歩き続けよう、希望ある限り

榎木扇海

歩き続けよう、希望ある限り

 魔霧まぎりの治療を済まして村を出ようとしたとき、ある一人の男が師匠の名を呼んだ。

 男は目がくぼみ頬がこけて、ずいぶん青い顔をしていた。髪や体が薄汚れており、服の裾も黄ばんでちぢれている。


「どうなさいましたか」


 師匠の声は穏やかで、徹夜で必死の治療を施した後とは到底思えない。その隣で立っていただけの俺でさえ、今すぐにでも毛布を頭までかぶって眠りこけたいくらいなのに、年齢不詳ではあるが鎖骨まで伸びた真っ白な髭を蓄えている師匠の目元には隈一つない。つくづく人間離れしたひとだ。


「……貴方がたは、どうして、前を向けるのですか」


 消え入るような男の声は掠れて、朝焼け空にとけていきそうだった。

 そしてふと、思い出した。

 確かこの男は婚礼後まもない妻とその腹の子を魔霧で亡くした、村の羊飼いだった。男については村長から聞いただけで、口を利くのは初めてだが、話で聞いていたよりもずっとみすぼらしい身なりをしていた。

 師匠は白い髭の中にある口の端をゆっくりと吊り上げ、目尻に何本もの皺を刻んだ。


「この世に希望がある限り、我らは歩き続けるのですよ」


 俺は思わず顔を跳ね上げて師匠を見た。睨んだ、という表現のほうが正しいかもしれない。


 よくもそんな歯の浮くような言葉が吐けるものだ、と口の中で悪態づく。―――正直なところ、俺は師匠があまり得意でなかった。


 この世に希望なんてものはない。

 何百年もの時間を掛けながらも着実に浸食を続ける魔霧。俺や師匠のように魔霧にある程度適応できる、いわゆる"魔人"が少しずつ血を分け与えることで体内への浸食を遅らせることはできるが止めることはできない。いずれ人間は絶滅する。魔人を含め、全員だ。

 絶滅を免れない俺たちにあるのは絶望でしかない。

 そしてこの世が絶望で満ちているからこそ、俺達は歩き続けなければならないのだ。何の力も持たない人間が、ほんのひとときでも絶望を忘れられるように、魔人は身を削らなければならない。

 たった刹那の絶望の忘却は決して希望ではない。

 こんな世界に希望を見出している人間など、師匠を含め一人もいやしない。


 師匠の言葉を聞いた男は、どこか心酔したような眼で、深い礼をした。師匠は凪いだ海のような微笑みをずっと浮かべたままだった。



 数年後、師匠は俺に魔人としての役割を果たすように言い残し、魔霧に呑まれて死んだ。

 それから、俺は魔人であることを隠して生きるようになった。

 他人の絶望を薄れさせるために、自分の絶望に殺されてやる善心は俺にはなかった。



 ある日、珍しい赤い髪と目をした男が言った。


「オレがこの世界の魔霧を消してやる」


 とんだ妄言だと笑うと、男は俺に向かって手を伸ばした。


「魔霧は消せる。手を貸せ」


 いやだ、と心の奥底から叫んだ。

 師匠のようにはなりたくなかった。体中の血をむさぼられ、人一倍あったはずの魔霧への抵抗力をまったく奪われて、誰よりも虚しく孤独に死んでいく。そんな絶望、俺には耐えられなかった。


「オレは魔物だ」


 男は言った。魔物なんて、絶望の中で愚かな人間どもが描いた空想の産物だ。救われたいという行き場のない祈りに過ぎない。

 くだらない、と一蹴しようとしたとき、男は俺の額にふれた。


 体中に溜め込まれた魔霧が瞬く間に消し飛んだ。―――というより、吸い取られた、感覚があった。


 それは解放であった。絶望からの解放であった。


「おまえが誰であろうとかまわない。オレが魔霧を全部呑み込んで死ぬまでの、手助けがしてほしい」


 この男は希望だ。―――俺の、世界の、希望だ。


 気付けば泣いていた。俺は男の手を掴み、強く強く握りしめた。


「……魔人も、解放されるのか?」


 男は俺の手を握り返した。その力は何より強かった。


「魔人と人間の間に相違はない。オレは魔霧からすべてを解放する。―――絶対に。」


 俺は師匠が得意でなかった。彼のようにはなれなかった。

 しかし、俺は愛していた。誰よりもあのひとを、人間として愛していた。


 俺は、師匠を解放したかった。


「わかった」


 立ち上がった。その拍子に、長いローブで隠していた切り傷だらけの腕があらわになった。


「おまえがいる限り、俺は歩き続けよう」


 男は満足そうに微笑んだ。その顔は師匠とは似ても似つかない傲慢な笑顔だった。

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歩き続けよう、希望ある限り 榎木扇海 @senmi_enoki-15

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