異世界魔法学園の百合
ななきらら
序章・五月の寒い朝
五月の朝。春の空気はまだ冷たく、肌を刺すような寒さが身を包んでいた。それとも、未知の世界への恐れが震えとなっているのだろうか。今日は、私の帝国魔法学園での初めての日。
教室へ向かう途中、窓の外には上級生たちが攻撃魔法の練習をしているのが見えた。その光景を目にするだけで、胸が重くなる。期待と不安を抱えながら、私は教室の扉をノックし、小さな教室へと足を踏み入れた。
教室内にいる生徒たちの視線が一斉に私へと向けられる。彼らにとって、私は一ヶ月遅れで入学してきた新入りだ。萎縮しながらも、事前に用意していた自己紹介をなんとか終え、先生に席を示された。教室の最後列、左端の席。窓からの朝日が差し込むその場所は、一見すると誰も座っていないように思えた。しかし、そうではなかった。
私の隣の席には、白い髪の少女が長椅子の上で丸くなり、まるで猫のように眠っていた。彼女の靴は机の下にきちんと揃えて置かれている。静かな寝息が私の耳に届くが、驚いたことに、教室内の誰も彼女の存在を気に留めていないようだった。先生でさえも何の注意も払わない。
やがて授業終了の鐘が鳴ると、少女は目をこすりながらゆっくりと起き上がり、猫のように背を伸ばした。先生は一瞬彼女を睨むように見えたが、すぐに諦めたように宿題の説明を続ける。そして、先生が教室を去ると、クラスメイトたちが私のもとへ駆け寄り、次々と質問を投げかけてきた。しかし、隣にいたはずの少女は、私に微笑みを向けた後、机の下をくぐり、何事もなかったかのように静かに教室を後にした。
その日の夕暮れ、私は初めて女子寮へと向かった。橙色に染まる空の下、校舎から寮へ続く道を歩きながら、胸の奥で小さな緊張が膨らんでいく。まるで、新しい生活の始まりを前に、不安と期待が入り混じるように。
寮の玄関で寮母に挨拶をすると、彼女は優しく微笑みながら私を部屋まで案内してくれた。手渡された鍵を握りしめ、深呼吸をして扉を開ける。室内は思ったよりも広く、二つのベッドが向かい合うように配置され、その隣には机とクローゼットが備え付けられていた。奥には小さなバスルームもあり、ここがこれからの私の居場所なのだと実感が湧いてくる。
「もう一人のルームメイトがいるわよ」
寮母がそう言いながら微笑む。
「少し変わった子だけどね。授業をよくサボるし、たまに屋根の上で昼寝してるのを見かけるわ。でも、悪い子じゃないから安心してね」
寮母が部屋を後にし、一人きりになると、私は静かに荷物を整理し始めた。服をクローゼットに掛け、持参した本を机に並べ、ベッドのシーツを整える。すべての作業を終えたあと、私は教科書を手に取った。
「……魔法の基本理論……」
ページをめくりながら、何度も頭の中で手順を反芻する。そして、指先に小さな火を灯す魔法を試してみた。しかし、何度繰り返しても、私の指先には何の変化も起こらない。理論は頭に叩き込んでいるはずなのに、うまくいかない。焦りが募り、ため息が漏れる。その時、ふと視線を上げると、ルームメイトが使っているらしきベッドに目が留まった。そこには、微かに誰かが寝ていた形跡が残っていた。
(どんな人なんだろう……)
ぼんやりと考えながら、私はもう一度指先に魔力を込め、そっと目を閉じた。
「またダメか……」
その時、不意に声がした。
「上手くいかない?」
驚きのあまり椅子から転げ落ちそうになる。硬い床に叩きつけられるかと思った瞬間、ふわりと温かなものに包まれた。目を開けると、そこには白い髪の少女の優しい微笑みがあった。
「…」
「…」
「おーい、君、まだ起きているの?」
ようやく、彼女にしっかりと支えられていることに気づいた。顔を赤らめながら「ありがとう」と呟くと、彼女は軽く笑い、「どういたしまして」と答えた。
「さっき、火の魔法を練習していたの?」
私は頷き、しかし自信なさげに答えた。
「はい。でも、私には魔法が使えないの……。」
彼女は一瞬考え込んだ後、「ちょっと見せてくれない?」と囁き、するりと私の背後に回った。次の瞬間、ふわりと温かな感触が背中を包む。彼女の腕がそっと私を抱き寄せ、吐息が耳元をかすめた。
「ちょっ、な、なにを……!」
戸惑いに声を上げる私の肩に、柔らかな指先が優しく触れる。
「いいから、火に集中して」
彼女の静かな声が、どこか甘く響いた。心臓が早鐘を打つのを感じながらも、私は言われるままに視線を炎へ戻した。
「魔法には技術や呪文の発音だけじゃなく、マナの流れを感じることが大切なの。君は、マナの流れを知らずに魔法を使おうとしている。だから、少しだけ手伝ってあげる」
彼女の温もりを感じながら、私は再び魔法の詠唱を始めた。そして―
「ふふっ、ほら、見て」
アレシアが私の手をそっと触れると、指先に小さな炎が灯っていた。
「え……?」
まさか、本当に……?
