はじめてのひなまつり
霖しのぐ
***
「マコちゃん、お帰り!」
大荷物を抱えた私を出迎えた母は、嬉しそうに声を弾ませていた。
「ただいま」
久々の帰省。具体的には二年半ぶり。母との関係は良好だけど、色々あって実家からは足が遠のいていた。
今日は、ある決意を持って帰ってきた。心臓が、少しやかましめに鳴っている。
脱いだ靴を揃えた私は、懐かしい匂いを思いっきり吸い込んで、そわそわとしていた気を落ち着かせた。
洗面所で手を洗ってリビングダイニングへ。私が家を出た時と、景色はほとんど変わってない。母は台所に戻って作業している。父もいるはずだけど、どうやら二階にこもっているらしい。
ダイニングテーブルの上には所狭しとごちそうが並んでいる。久々に帰ってきた我が子を迎えるため……にしてもちょっと豪華すぎる気がする。
「……なんかお祝いすることなんかあったっけ?」
「ほら。初めてのひな祭りだから、はりきっちゃったの」
首を傾げた私に母はにっこりと笑う。
なるほど、テーブルの中央には色鮮やかなちらし寿司があって、塗りのお椀にはお吸い物。中にはハマグリがちゃぷんと沈んでる。他にも白酒に菱餅、ひなあられ。まるでお手本のようなひな祭りの食卓に、ダメ押しとばかりに私の好物がいくつも並ぶ。
……嬉しい。帰ってきてよかった。お腹がぐうっと鳴った。
「そうだマコちゃん、あれ見て」
母が指差した先……リビングの隣にある和室に目をやると、床の間に見慣れないものが置いてある。
「え、もしかして、わざわざ雛人形まで買ったの?」
「いや、私のよ。この間、おばあちゃんちから持ってきたの」
私は和室に入り、ガラスケースの前に膝をつく。ひな人形と聞けば豪勢な七段飾りがぱっと頭に浮かぶけど、目の前にあるのはお雛様とお内裏様ふたりがガラスのケースに収まっているだけのシンプルなものだった。
「可愛いね」
「でしょう? 今どきのデザインじゃないけど、これもいいわよね」
今どきのデザインの雛人形がどういうものなのかはよくわからないけど、私は年月を重ねて少しくすんだような色合いが好きだと思った。
「うん、素敵。アンティーク? ヴィンテージっていうのかな?」
「どうなんでしょうね」
私は雛人形をこんなに間近でじっと見たのは初めてだけど、細やかな仕事が施されているのに感心する。金糸銀糸が織り込まれた華やかなお着物を幾重にも重ね、糸のように細い目にわずかにはにかんだような口元。久々に押し入れから外に出て、ちょっとまぶしそうにも見える。
「
父がようやく二階から降りてきて、ひな人形に見とれていた私の背中にそう言った。嬉しそうにしてくれた母とは対照的に、父の声は感情のこもってない淡々としたものだった。父は感情をわかりやすく表に出すことのない、昔気質の人ではある。
「ただいま……」
「その、なんだ、元気そうでなにより」
背中を固くしながら恐る恐る返した私に、父は笑いもせずそれだけ言った。父は食卓ではなくリビングのソファーに腰を下ろして夕刊を広げている。それからときおり新聞を下げて私をチラリと見て、また視線を記事に戻すのを繰り返している。
まるで腫れ物を目の前にして、居心地の悪さを一生懸命ごまかしてるような、そんな感じ。
父が私に対して複雑な思いを抱いているのはわかっている。理由にもちゃんと心当たりがある。
――私は、父が待ち望んだひとり息子としてこの世に生まれてきた。
小さい頃から厳しくも大切に育てられたと思う。あちこちに連れて行ってもらって、いろいろな経験をさせてもらったことは、私の人生の糧になったことには間違いない。
父とやる、いわゆる男の子の遊び……たとえば、釣りもキャッチボールも私は結構好きだった。ただ、坊主にするのはどうしても嫌だったから、少年野球のチームに入ることだけはお断りしたけど。
そう、私の心は物心ついたときからずっと女の子だった。それを打ち明けても父は一切否定しなかったし、成人したと同時に手術で身体を女性にして、戸籍を変えたいと言ったときも特に反対はしなかった。
いや、違うか。口では『わかった』とは言いつつ、ずっと難しそうな顔をしていた。そしてそれ以上何も言わずに私に背を向けた。
私はその理由を、父は私に息子のままでいて欲しかったからだろうと考えた。だから、私は手術をして戸籍の手続きを終えてからは父とはやりとりができなくなった。
