大きすぎる失くしもの
増田朋美
大きすぎる失くしもの
暖かくなってきて、そろそろ上着なしでも外へ出られるかなと思われる季節がやってきた。それでは少しづつ外へ出たがる人も増えてきているような気がする。人が歩く道には、単に人間が作ったものである道路と、そうではないものとある。人の作ったものは、自分の道にはならない。
杉ちゃんとジョチさんは、用事があって近くの漢方薬局へいったのであるが、その帰り道、二人がバスを吉原中央駅で待っていると、一人の女性が、
「あの、失礼ですけれども、影浦医院という精神科は、どこのバスに乗ったらいいのですか?」
と、杉ちゃんたちに言った。
「ああ、影浦先生のところにいきたいんですか?」
ジョチさんが優しくそうきくと、
「はい。」
と、女性は言った。
「そうですか。こちらからですと、影浦医院は、茶ノ木平団地ゆきのバスに乗っていただくと良いと思います。ただ、一時間に一本しか走っていないので、まだ、バスが来るには、40分以上あります。カフェかどこかで休んだらどうでしょう?」
ジョチさんがそう返した。
「そうですか。影浦医院は、茶ノ木平団地行きのバスに乗っていかないとだめなんですね。どちらかに、レストランやカフェはありますか?」
と女性が言った。
「じゃあ、こちらの店に来てください。小さな店ですが、静かに食事ができると思います。」
ジョチさんがそう言って、女性を中央駅近くのカフェに案内した。カフェは、一人の女性店主が、切り盛りしている店であった。三人が入ると店主がお水を持ってきてくれた。
「えーと、影浦医院に行くと言っていたね。なんか調子が悪いことでもあったのか?それともなにか体調が悪いのに、異常がないとでも言われたのか?」
杉ちゃんがそうきくと、
「そういう具体的な症状があるというわけではありませんが、それでも誰かに話を聞いてほしいんだったら、精神科に言ったらどうかと主人に言われたものですから。」
と、女性はそう答えた。
「そういうことなら、医者へいくというよりも、カウンセリングとか、そっちの方へ行ったほうが良いと思うんだがな。医者は確かに薬はくれるけどさ。問題を解決するんだったら、何の役にも立たないよ。」
杉ちゃんがでかい声で言った。
「でも、主人には、どうしても聞いてほしいことがあるんだったら、精神科へ行くように言われたものですから。」
そういう女性に、
「お前さんの名前何ていうの?」
杉ちゃんが聞いた。
「ええ、茂原と申します。茂原染子です。」
と、彼女は答えた。なんだか聞いたことのある名前である。
「茂原染子さんというと、あの確か、静岡の県議会に立候補した。」
杉ちゃんが言うと、
「はい、そうなんです。私は、静岡の県議会議員をしていました。一時は高齢者や、障害のある人たちの役に立ちたくて、立候補しましたが、それも何の役にも立たなくなってしまいました。」
と、茂原染子さんが言った。
「何の役にも立たないとは、どういうことですかね?」
と、杉ちゃんが言うと、
「実は、子どもにまつわる仕事がしたいと思って、そのような立場についたのに、子どもを一人も育てられなかったんです。一度は私達のところにも、着てくれたんですけれども、私、本当に馬鹿ですから、高齢初産は危険だと散々言われたのにもかかわらず、議員のしごとをしてしまったんです。そうしたら、早期剥離になってしまって、あっけなく。生まれてくることもできなかったんです。」
染子さんは申し訳なさそうに言った。
「そうなんですか。それは確かに辛かっただろうね。赤ちゃん助からなかったということでしょう。」
と、杉ちゃんが言うと、
「簡単に僕らが辛いと言うことではないですよね。赤ちゃんの命を奪ったことになるから。」
ジョチさんが静かに言った。
「そうですよね。あたしは、なんていうひどいことをしたんだろうって、私は、自分を責め続けました。それでも、息子は帰ってこないのはわかります。もうどうしたら立ち直れるかどうかわからないんです。ずっとずっと、悩み続けていて。」
染子さんは涙をこぼしていった。
「わかりました。そういうことでしたら、医者よりも、ヒプノセラピーとか、そっちの方にかかったほうが良いと思います。催眠によって、無意識にあなたが感じている所にアクセスして、病気の原因を探ったり、気持ちを楽にする治療法です。精神疾患や、脳障害の治療に利用されています。」
ジョチさんがそう事情を説明した。
