烏と太陽 4

 白い烏がじっと俺のことを見ている。

「ヤヒロ」

 名を呼ぶと、ヤヒロは返事するように鳴いた。しかしその声は弱々しい。矢至は気になって横になっている身を起こそうとしても、体は動かなかった。額に生暖かい感触を感じる気がする。血が矢至の顔の傍の地面に染みこんでいた。

「ヤヒロ……」

 怪我をしているんだと思うと声さえ掠れ始める。

 今度はヤヒロの返事が聞こえてこない変わりに、指先に血とは違った暖かさ触れた気がする。

 矢至はぼんやりとする頭で何かを必死に考えようとしたが、先程から意識がままならなかった。

 矢至の脳裏に過労死した父親との思い出が蘇り始める。走馬灯という言葉が過ぎったとき、胸の中を占めたのは死にたくないという思いだった。

 拳を握り締めようとしたが、それさえままならない。

 喉を詰まらせるような、心配してくるようなヤヒロの声が弱々しく聞こえてきた。


 ====


「おーい、起きろって」

 顔に衝撃が走り矢至は目が覚めた。頬が熱く痺れるように痛い。

 ナルは赤くなった手を振ると、目を細めた。

「目覚めたな。なんか言ってたぜ、なんの夢見てたんだ?」

 車のタイヤが石を踏んだのか車体が跳ねた。ワンボックスカーの窓際に座らされていたらしい矢至はすぐさま状況を察した。

 矢至と須川を連れ去ったナルは矢至の真横に詰めるようにして席に座っている。後部座席の方から呻き声が聞こえてきて、矢至は反射的に後ろを振り返った。

 後部座席下の床で、須川が横たわっている。浅い呼吸を繰り返す須川の横腹からは確かに血が滲み出し、シャツを汚していた。

「車を止めろ! このままじゃ須川さんが死んじまう!」

「大丈夫だって、あばらは何本か逝ってるかもしれねえが、すぐに死にやしない」

「信じるわけねえだろ!」

「……矢至、落ち着け、大丈夫だ」

 弱々しい須川の声に、矢至は血の気が引いた。言葉どおり大丈夫なわけがないが、須川の声には懇願するような意思が込められている。ナルを刺激するなということだ、矢至は唇を噛み押し黙った。


「ありがとう落ち着けてくれて。ようやく話ができる」

「話すことなんか何もねえよ」

「本当にそうか? 俺の動機とかわかってないだろ?」

「そういうのは捕まえてから聞き出すことなんだよ」

「短い間に知恵つけたな貴琉。前は大鱗のところで使いパシリだったのに」

 寒気がする笑みに矢至は背筋が震える感覚がした。車内は暖房がかかっていないがそれとは関係ない。ナルの矢至を見る目は煌々と輝いていて、心の底から恐怖を感じさせるものだった。

「なんで俺と須川さんを連れ去った」

「貴琉には色々聞きたいことと所用があってね。あとは診鶴に動機を聞かせないとと思って。お姉さんが関わることだからな」

 ナルは矢至のジャンバーのポケットに手を滑り込ませてくると、煙草とライターを抜き取り火を付けた。頭を傾けたあと、気が変わったように煙草の火を座席の背もたれに押しつける。火は消えたが、酷き焦げ臭い臭いが車内に充満した。


「まずは何から話せばいいんだろうな」

「……姉貴を、なんで」

 須川は途切れ途切れに声を発した。後ろを見ると須川は心配しなくてもいいと言うように片手を上げる。

「そうだな。順番に話した方が良いに決まってる。初めは診和を食ったことなんだよ。あの時から俺は初めて生き方を決められた」

 ナルは青白い頬を僅かに染め上げた。

「俺は世捨て人みたいな生活をしてた。人間の世の中は俺には少々生きづらくてね。この容姿だし戸籍もない。察せるだろ。診和とは山で会った。疲れ切った顔でふらついていてな。なんとなく死にそうだなと思ったんだ」

 須川が息を詰まらせるのが聞こえてきた。ナルは気にせず話を続ける。

 ワンボックスカーの屋根を雨粒が叩く音が段々と聞こえてきた。


「診和は俺を見て驚いていたが、話せる相手だとわかると少しずつ会話が起こった。その日はすぐに別れたが、次の日も診和は俺と遭遇した場所にきたよ。それが何日か続いた。他人なりに良い感じの仲の良さだったよ。お互い距離のある話相手を欲してたのかもな」