自分の心に嘘をついて男性の身体のままでいるのは無理だったけど、それでも父が望んだ人間になれなかったことに罪悪感があったから。大切にしてもらったという実感はあったから、なおさらに。
実家になかなか帰ってこられなかったのは単に仕事が忙しかったからなのもあるけど、一番の理由は父を避けたかったからだった。けれど、このままではいけないとも思っている。私は、父とやっとちゃんと向かい合う決意をして今日ここにいる。
「ごめんなさい。勝手なことして。けれど、自分に嘘はつけなかった。お父さんには迷惑をかけないように、これからも真面目に生きていきます。だから」
父に向かって膝を揃えて頭を下げたけど、父は眉間に皺を寄せたまま何も言ってくれない。悲しくて肩をすくめた私の横に、いつのまにか母が膝をついていた。肩に乗せられた手があったかい。今にも涙が出そうになる。
「お父さんったら、マコちゃんが綺麗になってびっくりしてるのよ」
「おい、何を言うか!!」
母の言葉に父は声を裏返すと、新聞を頭からかぶるようにして顔を隠してしまった。
あれ? 声は大きかったけど、別に怒りのニュアンスはない。私は何が起こっているのかよくわからなくて、ひたすら目を瞬かせる。
「ほらね。久しぶりに
「えっ?」
……新聞は黙秘しているけど、母はいたずらっぽい笑顔でさらに続ける。
「だって、この間マコちゃんが送ってくれた振袖の写真あるでしょう? あれ見て嬉しそうにしてたんだから。『この写真、俺に転送してくれないか』って言って。携帯の待ち受けにしてるの」
「ッ!!」
父はテーブルの上に置きっぱなしだった自分のスマートフォンを、ポロシャツの胸ポケットに素早く隠した。
「え、そうなの?」
私の問いに、父は顔を隠したままで押し黙った。
振袖の写真というのは、先日友人の結婚式で撮った写真のことだ。私の事情を知っている友人の後押しもあり、式にはずっと憧れていた振袖を着て列席させてもらった。
友人には式が華やかになったととても喜んでもらえたし、私も成人式の時は振り袖を着ている子たちをうらやましく見ていただけだったから本当に嬉しくて、私ひとりで写っている写真を母に勢いのままメールで送ったのだ。
もちろん母は『素敵な晴れ姿ね』と喜んでくれたけど、まさか。ここでようやく父が赤くなった顔を半分だけ覗かせ、ぼそぼそと続ける。
「まあ、そうだな、よく似合っていると思ったぞ」
「ほんと!? ありがとう!!」
父は困ったように私から目を逸らし、わざとらしい咳払いをしてから、
「ま……誠は母さんに似て器量がいいからな、当然だろう」
と消え入りそうな言った。
「あら!」
今度は思わぬ流れ弾を受けた母が、悲鳴のような声を上げてから顔を真っ赤になった。
父がまさか母に対してそんなことを思っていたなんて。ふたりともまるで白酒でも召されたようなのがおかしくて、私は声を出して笑った。
どうやら父も父で私に対して罪悪感を持っていたらしい。まさか中身が女の子だったとは思いもしなかったので、ずっと負担をかけていたのではないかと懸念していたんだそうだ。
そんなことないよ、と私が言うと父の眉間が明らかに緩んだ。わだかまりは、すっかり解けて消えたみたいだ。
「……そうだ。お前、どうして名前を変えないんだ? もしも俺に気を使ってるなら……その」
家族三人での楽しい食事を終えたあと、父は神妙な顔で私に問いかけてきた。
私の名前は『
私の事情を知らない人からは『女の子なのに変わっているね』と言われることもある。けれど、響きも漢字の意味も好きだから、変えようとは思わなかっただけだ。
「まあ、確かに字がこうだと男っぽいけど別に変じゃないし、なによりお父さんがつけてくれた名前だから。気に入ってるんだよ」
私がそう答えると父は目を丸くして、それから恥ずかしそうに頭をかきながら笑った。
「そうか。ありがとう」
二十代も半ばになって迎えた初めての雛祭り。床の間に置かれた雛人形は、私たち家族を優しく見守ってくれているような気がした。
はじめてのひなまつり 霖しのぐ @nagame_shinogu
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