呼ぶ声。


 ──それらは、今となっては過去のもの。


 彼女は、ステージに立つ度に自分が何者なのかを考えていた。


 ステージの上ではアイドル。

 ステージの外ではただの人。


 どちらが本当の自分なのか。

 どちらが彼女にとっての現実なのか。


「叶わないことは、いくつもあったよ。でも、叶ったことも、きっと同じくらいあったんだと思う」


 男は答えなかった。

 時間が迫る。

 彼女はゆっくりと立ち上がった。最後のステージへ向かうために。


「最後に、お願いがあるんだけど」

「なんだ?」

「私のこと、忘れないで」


 男は静かに頷いた。

 彼女は微笑み、ドアを開ける。


 この夜が過ぎれば彼女のアイドルとしての幕が閉じる。

 今日以降、彼女にスポットライトがあたることは、もう二度とない。

 それでも──。


 舞台袖に立つと、観客のざわめきが耳朶に触れた。


 深呼吸。


 足元を見つめ、ゆっくりと前へ進む。

 スポットライトが彼女を照らした。


「ありがとう」


 彼女はそう呟き、笑顔を作った。

 アイドルは、最後まで夢を見せる存在だから。


 静寂の中、音楽が流れ始める。

 音楽の中、観客の歓声が響き始める。

 歓声の中、彼女は全てを忘れた。


 これが最後でも。

 これが終わりでも。


 今だけは、彼女はアイドルなのだから。






















 さようなら。

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さようなら、アイドル 神風少女 @kamikazesyoujo

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