「そうなんですか。そういうのにはちょっと、怖くて参加できないですけど、そういうことなら受けてみようかな。気持ちを切り替えることもなかなかできないし、超越的なものに頼るしかないのかもしれない。」
悩むような言い方で、茂原染子さんは言った。
「なかなか答えが出ないのもわかりますが、いずれは乗り越えなくてはならないことだと思います。幸いにも、手を貸してくれる人は、この時代にはたくさんいますし、よく合う治療者を見つけて、楽になるように生活してください。」
ジョチさんが優しくそう言うと、
「ありがとうございます。なんだか聞いてくださってありがとうございました。」
茂原染子さんはとてもうれしそうに言った。
「もし、必要だったら紹介しますよ。僕らはそういう人たちをたくさん見ていますから。」
ジョチさんがそう言うと、
「なにか福祉関係とかそういうことですか?」
と、染子さんは聞いた。
「まあ、福祉関係っていうか、居場所のない女性たちに、勉強や仕事をするための部屋を貸し出す施設をやっています。場所は、富士市の大渕で、富士山エコトピアの近くです。女性たちの中には、セラピーが必要な人もたまにいますから、そういう人に、セラピストの先生を紹介してあげることもしています。」
ジョチさんはそう飾らずに答えた。
「そうなんですか。すごい事業をやってらっしゃるんですね。私がしている、議員の仕事よりも、もっとすごいと思います。私なんて、ただ、座って静岡県がどうのこうのと話をしているだけですよ。それよりもっとすごいじゃないですか。」
染子さんは、杉ちゃんたちを褒めた。それは飾らずに、話しているという感じの話し方で、妬んでいるとか、そういうことはなさそうだった。
「いいえ大したことありませんよ。それよりあなたも、早く楽になって、次のステップへ進めるといいですね。僕らは、そういうお手伝い役が必要だったら、手を貸しますので、何でも言ってくださいね。」
「ありがとうございます。なんだか、今日はすごく勇気が出ました。とりあえず今回は、影浦医院へ行って、もし、必要が出てきたら、お手伝いをお願いするかもしれません。お二人のお名前をお伺いしてもよろしいですか?」
ジョチさんがそう言うと、染子さんは、そう聞いてきたので、
「僕は、影山杉三で、杉ちゃんって呼んでね。」
「曾我正輝と申します。」
二人は、それぞれの名前を名乗った。染子さんは、いそいで手帳に二人の名前を書き込むと、用意されたお茶をがぶ飲みして、
「ありがとうございました。お二人の飲食代は私が払っていきますから、ゆっくり召し上がってくださいね。」
と、置かれた伝票を取って、すぐに支払いに行き、そのまま急いで店を出た。もともとせっかちな人なんだろうと思われる。本当に動作がのろいということはなかったから。
「はあ、ああいうふうに、体を病んでるわけじゃないから、すぐに元気になれるんだよなあ。」
と、杉ちゃんが言った。
「まあ、そういうことなんでしょうが、本人にそれを言うのはやめましょう。まあ、きっと、議員をするくらいだから、なにかを掴む才能はあると思いますよ。きっとすぐに、なにか打つ手を考えるでしょうね。」
ジョチさんが言うと、杉ちゃんがそうだねえと言って、お茶を飲んだ。ジョチさんも、まあ、そうですねと言ってお茶を飲んだ。
そのようなことがあって、製鉄所に、茂原染子という女性が訪ねてくるか、電話をかけてくるとか、そういうことがあるかと、ジョチさんは注意をしていたのであるが、そのような電話は一件もかかってこなかった。それでは、どこかで、誰かに相談して解決したのかなと杉ちゃんもジョチさんも勝手に思っていた。
その間にも、製鉄所の中は変化している。3月という季節は、卒業や就職あるいはその逆のために、製鉄所を離れるひとも多く、また製鉄所に新たに入ることを希望する人もいる。その中で、水穂さんだけが、製鉄所で間借りをしているので、いつも同じ場所にいる。杉ちゃんたちは、いつもと変わらず、水穂さんの世話を続けているのだが、この3月はただでさえ忙しい季節。ときには、杉ちゃんたちも手を焼いてしまうことがある。
その日も、水穂さんは、ご飯であるおかゆを食べただけで、咳き込んで中身をはいてしまうということを繰り返した。ちょうどジョチさんは、新規利用希望者と話をしていて、水穂さんのところへ行けなかったので、仕方なく杉ちゃんが水穂さんの世話をしていたが、
「もう、いい加減にしろ!」
と怒鳴ってしまうのであった。水穂さんは、返事の代わりに咳き込んで頷いた。
