烏と蛇 4
「もう一人いたのかよ!」
須川は仕舞った銃を取り出そうとするが、それよりも早くそいつは飛び降りてきた。足はまだ人間のそれで、体勢を崩すこと無く着地すると鹿倉を投げ飛ばし、須川の鳩尾に拳を突き立てる。
「須川さん!」
地面に蹲り唸る須川にそいつは飛び乗った。関節をなくした指が須川の首に巻き付き、首を締め上げる。須川の喉から半端に呻き声が漏れた。腕はホルスターに伸びているが、その前に首の骨をへし折られるかもしれない。
矢至は、須川を締め上げる者の腕を見て気がついた。鱗が生えていて分かりにくいが、刺青の痕跡がある。腕には、ギラつく金の時計が回されていた。
矢至は道に落ちていた石を投げた。体力が無い状態での投擲は大した威力にはならなかったが、真っ黒い粒のような瞳孔が敵を認識したように矢至に向けられる。矢至はできる限りの声で叫んだ。
「大鱗!」
矢至は相手の名前も顔も知っていた。
大鱗が自分に向けた感情は侮蔑だけだったわけじゃないんだろうが、少しも庇う気にはなれなかった。迷った山の夜の寒さと見境のなくなる飢え。方向感覚を失う恐怖。そしてどうしたって一人なのだと思い知らされた孤独を思い出し、怒りを込めながら叫んだ。
「そんなナリになっちゃ小遣い稼ぎも派手な時計ももう意味ねえな!警察にだって入られそうになったんだろ、終いだよ!」
無理に叫ぶと声が掠れ噎せそうになった。大鱗に言葉が通じたのかは分からない。だが確実に気は引けたようだ。
大鱗は須川の顎を殴ってから退けると、矢至に向かって突進の体勢を取った。
須川はまだ息が整ってないにも関わらず銃を大鱗の足に押しつけると、引き金を引いた。乾いた破裂音と共に掠れた大鱗の叫び声が上がる。右足の穴が空いたようになっていて血が垂れている。しかし大鱗は動きを止めなかった。
「走れ!」
須川の声が聞こえる前に矢至は走り出してはいた。足が何度ももつれる酷い走り方だった。絶食が数日続いた状態では流石に話にならないんだろう。
追いつかれ足を掴まれると視界が大きく揺れ、気付くと引き攣り倒されていた。冷たいアスファルトで顎が擦られ、後頭部を殴られると意識が遠のきかけた。
大鱗は矢至を仰向けにし馬乗りになると、口を大きく開く。先が二つに分かれた細い舌、そして皮膚を容易に貫通しそうな牙が上顎から突き出ている。
殺される。
矢至がそう思った直後に感じたのは、強烈な吐き気だった。
「矢至!」
須川の叫ぶ声が聞こえてきたが、到底返事をすることは出来なかった。腹筋が収縮を繰り返し食道を吐瀉物が通っていく。堪えきれずこみ上げてきた物を横を向きアスファルトに吐き出した。透明な液体と羽根が道路に広がり、頬と地面の隙間にまで入り込む。
「クッソ……」
矢至は悪態をついたが吐き気は止まらない。見下げている大鱗は矢至が苦しむ様子を楽しんでいるのか手を出してこない。
須川は大鱗の方まで駆け寄ろうとしたがバランスを崩し転がる。先程大鱗に頭を殴られた影響が遅れてきたのだ。
ほとんど死んだような気分になっていた矢至は、吐き出した白い羽根を虚ろな視線で見つめた。アスファルトに溜まっていた雪解け水が羽根を洗い、冷たい雪解け水で湿った羽根は夕日を受けて青紫色の光沢を浮かべていた。
現実逃避でもするみたいに、その羽根を綺麗だと思った。しかし目の前の状況は何も変わらない。吐瀉物の匂いと死の恐怖がより強い吐き気を誘った。
直後に吐き出したものは、一つの白い球だった。中からコツコツと、殻を叩く音がする。
「卵……?」
矢至が掠れた声で呟いた直後、卵にヒビが入り中からうねるように白い翼が飛び出した。舞い上がったそれは卵と大きさが全く釣り合ってなく、体格の良い大鱗を凌駕するほどだ。白い翼に不思議な青紫色の光沢を浮かべ、翼の先や嘴の周囲といった所々が黒く変色している。
突然現われた巨鳥に、大鱗は警戒の意を示すように首をもたげた。直後、急に矢至から飛び退く。飛び退いた大鱗の居た場所のすぐ後ろには、銃を構えた須川が立っていた。
大鱗は須川に構わず烏を目で追い続けている。矢至はふらつく体で立ち上がり、須川の元に駆け寄った。
「須川さん、なんだよ、あれ」
「分かんねえ……何が起こってやがんだ」
須川も頭を抑えふらつきながら答えた。まだ目眩が回復していないのだろう。唯一銃を持つ手だけは少しもブレていなかった。
烏は翼を傾けると、大鱗に向け滑空を始めた。大鱗は口を開き威嚇するように掠れた声を出したが、抵抗虚しく烏の嘴は大鱗の腕を抉り、足を掴むと遠くに投げ飛ばす。声にならない叫び声が響き渡り、大鱗は戦意を喪失したのか逃げ出していった。
大鱗を軽くいなした烏の視線が、矢至と須川に向けられた。須川は鹿倉の姿を探し出したが、鹿倉は気を失ってまだ目覚めていない。須川は銃を握り締め、烏を睨んだ。
「矢至、お前鹿倉を抱えて車まで走れ。疲れて出来ませんなんて言うなよ」
「須川さんは!?」
「あいつの気を引く」
「ただじゃすまないだろ!」
戦々恐々とする矢至と須川をよそに、烏は身を屈めた。頭を地面に近づけ翼も畳むと数歩だけ矢至の傍に近寄る。須川は身構えたが、烏は何もせず、あくびをするかのように短く鳴くと、そのまま目を瞑った。
烏が呼吸をする度に緩やかに上下していた翼はやがてピクリとも動かなくなった。風が吹いても、黒い羽根先が細かく揺れるだけだ。
「何が起こりやがった……って、おい矢至!?」
急に訪れた静寂の中で息を切らしていた矢至は、糸が切れたように気を失った。
====
「なあ、これ本当に食べて良いのか……?」
「ああ。呑み込むんじゃねえぞ。良く噛んで食えよ」
おかゆにカボチャの煮付けに煮魚。病院のベットテーブルに並べられた一食分の食事を前にして、矢至は震えながら箸を取った。
口に入れ咀嚼し、飲み下す。感動するほど美味しくはないものの、体に染みた。食べた物がエネルギーになってくれる。その実感を久しぶりに得られた。
あのボロアパートでの騒動が収まった後、矢至は小さく古い病院に戻されていた。不思議なことに嘔吐剤は処方されなくなり、今日は病院食だ出てきた。
矢至は味の薄い、良く言えば健康的な味のするカボチャの煮付けを口に含み、白湯で飲み下した。
「須川さん、大鱗はあの後どうなったんだ? ボロボロにやられたし、死んだのか……?」
「山の中に逃げ込まれて、現在捜索中だ。かなり痛手を負っただろうが、まだ生きてると思うぞ」
「片腕無くしてなかったか? 医者にも診て貰わないで平気なわけないだろ」
「祟化した奴、特にあんな風に姿形が別の生き物に変わってる最中の奴ってのは、生命力が凄いんだよ。対処はなかなか厄介なんだ」
「そうか……」
出汁の風味がするおかゆを口に含み飲み下しながら、矢至は逃走中の大鱗のことを考えた。もう二度と会いたくはないが、あのまま死ぬのは若干哀れにも感じたからだ。
「で、俺がこっちの病院に戻ってきて、嘔吐剤が処方されなくなった理由は聞いていいのか……?」
矢至は恐々とした視線を須川の脇腹に向ける。ジャケットを脱げばショルダーホルスターが露わになり、銃が収まっている位置だ。
「そうビビんな。いいか、最後まで落ち着いて話を聞けよ。ここに戻ってきたのはあくまでもお前がぶっ倒れたからだ。あのアパートでお前は卵を吐き出し、そこから烏が出てきたよな? あんな祟化の症状見たことがねえ。普通じゃないんだよ、お前の祟化の状態は」
「普通じゃないって、じゃあ俺は」
「最後まで聞けって」
「須川さん、ちゃんと先に安心させる言葉を言って上げた方が良いと思いますよ」
須川の横に座り、会話を見守っていた鹿倉が須川を宥めた。あの日大鱗に投げ飛ばされ気を失っていた鹿倉も、今は何事もなさそうに元気にしている。猟銃の入った黒いカバンは持ち歩いていない。
「矢至、俺が今すぐお前に銃口を向けることは絶対にない。管理局は今のお前の状態を、よく分からない状態ではあるが早急に危険を及ぼすものではないと判断したんだ」
「どういうことだ?俺は間違いなく遺骸を食ったし、あのデカい烏の卵を吐き出しただろ」
そこまで言って、矢至は自らの口を押えた。羽根を吐き出しただけでも十分気分の悪いことだったのに、あの時出てきたのは生物だった。卵が食道を通って出てきた時の感触が嫌でも思い出される。
矢至は箸を握り締め、白湯をまた飲んだ。
「それは私が説明しますよ。矢至君、あの日烏はあれ以降生命維持活動を止めたそうですね」
「死んだってことを言ってんだよな……?ああ、確かに俺らの前で少しも動かなくなった」
「その死骸を、私達の方で解剖してみたんですよ」
「は!? 何やってんだよ!」
「あれがなんなのか分からない限り管理局のほうでも矢至君の処遇を決められませんから。それに自分から出たものの正体が不明なのも気持ち悪いでしょう」
少し迷ってから、矢至は頷いた。納得したわけではなかったが、あれの正体が分からない不快感を放っておきたくはなかった。
「まあ、解剖の結果分かったのはあれが良く分からないものであるということだけです。脳や消化器、生殖器。これらの臓器があの烏にはありませんでした」
「……なんだよそれ」
「神使絡みの研究ではよくあることです。正体不明、原因不明。ですが推察ならできます。あれは矢至君なりの祟化の形なんじゃないでしょうか」
「あれがか!?」
アパートで見た二人の祟化を思い出す。肌が鱗に変わり、足先が合わさり、指の関節がなくなる。
人が蛇の姿になりかけていたのに比べて、矢至には外見の変化は無かった。
「既に聞いているとは思いますが、通常、祟化は体に負荷が与えられるほど現われやすくなります。あの日矢至君は絶食生活が続いていて弱っていましたし、大鱗に襲われ死を意識したと思います。祟化が現われるのにこれ以上無い好条件です。そして現われたのがあの烏。矢至君が山で遭難し発見された時に周囲で見つかった倒木の痕跡も、低体温、低栄養状態になったことで体に負荷が掛かり、卵を吐き出し烏が孵ったんでしょう」
鹿倉の言葉に、矢至は表情を強張らせた。理屈はなんとなく理解できても、自分のことのようにおもえなかったのだ。
「お前が見つかった周辺を改めて捜索したら見つかったよ。既に腐敗しかけていたが巨大な烏の死体がな。こっちも臓器の一部は見当たらなかったらしい」
矢至は頭を抱えた。次々と教わる情報量に頭がどうにかなりそうだった。
「要は、祟化は人間が獣に寄っていくのが普通なのに、俺はなぜか卵を吐き出してそこから烏が出てくる異常な状態で、それがあんたらには問題ないって判断された。だから殺される心配もないってことで良いんだな……?」
「そうですね。烏が出てきても矢至君は理性を保ってたようですし、時間経過による祟化も兆候が全く見られてませんから」
とりあえずの命の危険が過ぎ去り、矢至は肩をなで下ろした。目覚めてからずっと、須川や鹿倉が持っていた銃の事が頭から離れないでいたのだ。