目の前で小さく揺れる炎を見つめながら、私は呆然とした。温かな輝きが私の指先で脈打ち、確かにそこに存在している。夢でも幻でもない。私の手で、生まれたもの。
喉の奥が熱くなり、視界が滲む。気がつけば、大粒の涙が頬を伝い落ちていた。
「君には素質があるよ。もし良かったら、私がマナの制御を教えてあげようか?」
優しく語りかける彼女の声に、私はこくりと頷いた。
「お、お願いします……!」
言葉が震え、感情の波に飲み込まれるように、私は彼女の胸に飛び込んだ。温かい鼓動が耳元で響き、力強く抱きしめられると、もう堪えきれなかった。
嗚咽がこぼれ、涙が止まらない。
今までの人生で、こんなにも嬉しくて泣いたことなんて、一度もなかった。
翌朝、私は気がつくとベッドの上にいた。どうやって戻ったのか記憶が曖昧だったが、それを考える間もなく、隣のベッドに彼女の姿がないことに気づいた。そこにはまだ彼女が眠っていた名残が残っていたが、まるで夢のように消えてしまったかのようだった。
顔を洗い、一階へ降りると、食堂にはすでに何人かの生徒が座り、朝食をとっていた。奥の調理場では、何人かの生徒たちが朝食の準備をしている。戸口で少し立ち止まっていると、金髪のクラスメイトが私に気づき、手を振ってくれた。昨日、カフェテリアへ一緒に行った子だ。
「あ、昨日の子!おはよう!」
「… おはようございます。隣で、構いませんか?」
「ええ、是非とも!」
「ねえ、私のルームメイト、今キッチンで朝食を作るのを手伝ってるの。寮の朝ごはんって本当においしいんだから! ほらほら、座って食べてみて、絶対後悔しないよ!」
すすめられるまま席につき、出された朝食を口に運ぶ。たしかに、驚くほどおいしい。思わず感嘆の息を漏らしながら、ふと昨日のことを思い出し、尋ねてみた。
「ねえ、昨日私の隣にいた白髪の子……彼女のこと知ってる?」
「ああ、アレシアね……うーん、彼女は本当に不思議な人よ。あまり人と一緒に過ごさないし、授業にもほとんど出てこないの。でも、たまに来たかと思えば、ずっと寝てるのよね。なのに、なぜか先生たちは彼女に何も言わないの……不思議でしょ?」
クラスメイトはパンをちぎりながら、少し考え込むように言葉を続けた。
「でもね、彼女はすごく優しいのよ。私も何度か話したことがあるけど、冷たい感じは全然しなかったし……それに、朝食の準備を手伝っているのを見たこともあるわ。料理ができる人は絶対に優しいよ!でも、なんて言えばいいのかしら……まるで、いつもどこか別の世界にいるみたいな子なのよね。勉強にもあまり興味がないみたいだけど……今日の試験、大丈夫なのかしら?」
本当に不思議な人。彼女のことを知れば知るほど、疑問は増していくばかりだった。
朝食を終え、校舎へ向かう途中で、私はアレシアを見つけた。
彼女は、学校の入り口近くの大きな木の下で静かに眠っていた。風に揺れる銀色の髪と、穏やかな寝顔。彼女の隣には、小さな猫が丸まって寄り添っている。
……かわいい。撫でてみたい。
猫を。
周囲の生徒たちの視線がアレシアに集まっているのを感じながら、私はそっと足を止めた。しかし、彼女はそんなことを気にも留めず、ただ静かに眠り続けていた。
そんな彼女を残し、私は教室へ向かう。そして始まったのは「適性試験」。
この試験は、現在の魔法知識や技量を測るもので、結果に応じて生徒にはランクが与えられる。ランクに応じた徽章が制服に縫い付けられ、最上位のランクを獲得した者には、標準の灰色の制服ではなく、格式ある白の礼装が与えられるのだ。
私は理論には自信があったが、実技と剣術にはまったく期待していなかった。それでも昨日、初めて魔法を成功させたことを思い出し、少しだけ胸が高鳴る。
ふと教室を見渡すと、やはりアレシアの姿はない。
この試験に落ち続ければ、半年後には退学処分となる。……もしかして、彼女はこの学校を去るつもりなのだろうか?