「咳で返事してる。」
杉ちゃんは呆れていった。とりあえず、咳き込んでいる水穂さんに、枕元にあった水のみの中身を飲ませて咳を止めるのであるが、それを、利用者たちが心配そうに眺めていた。
「関係ないやつは、部屋で戻ってろ!」
杉ちゃんはでかい声で言った。それと同時に、製鉄所の玄関の引き戸があいた。
「こんにちは。」
ちょうど手が離せなくて、返答ができなかった杉ちゃんは、水穂さんのそばにいながら、
「ああいいよ。入れ!」
とでかい声で言った。
「ありがとうございます。お邪魔します。」
入ってきたのは、女性であった。しかも、きちんとスーツに身を包んで、完全にお仕事着という感じの女性である。
「あれ、お前さんはあのときの。」
と、杉ちゃんがいうと、
「はい。あのときの、茂原です。茂原染子。」
彼女はそういった。髪も切ってしまっていたし、服装もあのときとは随分違っていたので、染子さんとわかるのに、ちょっと手間がかかった。
「この間はありがとうございました。あのあと影浦先生のところに行って薬をいただいて、その後、心の病気を持った女性を集めるグループを作って、今は、楽しく活動しています。あのときああして後押ししてくれなかったら、今やってることはできなかったと思う。だから、ありがとうございます。」
染子さんは杉ちゃんにそういったのであった。
「もうすぐ、本を出すことにもなってるんです。子どもを失くしたときのことを、本に書いて、皆さんに知っていただきたいんですよ。」
「そうなんだねえ。やっぱり、心を病んでいるっていうのは、そこが解決できるんだったら、すぐに動けるもんなんだな。ましてやお前さんは、議員で金持ちでもあるんだし、すぐグループ作ったり、本を書いたりできるんだよな。」
杉ちゃんはちょっと皮肉めいたことを言った。
「それで、今回は何をしに来たんだよ。」
「ええ、今日は、まず、先日のお礼に、こちらを持ってきました。」
と、染子さんは、大きな箱を杉ちゃんに渡した。
「中身は?」
と、杉ちゃんが聞くと、
「サバ缶です。伊勢丹で購入した高級品ですから、皆さんにも食べていただけるのかなと思いまして。」
と、染子さんは言った。
「ああ、それはだめだね。水穂さんが食べられない。一人でも食べれないやつがいるんだったら受け取れないよ。」
杉ちゃんが言うと、水穂さんが二三度咳をした。すみませんと言って、口を拭った紙には朱肉のような赤い液体が、見えた。
「まあこの人!」
染子さんは驚いて言った。杉ちゃんが、こんなところで咳き込むなといったが、水穂さんは、咳き込んだままだった。
「昔へ来ちゃったみたいだけど、今でもそういう人がいるってことは、聞いたことあるわ。そういうことなら私、お礼できるかもしれない。彼を、専門的な知識がある、大きな病院につれていきましょう。」
「うーんそうだねえ。それは無理だなあ。今までそういうことは何回もしたんだが、みんな、断られちまった。それは、しょうがないことだと思って諦めちゃった。まあ無理なことは無理なことでもあるからねえ。」
染子さんの発言に、杉ちゃんはでかい声で言った。
「そうなの?でも今は、戦時中でもないし、誰でも病院に入れると思うわよ。もし、必要があるんだったら、私の名前を使ってもいいわ。私が、彼の保護者とか、そういうふうに名乗って、彼を、無理やり病院にいれることだってできるから。」
「まあそうなんだけどねえ。」
と、杉ちゃんは言った。
「政治家であればどんな無理でも通ると思うなよ。ましてや、政治家ならではの汚い手を使って、水穂さんを病院に入れようなんてそんなことはなしないでもらいたいな。そうされてもさ、病院で邪険に扱われて、それで悪化するのが落ちだから。もう病院というところはそういうところなの。だから、無理なものは無理。」
「無理なものは無理って、人の命の話よ。」
染子さんはそういった。
「だけどねえ。そういうことは、しょうがないんだよ。まあ偉い人は、自分のことしか見ないから、水穂さんみたいな人のことなんて眼中にないでしょうけど。それだから、そうやって、人の命の話よなんて、簡単に言えるんだ。」
杉ちゃんは腕組みをしていった。
「でも、このまま、放っておいていいわけないでしょう?」
染子さんがそうきくと、
