さくら

うみつき

さくら

 真っ暗な世界の中で、誰かが、私の名前を呼んで泣いている。優しい優しい、大好きな声が、悲しそうな色に染まっている。どうしたの、泣かないで、って。いつものように慰めたいのに、私の意識は夢の中。体が重たい。一歩も、足を動かせそうにない。それなのに、意識は軽い。ふわりふわりと漂って浮いているかのよう。瞼を開けば、ぼやけてよく見えない、優しい光に溢れている世界の中に、私を愛してくれた人が見える。視界がぐらぐらする。なぜだろう、少し疲れてしまったのだろうか。もうしばらく休息を取れば、もとに戻れるだろうか。

 泣き続ける愛しき人の手が、動く。柔く、私を抱き上げる。宙に浮いた体につかの間の不快感を覚えつつ、されるがままにしていれば、ぽす、と大好きだった場所に体が収まった。暖かくて、大好きな匂いがする。ついでに、優しく、頭を撫でられる。心地よくて、堪らないほど嬉しくて。なんだか少し力が湧いてきたような、気がした。私は伝えなければならない。随分と無理矢理に気力を振り絞って、鼻先を、私の頭を撫でる手に、ぐりぐり押し付ける。泣かないで。泣かないで。大丈夫、大丈夫だよ。私を信じて。

 本当は、この後に自分がどうなるかなんて、粗方予想がついていた。何も大丈夫ではない。少なくとも、彼女にとっては。だが、この場では気丈に振る舞わねばらならない。私達を繋ぐものは、この、今この瞬間の、生の時間だけではない。思い出も、私が好きだった玩具や食べ物も、愛しい人も。まだこの世に存在し続けるのだから。私が、居なくったって、そこに、存在証明は、確実にある。だから、大丈夫。私はずっと側にいる。本当に、ずっと。あなたが、私との記憶を覚えてさえいてくれれば。そうすれば、あなたは大丈夫、私がいるから。そんなに泣かなくったっていい。最後の記憶が、泣き顔なんて、まっぴらごめんだよ。

 じぃ、と焦点の合わない視界で、瞳を見つめる。祈りに近い、私自身の心を、視線に詰め込んで、投げる。この生活が幸せだったと。自分を愛してくれる主人がいて、愛しいあなたと生きることができて、幸せだったと。だからそんなに泣かなくてよいのだと。大丈夫なのだと。言葉が伝わらなかったとて、気持ちは伝わるはずなのだ。これまでだって、そうやって、私達はこの世界を共に生き抜いてきたのだから。これだけで全てが通じてしまう程、あなたと私は、一心同体で、同じだった。だから私は幸せだった。わかる?わかるでしょう?あなたなら。そう唱えた瞬間、見つめる瞳が一気に大きくなって、これまで以上に雫が落ちる。ぽたぽた、なんて沙汰では無い勢いで。

 ああ、泣かないで、ねぇ、泣かないでってば。

 笑っておくれよ。そう伝えたかった。それが、どれだけ酷いことだとしても。私のことでそんなに悲しまないで欲しかった。笑って生きていて欲しかった。またね、なんて笑ってくれれば、それで。そんなに泣かれたら、未練がましくなってしまうではないか。どうせ私達の仲なのだから、どこかで巡り合うのが運命なのであろうに。

 あの雫をぺろりと舐め取ってやれば、泣き止むことなど当然にも理解していた。これまでだって、ずっとそうやって慰めては、彼女を泣きやませてきたのだ、そんなことはとうにわかっている。ただ。私にはもう、それほどの気力は残っていなかった。十分に限界が近かった。はたと気づく。だから彼女は泣いているのかもしれない。私の時間の刻限が、差し迫っているから。ばつり、視界がシャットアウトした。耐えきることが出来ずに瞼が落ちたようだ。視界が陰る。タイムリミットが、既に目前であることを、漸く自覚する。こんなにも時間が無いとは、予想していなかった。嗚咽が、聞こえる。もう、泣かないで、と伝えることすら、私にはままならないようだった。相変わらず私を撫でている手を、慰めの代わりに舐める。これで伝わればいいのだが。

 音が遠くなる。もう、そろそろ、本当にタイムアウトだ。遠のく意識の最中で、嫌にはっきり、声が聞こえた。

『さくら、行かないで』

 意味はわからなかった。ただ、痛いほどに苦しかった。声一つ、かけることすら許されず、私は意識を手放す。これだけの事実が、私を現世に縛り付けることになることだけは、明白だった。