 車の天井を木の枝が擦る音がした。まだ山の中なんだろう。先程の場所からそう離れてはないのかもしれない。

「んで診和はある日、それこそ死にそうな顔でやってきた。その日あったことは前話したとおりだ。自殺するように遺骸を呑んだ診和を殺して食った」

 ナルは片手で口元を覆った。手の隙間から、口角が不気味なほど釣り上がってるのが見えた。


「その時、俺は初めて知った。生きているっていうのがどういうことか。飢えが満たすっていうのはどういうことか。それまでだって食いもんは食ってたのに、どんな物より美味かった。血の一滴だって無駄にはしたくなかった」

「イかれてる……」

「ああ、間違いなくあの時俺はイかれちまった。不思議だった。胃の容量を遙かに超えて食ったのに、まだまだ足りなかった。お前らだって覚えがあるだろ。生きていく糧とはまた違う、無性に食いたくなる物。あれは間違いなく本能に刻まれた悦びだった」

 ナルの枯れ草のような色をした目はどんどん輝きを増していく。水を無限に欲し続ける植物のようだ。

「自分に害する可能性があるものを排除するためなのか何なのかはわからないんだけどな、どうやら神使ってのは、遺骸を食った者の血肉を美味いと感じるらしい。特に、遺骸を食ってから時間が経った奴ってのは食道を血と肉が落ちていくたびに意識がぶっ飛びそうになる」

 ナルの手の隙間から涎が零れてくる。覚えたのは寒気と嫌悪感、それと恐怖。血走った目から少しでも距離を取りたくて矢至は窓側に身を詰めるように動く。その分ナルも距離を詰める。白髪の毛先が当たるほどの距離に胃が引き攣った。

「お前達がこの感覚を味わえないのが、妬ましくも哀れだよ」

「気持ち悪い同情すんじゃねえよ」

「悪い悪い。つい、な」

 ナルは涎を拭った。

「それから色々試行錯誤した。遺骸を食わせる手間、息の根を止める時に抵抗される力の度合い、得られる食い扶持。全てを考えたとき、人間が一番手っ取り早かった。言っておくが別に俺は人間を毛嫌いしてるわけじゃないぜ。これでもきちんとお前らのことを隣人だと思って。でもよ、駄目だってわかってても、堪えられないものがあるんだ」


 ナルは屈むと、目を輝かせながらそう言うと、見覚えのある物を座席の下から取りだした。先程矢至が締木に渡したクーラーボックスだ。

「こんなに話したんだからよ、俺から一つ聞かせて貰うな」

 ナルはクーラボックスを手の甲で叩いた。軽いプラスチックの音が響く。矢至は身を強張らせた。

「貴琉。お前なんでこれ食って祟化したんだよ」

「……は?」

「お前が妙な祟化した状態になってんのは俺も知ってる。締木に調べさせたからな。だから聞いてんだよ。なんで祟化した」

「何言ってんだ、そのクーラーボックスの中身、遺骸を食ったから妙な体になったに決まってんだろ……!」

「違うな。まず前提からして間違えてる」


 ナルは首を横に振る。三日月のように細めた目は、矢至を見定めるかのようにじっと見つめている。

「俺はな、仕入れ業者として締木に近づき、締木達が売ろうとしていたものと同じ物を用意して、その中に時々遺骸を混ぜ込んで楽しませて貰ってたんだよ」

「混ぜ込む……?」

「まさか……」

 何かを察したのか、後部座席から須川の動揺した声が聞こえてきた。矢至はまだ理解が追いついていないが、嫌な予感だけは確かにあった。

 ナルは注視させるように肉を持った手を翳した。

「締木の手下が売りさばいていたのは遺骸なんかじゃない。遺骸と銘打った、ただの紛い物だ。そして貴琉。お前が運んでいたのも適当な野鳥の肉。遺骸じゃない」


 ナルの言葉に矢至は咄嗟に胃を押さえた。肉を食ったのは幻覚じゃない。凍えるような夜の山で何日も迷った挙げ句クーラーボックスを開け肉を囓ったのは確かな記憶で、吐き出した羽根と卵の感覚もはっきりと残っている。

 車内に静寂が訪れると、パニックを起こしかけている心臓の音がよく聞こえた。

「なんでお前は祟化したんだ? そして、いつから祟化してんだ」

 ナルは持っていた肉を口に放り込んだ。すぐ隣から咀嚼音が聞こえてくる。矢至は以前ナルにつけられたかさぶたになっているはずの傷跡が、じくじくと痛んでいる気がしてならなかった。

