実家と川上之嘆 4
地平線の向こう側から太陽が顔を出し始め、辺りが明るくなってきている。言葉を発する人間がいない中で、加志の呼吸が荒いことだけがわかった。
鹿倉が加志の傍に近づく。傷の具合を見つつ手を猟銃に近づけているが、長髪の男が脅すように数回猟銃を揺らした。鹿倉は顔を歪め猟銃から手を遠ざけると、血が滲む加志の肩に視線を向けた。
「加志さん、落ち着いて下さいね。傷は大したものじゃありませんから」
「なんでだよ、ふざけんなお前!」
「加志さん!」
加志は自分の肩に傷を付けた男に喚き散らした。傷がこれ以上開いたらまずい。矢至は鹿倉と一緒になって加志を押えた。
汚いキャップを被った男は鼻で笑った。
「威勢が良いねえ。その元気の良さのまんま、ここから逃げちまえばいいだろ」
「……は?」
「こいつらはお前よりも俺の方が気がかりだろうからな。そこのガキの傷から察するに、お前捕まるようなことしただろ。逃げる絶好のチャンスを活かさないんでどうすんだよ」
「黙れ!」
須川が怒声をあげるのと同時に、加志は走って山を下り始めた。須川が舌打ちをする。
「鹿倉、追いかけろ! お前なら追いつくだろ」
「わかりました」
鹿倉が加志が逃げた方向に身を翻す直前、乾いた重い破裂音が響いた。例の男が空に向けて発砲したのだ。
「女、追いかけても良いが銃は置いてけよ?」
「お前何言ってやがんだ……!?」
「良いのか? 早くしないとあいつに追いつけなくなるぜ」
男の銃口は依然としてそれに向いたままだ。弾が入っているのが分かった今、その銃口が矢至達の方にむけられれば為す術がない。
「クソッ、鹿倉こいつのいうとおりにしろ」
「……分かりました。あとは頼みます」
加志を追いかけ駆けて下山していく鹿倉を、男は子供の見送るでもするかのように微笑みながら見ていた。鹿倉の足音も聞こえなくなると、男は空に向けたままにしていた銃口を地面に下ろした。
「よし、これで集中して話せるな」
「……聞くべきことは尽きないが、まずあいつに付いていた監視役に何しやがった」
「邪魔になりそうだったから気を失っては貰っただけで、後は何もしてないぜ? 無益な殺生は嫌いなもんでね」
「お前どの口で……!」
溜まらず声を出すと、男は感心したように矢至を見つめ猟銃を揺らした。
そのまま何も言わず何もせず、もう生きられなくなった枯れた雑草のような色をした瞳で見てくるだけだ。
「矢至、黙ってろ。今は刺激するな」
矢至は答えも頷きもしなかったが、反論しなかったのを須川は肯定だと受け取ったんだろう。矢至にそれ以上の指示を出さず、深く息を吸った。
「まず、誰だお前は」
「とりあえず呼び名を言えばいいのか? 適当にナルと呼べよ。名字も名前もなかったからそう名乗ってんだ」
朝日が山道に差し込み、ナルと名乗った男の輪郭をはっきりと浮かび上がらせる。不健康そうにも見える白い雪のような頬にえくぼを浮かべ、ナルは微笑んだ。
「名乗りってのは名前以外も言った方がいいもんな。特に俺の場合はそうだ。隠してたっていつかお前らは必ず俺の正体を突き止める。なら、まどろっこしいことはせずにちゃっちゃと言った方がいい」
「何言ってやがるお前」
「まあ見とけよ」
ナルは手を頭に持って行くと、深く被っていた泥の付いたキャップを外した。頭に刺さっていたピンを外し頭を振る。三つ編みで纏められている白い長髪が、左右に揺れた。朝日を受け取り淡く反射する髪は、降り積もった雪原を思わせた。
「お前……」
その白さを知っているからこそ、言葉を失った。白い肌に白い髪、色素の薄い目。状況に似つかわしくなくとも、呆れてしまうほどに美しいとさえ感じる。
「お前らが神の使いと呼んでいるもの。それが俺だよ」
「まさか、神使か……!?」
「神使は野山に生きる獣ばかりと思っていたか? まあ、俺も世捨て人みたいなもんだから変わりはないかもしれないけどね」
矢至ばかりではなく、須川も動揺している。唯一この場で平静を保っているのはナルだけだった。
「なんでお前は人間を殺して回ってたんだよ」
「お前の質問に答えるよりも、そこで俺を殺すような目つきで睨んでいる診鶴の質問に答えた方が良さそうだ。よっぽど確認しておきたいことがあるんだろう?」
「気安く呼ぶんじゃねえよ」
須川がまた深く息を吸ったとき、風が吹きつけ木々を揺らした。僅かな量の朝露が降ってきて、小雨のようだった。
「ナル、姉を殺したのもお前だな」
「ああ、お姉さんな。綺麗な人だったよ。お前とはあまり似てないが口元は似たところあるかもしれねえな」
「聞いてるのはんなことじゃねえんだよ」
押し殺しきれていない、底のない怒りを滲ませた声で須川はそう言うとジャケットの内側から銃を抜き取った。
昨夜聞いた話が合っていればあの銃には殺傷能力はあれど射程がない。相手が猟銃も手にしているにも関わらずそうしたのは、いざとなれば危険を承知で戦う気でいるからだ。
矢至は早鐘を打つ心臓を押さえつけ、唾を飲み込んだ。ナルは変わらず舐め腐っているとも受け取れる佇まいで須川を見つめている。
「だからそう怒るなって。分かってるよ、殺したかどうか、だろ。そりゃそうなんだがよ、殺したっていう表現は頂けないな。俺がやったのは誠意を尽くして頼まれたことを成しただけだ」
「人殺しには変わり無いだろ。仕事熱心なまっすぐな人だった。あんな風に死んでいい人じゃなかった……!」
「似たような言葉、診和も言ってたぜ」
「……あ?」
「『自分は人殺しと変わり無い。苦しい。終わらせてくれないか』ってな。その後に神使の肉、お前達は遺骸って呼んでるんだっけか? それを呑んだ診和を、俺が食ったんだよ」
「お前、食ったって……」
「あれは大鷲だったかな。見事なもんだったぜ。しばらく自由を味わうみたいに空を飛んでから地上に戻ってきて、人に戻ったところを俺が殺してから食った。本当は頭だけじゃなくてもっと残す気でいたんだ。ただよ、食ってるうちに止まんなくなってなあ……」
妬ましい話の内容を淡々と話し続けたナルに対して放心しかけた矢至は、慌てて須川の方を見た。須川は目をしばらく目を見開いた後、痛みを堪えるかのように俯く。次第に、須川の銃を握り締める手が震えてきたことに気付いた。恐怖や動揺からくるものではない。銃を握る手に力を込める余り、筋肉が震えている。
「須川さ」
名前を呼ぶ前に、目を赤く血走らせた須川は飛び出してしまった。靴が地面を蹴り少しの土塊が跳ね上がったかと思えば、既に須川はナルの懐に飛び込んでいる。
ナルが不気味に一際口角を跳ね上げた後、乾いた破裂音が響き渡った。ナルの脇腹に穴が空き、周囲のシャツに血が滲む。ナルの体が左右にふらつき、地面に崩れた。
荒げていた呼吸を長い時間をかけ落ち着かせ、須川はナルを見下ろした。
「動機も恨み言も後でいくらでも聞く。神使だとしても人間の姿形を取ってる以上は刑罰を受けてもらうぞ。矢至、こいつを連れて下山するから手伝ってくれ。鹿倉のカバンにロープが入っている」
「あ、ああ。……あんたは大丈夫なのかよ」
「何も異常はねえよ。それより早くこいつを連れてくぞ。神使ならこれで死にはしないと思うが普段と違って加減が分からねえ」
矢至は鹿倉のカバンを開けロープを取りだした。万が一の時に備えて用意していた捕縛用のものだ。
地面に伏せているナルに近づく。矢至は動きを止めた。ナルの腹の下からあふれ出してきていた血の流れが止まっていたからだ。
「須川さん、こいつ、治り始めてないか……?」
須川がナルから流れ出ていた血を見るよりも、起き上がったナルが猟銃を手にし須川を殴打する方が早かった。不意打ちを食らった須川が吹っ飛ぶ。
「真面目に話そうと思ってたんだけどな。駄目なようならこっちも悪足掻きさせて貰うか」
『体は頑強で治癒能力が高く、身体能力も非常に優れている。神秘的な存在と言うよりも、生物として他の物よりも卓越した存在』
車の中で聞いた鹿倉の話を思い出す。しかし思い出したところでどうにもならない。目の前の存在は具合を確かめるように泥と血の付いた手を開閉させると、満足げに頷いた。背筋を凍らせた悪寒は、生存本能からくるものだったんだろう。
「逃げろ!」
転がった体勢のまま須川は叫ぶと、傍に胃液を吐き出した。猟銃の当たりどころが悪かったんだ。
「置いていけるわけないだろ……!」
どちらにせよ逃げられる気が矢至はしなかった。咄嗟に鹿倉が置いていった猟銃を取りだし構える。
「殊勝な心構えだな。だがお前それを使えるのか?」
「……確かめてみるか?」
「緊張してる表情ぐらい隠せよ。素人感ダダ漏れだぜ」
ナルは持っていた猟銃を振りかぶり投げつけた。回転しながら飛んでくる長物を避けきれず額をかすり、バランスが崩れる。気がつくと白い長髪が目の前で揺れていて、ナルは片方の腕は矢至の二の腕を爪を食い込ませるようにして掴んでいた。もう片方の腕は喉に回される。気道が締まり、声が出なくなった。
「矢至!」
顔を青ざめさせた須川が駆けてくる。しかし喉を締め付ける力は弱まらず、もがくことしかできない。首の骨に力が加わっている感覚がして、死の恐怖を覚えた。
覚えのあるような吐き気を感じたその時、締められていた喉が空気を取り込む。
ナルの手の力が緩まったのだ。苦しくて閉じていた目を開く。
涎を垂らし、驚愕と法悦が混ざった表情でナルは血の滲む矢至の二の腕を見つめていた。
「お前、何だ、この匂い」
乾いた破裂音の後、ナルの体がぐらつき肩の辺りから出血し始める。銃を持った須川がナルの後ろに立っていた。須川は矢至の体を掴みナルから距離を取る。須川はぎりぎり矢至にだけ聞こえるように呟いた。
「……矢至、度胸試しだ。準備はいいか」
「は、なに?」
突然重量のある物を押しつけられる。手元を見てみると猟銃を渡されたようだ。須川の手の中にも猟銃がある。鹿倉が持っていた物とナルが持っていた物だ。
ナルは涎を拭い体勢を整えた。
「……もう一回おっぱじようってか?」
「違えよ。没収だクソ野郎」
そう吐き捨てた後、須川は矢至を抱き込むと、斜面の方向に向かって体を倒した。
「は、え……!?」
重心が傾き足が地面から離れる。土質が湿った泥状なせいで、体は滑り落ちるように斜面を下っていった。
耳元で風が唸り続けている。木の枝が頬を擦ると火を押しつけられたように熱く痛い。岩のすぐ側を滑走し、矢至は恐怖で叫び声を上げることも出来なくなった。
「銃をしっかり掴んでろ! 腕を体から離すなよ!」
風の唸る音に混じって須川の怒声が聞こえた。矢至に返事をする余裕は少しもなかった。
間もなく坂は緩やかになり始め、滑走の速度は下がっていく。
立てるような状況になってからも足腰が言うことを聞かない。矢至が恐怖の余韻のせいで過呼吸気味の呼吸を繰り返したまま座っていると、背中を須川に蹴られた。痛みと驚きで立ち上がる。
「報告を急ぐぞ。見張り役の回収も急がせなきゃならねえ。しっかり立て」
矢至は頷き、正面の建物に視線を向けた。
滑走の末にたどり着いたのは須川の家のすぐそばだった。どれくらい下ってきたのかは考えたくもない。
「……よく、あんなことしようと思ったな」
「あの斜面には、滑り落ちても途中に遮蔽物がない箇所がいくつかあんだ。ガキの頃、よく二人で度胸試しって滑り落ちてた。今下ってきた場所もそのうちの一つだ」
須川は山の方を見上げた。日が昇り周囲が明るくなっても須川の顔は薄暗く、真実が明らかになったとはいえやるせなさそうだった。
いつの間にか、矢至の吐き気は収まっていた。
須川の家の前には赤色灯を灯した救急車が止まっていた。矢至と須川が庭先にたどり着く頃には救急車は走り出していき、その場に立っていた鹿倉が振り返る。矢至も須川もボロボロだったが、鹿倉もそれなりに草臥れている様子だった。
「二人とも無事でしたか」
「鹿倉、無事あいつは確保できたか」
「ええ。まだ祟化の兆候は出てませんでしたが、念のため専門の病院に来て貰いました。傷はかなり浅かったので、搬送中に祟化が起こることもないと思います」
「ありがとう、助かる……」
「お二人は病院へは行かなくて良いですか?」
須川は矢至に視線を投げかけた。矢至は頷く。体は滑走のせいで汚れボロボロだったが、酷く痛む場所はない。
二の腕だけがナイフの切り傷と爪を立てられた傷でジクジク痛んだが、それだけだ。
「大丈夫だ。それよりも親父と話をしなきゃならねえ。鹿倉、お前も同席しろ。それとちょっと、寄って見たい場所がある」
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