私は「推し」が分からない

磯町ひるね

私は「推し」が分からない

 私は「推し」が分からない。Z世代として情けない限りである。

 振り返ってみると、推しという概念が社会で広まりだしたのは2010年代。世間ではAKB48が空前のブームになっており、それに付随する形で彼女たちのファンであるオタクの特徴の一つとして「推し」という言葉が徐々に浸透し始めた。

 私がいわゆるアニメや漫画のオタクとしての道を歩み始めた2020年代初期には、まさに今のような「推し」ブームが始まり、友人のオタクとの会話でも「(作品名)の推しって誰?」というフレーズが自然と出るようになっていた。

 だが、私はずっと疑問に思っていることがあった。それが、「『推し』ってなんだ?」ということだ。

 なぜ「好き」ではなく「推し」でなくてはいけないのか。別にわざわざ言い換える必要なんてないじゃないか。私は初めて「推し」という言葉を知ってから、ずっとそう考えていた。

 もちろん上記のような質問をされれば「(キャラ名)だよ」と答える。だがそれは自分の「推し」という言葉への違和感を説明するのが面倒だからで、「推し」という言葉に納得したうえで使っていたわけではなかった。オタクでありながら「推し」が分からないという意味で、私は割と珍しいタイプのオタクだったかもしれない。

 そして昨今、推し活ブームはますます過熱しており、テレビなどでは「Z世代=推し」みたいな図式をよく目にするようになった。曲がりなりにも自分が属している世代がよく分からんものと結び付けられている今の現状に、正直なところ違和感を覚えていた。

 風向きが変わったのは、つい最近。ある一人のVtuberさんのファンになったことがきっかけだった。

 そのVtuberさんはバーチャルアイドルをはじめ様々な活動をしており、企画もトークも面白く、魅力に溢れている方だった。私はその人を初めて見たとき、猛烈に好きになると同時に、どうしようもないほどに嫉妬を覚えた。

 かねてから私には自分がつまらないという強いコンプレックスがあったのだが、それが反転したかのように爆発した。なぜその人が持っている才能ものを私は持っていないのか。いやそうでなくてはならない。私ごときが持っている才能などその人にはふさわしくない。いや、欲しい。無理だ。なぜだ。好きだ。追いたい。苦しい。面白い……。

 私はその才能が世界に存在することを神に感謝すると同時に、自分のつまらなさに絶望した。その人のようになりたいと憧れると同時に、憧れるしかできない自分を軽蔑した。その人の動画で笑うと同時に、どうしようもなく泣きたくなった。

 そしてふと気づいたのだ。これこそが「推し」の神髄ではないかと。

 憧れもする。嫉妬もする。尊敬もする。笑わせてくれる。泣かせてくれる。死にたくさせてくれる。生きたいと思わせてくれる。そんな一面的な「好き」じゃ収まらない複雑な感情、それでも最後には「好き」に収束するその感情こそが「推し」なのではないだろうか。

 私は「推し」が分からない。でも、それでいい。分からないまま、推していこう。

 「推す」という言葉の意味には、突き詰めて考える、というものもある。

 分からなくていい。分からないほうがいい。

 その分からなさこそが「推し」の魅力なのだから。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

私は「推し」が分からない 磯町ひるね @asanagi5631enden

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