 ナルの口の端からぼたりと涎が落ちる。

『特に、遺骸を食ってから時間が経った奴ってのは食道を血と肉が落ちていくたびに意識がぶっ飛びそうになる』

 ナルの血走った目は煌々と輝き、矢至のことを見ている。

 昔動画で見た、獲物を狩る直前の虎と同じ目をしていた。



 矢至の呼吸は、負傷した須川と同じくらい乱れていた。冷や汗が背中を伝っていく。後部座席に須川がいなければ、この車が走行中だろうがとっくに飛び出していたかもしれない。

「知らない、俺はただ山で飢えて荷物を食っただけで、なんで祟化したかなんてこっちが聞きたい……!」

「自分でもわかんねえのか。なら仕方がない。俺にだって自分のことはよくわからないからな」

 ナルは勝手に満足したように頷いた。


「貴琉。俺はさっきも言ったように人間に嫌悪感を抱いてるわけじゃない。特に、お前らが群れたときの能力はなかなかだと思うよ。例えいくら俺がバレないようにと策を練って人を食っていたところで、いつか必ず俺を突き止める。呆れるが美しささえ感じる執念だ。ならいっそのこと、美味い物食ったもん勝ちだと思わないか?」

 二の腕に鳥肌が立った。矢至は、ナルが自分ことをどんな目で見ているか考えずともわかった。食欲そそる匂いがする獲物。

 引き攣るよう息を吸った瞬間、右肩に激しい痛みが走った。ナルは突き刺してきたナイフをそのまま首までスライドしようとしている。抵抗しよとするが痛みで上手く力が入らない。窓側に体を押しつけられ、肺が圧迫され息が思うようにいかなかった。


「矢至! 逃げろ……!」

「馬鹿言わないでくれ!」

「そうだよ。診鶴も酷なこと言うな。この状況で貴琉が俺を押しのけて逃げ切れると思ってんのか? それとも診鶴がその状態で俺のことを撃つか? 一人助かりたいならそうしてもいいぜ。診鶴には話を聞かせたいだけだった。診和は俺に生きる喜びを教えてくれて恩人だ。その弟を殺すような真似はできればしたくないからな」

「クソ野郎が……」

 須川は息を吸い込むと、ジャケットの内側に手を入れた。

「血の気が多いなあ。仕方がない。診鶴、最後の景色は床と空どっちが良い」

「……地面で」

「急に素直だなあ。おい、車止めろ」

 ナルが運転席の後部座席を蹴ると運転手の短い悲鳴が上がり、ワンボックスカーが止まる。レバーをパーキングに入れた男は恐怖に押し出されたように転げながら車から飛び出し、山道を駆け下りていった。


 ナルは運転手の後を追わず、矢至の肩からナイフを引き抜いた。堪らず呻き声を上げると傷口から血が滲む。ナルはドアを開け、ナイフを持ったまま須川の方を向いた。止めるためにナルに跳びかかるが、容易く撥ねのけられ背中をドアに打った。

「……矢至、俺は駄目だな。何かが起きてからじゃねえと対応できねえ。覚悟決めるのにも随分時間かかっちまった」

「何言ってんだよ……!?」

「なんて顔しやがんだ。もっとしゃんとしろ……」

 須川はそう言ってジャケットの内側をまさぐる。


「ナル、食った被害者は全員、人間の状態で死んでたよな」

「ああ、そうだな」

「獣の姿になってる時に食ったほうが、お前からしてみれば量が増えるはずだ……それなのに被害者全員人間の姿形だったのは、お前が祟化した人間に勝てないからだろ」

「……」

 ナルは頬を引き攣らせそのまま押し黙った。須川が僅かに口角を上げる。

「わかりやすくて助かるよ」

 須川がジャケットの内側からまさぐり出したのは銃ではなく、乾燥した肉の切れ端だった。

 須川は矢至の方を向き顔を見た後、何か眩しい物でもみたかのように目を細め苦笑すると、肉を口の中に放り込んだ。

「しっかりやれよ」


 須川の喉仏が上下に動く。瞬きする間に手の平と腹の傷が塞がっていった。

「須川さん……?何を」

「……なるほど、食ったな」

 今までずっと薄ら笑いを浮かべていたナルが、この時初めて表情を歪めた。矢至は須川の元に駆け寄り身を起こさせようとする。しかしそれは叶わなかった。

 須川は矢至の胸ぐらを掴み投げ飛ばした。常人であればだせないぐらいの力で投げられた矢至の体は車を飛び出し、山道横の斜面まで転がされる。右腕で木の枝を掴んでしまい、刺された肩に激痛が走った。力を込めることもできず、急な斜面を滑落していく。

 直前に矢至の視界が捉えたのは、泥で汚したような色が混ざる白色の毛並みに覆われた、山犬の姿になった須川だった。

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