憧憬を抱く ❉ ❉ ❉ 山紫水明
トウマは躊躇なく
遅れてやってきたヤヨイはしばらく追いかけたが、桃色の紙が岩の向こうの流れに飲まれたのを見て諦めた。
「最後までちゃんとしてないのに」
「厄を移すにしても、悪いところなんて、ちっともないだろう」
しゅんと項垂れるヤヨイを見ても、トウマは容赦なく言い立てる。
「時間が押してるんだ。早く
朝とは違う装いのトウマはもう済ませているようだ。
往生際悪く、はぁいと間延びした返事をしたヤヨイは近場の岩に一番上の着物を投げ捨てそっと桃の花を乗せた。ついでとばかりに
雪解け水が流れ出た川は、春になったとはいえ震えるほどに冷たい。早く済まさなければ、体を壊してしまいそうだ。腰の下まである淵に進み、大きく息を吸って、止める。勢いに任せて頭の上まで水に沈んだ。
うっすらと開けた目に、踊る髪が映る。
息のできない透明な世界で小石が戯れ、魚が急に変わった流れをかわす。水面からそそぐ
魚がつついた苔を撫でようとしたヤヨイは襟元を掴まれて引き上げられた。
開けた視界に、苔よりも明るい木々が映える。雲の影にもぐった山肌は紫だ。
岩肌に転がされ、瞬きして自分の有り
「遊んでいる暇なんてないだろう」
「遊んでないってば」
「魚でも捕まえようとしたなんて下手な言い訳はするなよ。昨日もこの前も、捕れてなかったの忘れてないからな」
この勢いでは一に対して百は返してくる。
危険を感じたヤヨイは身を翻した。あるはずの着物がないことに気がついて、川獺が持っていったのかと考える。赤紅の桃の花もない。
小首を傾げる少女の横で、少年は村へと足を向けていた。右手にはたたまれた着物、左手の桃の花を足に合わせてゆらす。
待ってよ、待たないと繰り返す声が、芽吹き始めた山あいに木霊した。
❉ ❉ ❉
「遅いと思ったら。紅い桃なんて、どこに咲いていたの」
さぁ、と恨めしそう顔で桃を見るヤヨイに舞の準備をする少女達は顔を見合わせた。
もしかして、トウマ様?という確信めいた声を皮切りに、その場が一気に色めき立つ。
「なんて、うらやましい!」
「うらやましくなんかない」
「贅沢なこと言うんじゃないよ、ヤヨイ」
「そうよ、里のおなご達、みぃんなを敵に回しても知らないんだからっ」
「それに、花を贈られたのよ? 意味わかってる?」
「なにそれ、やめてよ」
「まぁ! 生意気! 花を贈られたということはね――」
「兄妹で契りを結べるわけないでしょう」
鈴が鳴るような
気まずげな面々の視線を一身に集めたのは里長の娘だ。ヤヨイと同い年だというのに、儚げでありながら凛とした佇まいは祭典のトリに相応しい風格だ。舞姫達と同じ柳色の衣も
さ、早く準備をしてしまいましょと桃色の唇が微笑めば、一瞬で空気が和らいだ。憧憬の眼差しも厭わず、髪にさした白い花の位置を確かめている。
同い年でなければ、彼女がトウマや大人と対等に渡り歩いていなければ、ヤヨイも皆と同じように見れたかもしれない。だが、皆と比べられ、師範に手本にしなさいと言われ続ければ、明かすことの難しい想いを抱いてしまうのだ。
ヤヨイのは、外した視線をもう一度、白い花に向けた。
あの木蓮は誰から贈られたのか。
舞手にたむける花は人と人とを繋ぐという。里のおなご達の中では、契りの証だともっぱらの噂だ。
ヤヨイも、頬を染める顔の側で恥じらう花に憧れを抱いていた。自分の手元にある赤紅を見下ろす。
トウマから押し付けられていなければ――もし、他の人から贈られたものならば嬉しかったのだろうか。
「まぁ、いいか」
これはこれで、かわいい。
全ての花は同じように咲くことはない。川底にむす苔だってヤヨイにとっては美しく見える。
憧れを集める美しさと、おのおのが持つ美しさは違うのだと、ヤヨイは己に言い聞かせた。
【山紫水明≪さんし-すいめい≫】
自然の風景が清浄で美しいこと。日の光の中で山は紫にかすみ、川は澄みきって美しい意から。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます