第13話

「走ったのに」

 紗都はがくりとこうべをたれた。だらだらと流れた汗がぽたりと落ちて、地面に黒い染みを作った。




 はまるきっかけになる着物との出会いは、一年前の九月の日曜日だ。

 その日、紗都は気晴らしに寄った商業ビルで『着物2980円から!』と書かれたポップを見た。

 思ってたより全然安い!

 意外さに、ついつい見に行ってしまった。


 ポリエステル製で、家で洗えるとうたっているのが驚きだった。必ずクリーニングに出さないといけないと思っていたから。

 棚にかけられた着物を次々と見ていて、その中のひとつに手を止めた。


「かわいい!」

 思わず声に出ていた。

 淡いピンクの生地に桜の花が全体に描かれていて、華やかでありながら落ち着きもある。

 値段は4980円。

 買えない値段ではない。


 紗都は和食店でバイトをしたことがあり、そこでは着物を着ていた。もうだいぶ前だが、まだ着られる気がする。

 当時は平凡な自分が特別になったように思えたし、「着物が似合うね」と言われるのもうれしかった。


「ご試着されますか?」

 顔を上げると着物姿の店員がいて、にこにこしていた。

「試着できるんですか?」

「できますよ。こちらへどうぞ」

 店員に畳のスペースへ案内され、靴を脱いで上がった。


 簡易の襟をつけられて着物を着せてもらう。

 なんだかどきどきした。新しい自分に出会えそうな予感と期待。

 最後に店員が見立ててくれた赤い帯を軽く巻いた。商品なので本格的には巻かないが、それでも充分に雰囲気はわかった。


「いかがですか」

「素敵……」

 クリームがかった優しいピンクは肌なじみがよくて、全体に散る桜の花が華やかだ。帯の深い赤が締めとして効いている。帯揚げと帯締めは抹茶色で、赤とのコントラストが気持ちいい。


 着物は五千円くらいだけど、これだけじゃすまないんだよね……。

 襦袢やら帯やら、一揃いを買わなくてはならない。合計はいくらになるだろう。

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