「だが問題が全くないっていうわけでもないがな。お前が遺骸を食った事と、特殊な形とは言え祟化の症状が現われていることは確かだ。だから何が起きても対応できるように、俺はお前のことを見張ってなきゃならねえ」
「じゃあ、今まで通りちょくちょく須川さんが俺の様子見に来るって事になるのか?」
「そうできるぐらい時間に余裕があったら良いんだがな。生憎管理局は常に人手不足だし、最近輪にかけて忙しいし、俺は専門役職で遠方に出ることが多い。今までは何とか時間を作って様子を見に来てたんだ」
「じゃあどうすんだよ」
須川は胸ポケットを漁り始めた。先程まで物騒なことを考えていた矢至は内心相当焦ったが、取り出されたのは厳つい銃では無く、薄い一枚の紙封筒だった。開けてみろ、と須川は矢至に促す。
「は……?採用通知書!?」
紙面の上部には太字で確かにそう書かれている。右上には遺骸管理局の文字があった。鹿倉が数回掌を叩き拍手する。面白がっているのか真面目にやっているのかよく分からない表情だ。
「申し訳ないが上司連中が話し合ってそういうことになったようだ。俺がお前の様子を見張ってるのが難しいなら、お前を遺骸管理局で雇って俺の傍に置くっていう、若干強引な手段だな」
「若干どころじゃねえだろ!」
「動揺する気持ちは分かる。最初は俺も反対だった。俺の傍って言うのは立場と役割上、昨日みたいな危険な場面に何度も遭遇する。観察だけを理由にお前を傍に置くのは割に合わねんだよ」
「どうすんだよ。抗議でもすればいいのか?」
「いや。傍に置くことにした。お前を俺の仕事に動向させるっていうのは妥協案だったんだよ」
「妥協じゃなかったらどうなってんだ」
恐る恐る聞いた矢至に、須川は呆れたように苦笑を浮かべた。
「お前を観察施設に入れて、ほぼ監禁状態だ。そっちの方がマシだって言うなら今からでも上に伝えるぞ」
矢至は口を開け絶句した。そうなれば、大鱗のところにいた以前の環境と、どっちがマシか分からないぐらいだ。
「どうする」
矢至は須川から受け取った採用通知書を懐に仕舞った。破り捨てなかったのを肯定と受け取った須川と鹿倉は頷き合う。
「これから、嫌になるようなことに散々出くわすかもしれねえ。でも、目を逸らすなよ。これから先輩になる奴からの助言だ」
「どういうことだよ?」
「就職おめでとうってことじゃないですかね? 私からも、おめでとうございます」
「そういうわけじゃねえが……まあ、いい。要件は以上だ。俺達は帰るからな」
「あ、待ってくれ」
席を立った須川と鹿倉を、矢至は引き留めた。
「なんだよ」
「あんたらは怪我とかなかったのか」
須川はため息をつくと、持参していたレジ袋の中から果物の入ったパックを取りだした。
「お陰様でな。そんでもってお前は今は自分のことを気にしろ。絶食生活のせいでまともに走れもできねえ状態だろ。体力戻しとけよ」
須川はリンゴの入ったパックを雑に置いていくと、さっさと鹿倉と共に出て行ってしまった。病室には途方に暮れる矢至と、カットフールツだけが取り残される。
お節介に呆れながら、矢至はカットフルーツの蓋には書かれた『就職祝』という真面目そうな文字を見つめていた。
====
数日後、矢至の元にある知らせが届いた。警察と管理局の合同捜索によって、山に逃げ込んでいた大鱗が発見されたのだ。
ただし、顔だけを残し首から下全てが骨だけという、変死体の状態で見つかったらしい。
「人間だったんだろ、どうしてあんな……」
大鱗を発見した局員は、脳裏に焼き付いてしまった死体の様子に苛まれながらそう言ったという。
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