そう思った瞬間、教室の扉が静かに開いた。
アレシアだった。
何の前触れもなく現れた彼女は、黙って試験用紙を受け取り、教壇の真正面の席に座ると、迷いなくペンを走らせ始めた。
試験時間は残り30分しかない。大丈夫なのだろうか?
しかし、それからわずか10分後。
彼女は静かに立ち上がり、解答用紙を提出すると、何事もなかったかのように教室を後にした。去り際に、私に向かって軽く手を振りながら―。
……適当に答えたの? それとも、最初からわかっていた?
本当に、何もかもが謎に包まれた人だ。
午後の実技試験は、予想通り散々な結果だった。
だが、クラスメイトたちは笑顔で「練習すれば大丈夫!」と励ましてくれた。アレシアの姿は、ここにもなかった。
そして最後の試験、「剣術」。
教室の生徒たちは観客席へ移動し、上級生たちも見物に訪れるほどの盛況ぶりだった。彼らの視線の先には―まさか、アレシアの姿。
彼女は、歴戦の剣士である教師の一人と対峙していた。
その教師は、かつて帝国の将軍として名を馳せた人物だ。
それにもかかわらず―アレシアは、一歩も引かず、互角に剣を交えていた。
私は、それを見た瞬間、安堵の息をついた。
これだけの実力があれば、彼女が退学になることはないだろう、と。
そして、日が暮れる頃。
新入生たちは教室に集められ、それぞれのランクが発表された。
20人中、11人が最低ランクである「第十位」。私もその中に含まれていた。
理論の成績は良かったものの、実技と剣術の結果が今一だった。
次に、8人が「第九位」。このランクには、魔法の扱いが得意な生徒が多かった。
今朝、一緒に朝食を食べたクラスメイトは「第八位」。一年生でここまでのランクを取るのは珍しいらしい。
そして最後に、教師がゆっくりと口を開いた。
「……と、最後の生徒―アレシア・ドラゴンヴィル。ランクは……第一位」
教室内にざわめきが広がる。
「えっ!?」「嘘でしょ!?」「だって授業ほとんど出てないのに……!」
生徒たちからの質問が飛び交う中、教師は困ったように眉をひそめた。
「詳しい理由は……申し訳ないが、公表できない」
そう言い残し、教師は淡々と発表を終えた。
そのとき、私はふと気づく。
……アレシアが「特別」なのは、ただの実力だけじゃない。
彼女には、何か秘密がある。
そう確信した瞬間だった。
長い一日を終え、ようやく自室へ戻った。
制服には最低ランクの徽章が縫い付けられている。それでも、もし昨日アレシアに出会わなければ、私はランクすら与えられなかったかもしれない。小さな炎を灯すことさえできなかったのだから。
……またアレシアのことを考えている。
窓の外を覗くと、夜の帳がすっかり降りていた。寮の前の道を照らす街灯が、静かな光を落としている。
そして、その光の下―
アレシアの姿があった。
私は慌てて部屋を飛び出し、彼女のもとへ駆け寄った。
彼女は剣を手にしていた。
「……こんな 時間に 何を してるの?」
息を整えながら尋ねると、アレシアは軽く剣を振り、にこりと微笑んだ。
「ああ、私の可愛い泣き虫なルームメイト。こんばんは」
「……っ!」
昨日のことを思い出し、顔が熱くなるのを感じる。
「聞いたわよ。ちゃんと実技試験に合格できたんでしょう? おめでとう」
「あ……ありがとう。それに、その……アレシア、昨日は本当にありがとう。あなたがいなかったら、私は……」
私が何かお礼を言おうとすると、彼女はクスリと笑った。
「いいのよ、そんなに気にしなくて。でも……そうね。昨日のあの可愛い仕草、あれで十分お礼はもらったわ」
「……!」
彼女の言葉を理解した瞬間、顔がますます熱くなる。
「それよりも、せっかくここに来たんだから―どう? そろそろ、マナの制御を学んでみる?」
「……っ、はい! ぜひ、教えてください!」
そうして―
私は、謎に満ちた彼女と歩み始めることになる。
その、優しく、どこか掴みどころのない微笑みとともに。
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