「いや、無理なものは無理なんだ。どうせ病院につれていったって、こんな着物着ているひとを、うちの病院で見るんだったら、病院のメンツに傷がつくとか、そういうことで、断られるのが当たり前。だいたいね、そういうことを知っている医者もいると思う?医者なんてさ、どうせとっつぁん坊やで、いいよいいよの教育しか受けてこないわけだから、こういう着物着ている人を、見てあげようなんて優しい医者もいないと思うよ。」
杉ちゃんはでかい声で言った。それと同時に、水穂さんがまた咳をし始める。
「着物なんて、誰が着ても同じでしょう。みんな同じ形だし、色だって同じだし、それのどこに違いがあるんですか?そんなものどうでもいいじゃないですか。それより医者に連れて行くなりするべきではありませんの?」
「ありません。着物の歴史ってのは、お前さんが生まれる何十年前からあるもんでね。まだ、身分制度の厳しかった時代の名残りがあるんだと思ってよ。それによって、こういう柄の着物を着てるやつは、どんなに、つらい思いをしていきてきたんだと思う?きっとね、お前さんがやってる想像以上にすごかったと思うぞ。」
杉ちゃんは、水穂さんの背中を擦ってやりながら、そういったのであった。
「お前さんだって、子供さんをなくすことをしてきたじゃないか。それだって自分の力ではどうにもならないだろう。それは水穂さんだって同じでさ。自分の力ではどうにもならないんだよ。だから、僕らはそばについて見てあげることしかできないんだよ。」
杉ちゃんは、でかい声で言った。
「こういう柄って、ただの花がらじゃない。それなのにどうして、、、。」
「まあ、着物の歴史のことは、説明しても無駄かな。」
杉ちゃんは、ちょっとため息を付いた。
「着物なんて、今の時代では、全く自分とは関係ないとおもってしまっているやつほうが圧倒的に多いから、銘仙の着物のことなんて、わかんないだろうね。最も、そういうやつが政治家になっちまうんだからな。いい時代になったなあ。」
杉ちゃんはそう言って、水穂さんに横になろうといった。水穂さんははいと小さな声で言って、そのまま倒れるように横になった。
「悪いけど、サバ缶は持って帰って。水穂さんには食べさせられないから。他のやつにあげるというのもなんか可哀想だからしないよ。」
杉ちゃんにサバ缶の袋を渡されて、思わず染子さんは、庭へ投げ捨てたくなってしまったが、それはしないで、持って帰ることにした。
「まあ、日本をいい国家にするためにせいぜい頑張りや。お前さんにできることなんてほんの少しだと思うけどさ。僕らができることはもっと少ないや。それでも、お前さんのほうがちょっとはできることは多いんじゃないの?でも、できないやつがいるからできるやつが頼りにされるんだよね。」
なんだか、クイズを出されているような気がして、染子さんは、そうなんですねとだけ言って、製鉄所を出ていった。杉ちゃんが台所へ言って塩を取ってこようという声も聞こえてきたので、なんだか、悔しいというか、言葉で言い表せない気持ちだった。
だけど、一つだけ気になる言葉があった。染子さんは、帰りのバスに乗りながら、銘仙と、スマートフォンで調べてみる。それを検索欄にかけてみると、可愛らしい柄付きの花がらや他の柄の着物が出てきた。男女問わず、柄付きは独特であるらしいのだ。しかし、よく調べてみると、それは、目専と呼ばれていて、いわゆる農民や町人より低い身分とされた人たちが、着ていた着物であったという記述も見られた。ということは、自分はなんて言う人のところに今日行ったのかと染子さんは思ってしまうが、でも、そのせいで医療を受けられないのであれば、本当に辛いだろうなと考え直した。世の中には、自分の感じている以上に辛い思いをしている人がいる。
大きな教訓だった。
走っているバスの外には住宅街が見えた。そこで、ご飯を食べるとか、缶ジュースを飲むとか、そういう平和な暮らしが繰り広げられているのだろう。それができるというのは、少なくとも銘仙の着物を着ている人ではないのに違いない。染子さんは、政治家であるのがなんだか恥ずかしいと思ったけれど、それでも、世の中をもっと美しくするためになにかしたいと宣言した、小学生の頃を思い出して、自分はそのためにいるのだと、何回も復唱して、自宅へ帰った。今日出会った、杉ちゃんや水穂さんのことは絶対忘れはしないだろう。こんな迷惑な贈り物をしないために。
本当に寒暖差の激しい季節だった。先程まで暖かかったのに、もう風が拭いて、寒くなっていた。
大きすぎる失くしもの 増田朋美 @masubuchi4996
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