―――――❀―――――

 次に目を覚ましたときには、私の体は実体を得ていなかった。無駄に軽くなった感覚に、一時は老いからも復活したのか、と喜びの舞を踊ったものだ。だか、どうやらそうではないようだった。何故なら、視界に入る自身の足が、半透明で透けていたのだ。視認したその瞬間、私は思わず飛び上がった。なんだこれは、誰の足だ。そう叫びそうになるところを押さえ込み、まじまじと観察する。どう見たって、それは、紛れもなく私の足であった。だが、透けているなんて。一体全体どういうことだ。そりゃあ、誰だって驚くであろう。もし、それがとても聡明な私であったとしても、変わりはない。私だって時には驚く。そう何度も起こるものではないが。流石に自分の足が透けていたら驚く。ましてや怖くなる。

 そうやって自分の体を観察すること数十分。私はとある結論に辿り着く。今の私には、実態が伴っていない、ということに。一体全体どういうことだろうか。体がないとは、こんなにも不安になるものなのか。

 うんうん、と唸って頭を整理している間、周りが桃色で染まっていることに、私は気がつかなかった。頭に何かが乗った感触をもって、漸く、なんだろう。不思議に思って、現実に意識を引き戻した。そして、上を見上げれば、そこには。

 私の頭の上に乗っていた何かが、風に任せて空へ舞い上がっていった。それとは対照的に、舞い落ちる薄い桃色の物体が、私の上空を包んでいる。きらり、隙間から溢れでる光が眩しい。無意識に、目を細める。敏感な耳には、ざわざわと、鳴り止まぬ風の音がする。それらが、絶え間なく、世界を揺らしていた。それに倣って、はらはらと、同じような色の物体が落ちてくる。妙な既視感に、もう一度、脳みそを、動かす。どこかで、見たことが、ある、景色。不意に思い出す。主人の、言葉を。これと似たようなものを散歩中に拾い上げ、私に見せながら、こう言ったのだ。

『これはね、桜の花弁。あなたの、名前の由来』

 気配を感じて、勢い良く、振り向く。刹那、りん、と空気が震えたような気がした。懐かしい、愛しき声が聞こえたような気がした。目線の先は、無音。ぽつりと呟く。これが、『さくら』か。

 随分と美しいものを由来にしたな、と思考する。ふわりふわり、浮くように飛びながら落ちていくそれを見て、心が緩む。そうかい、あなたからは、私はそんなに美しく見えていたのかい。それはそれは、嬉しいなあ。

 まぁ、確かに。聡明な私にはぴったりな物体だ。それは、美しく、気高い気品を想起させる。正に私である。主人はそれを理解していたのだ。流石は、私の一番の理解者である。鼻が高い。

 透けた足の下に、地面についてしまった『さくらのはなびら』達が、飛び散っている。現実は無情だな、などとどうでもいい事を考えて匂いを嗅いでいると、一部分だけ、土が盛り上がっている所が、あった。なんだか、嫌な予感がする。少々警戒しながら近づいていってみれば、微かに、私が一番に落ち着く匂いが、した。それは、主人の匂いで、間違いなかった。それからは早かった。夢中になってそこを掘り返した。私がいなくなったせいで、彼女がおかしくなって、そこに埋まってしまったのかと思案したのだ。気持ちが、伝わっていなかったのか、そう焦りながら掘り進めていくと、そこにあったのは、主人の靴下であった。私がいつも、寝るときに抱いていたもの。匂いの原因は、これか。一つ、安心する。本当に埋まっていたらどうしようかと思った。私には、何もできないというのに。ふんす。満足気に鼻を鳴らして顔を上げる。

 相変わらず、『さくらのはなびら』が散っていた。それを追いかけるようにして、もう一度、視線を落とす。何の因果か、おや、と違和感気づく。まだ、この下には、何かが埋まっている。靴下を咥えて、退かしてみれば、なにやら柔らかいものが鼻先に当たる。主人の匂いとは、違う、もの。ただし、よく知っている、匂い。どくり、心臓が脈を打ったような、気がした。私自身の、匂いが、する。呼吸が、荒くなる。力なく、耳が垂れる。嫌な予感が、当たってしまった、らしい。

 ぺたり、地面にへたり込んだ。夢見心地で、理解の及んでいなかった部分を、頭に叩き込まれるような気分であった。脳みそが嫌だ嫌だと叫んでいる。だが、聡明な私には理解が追いついてしまう。嫌だ、そんなの、認めたく、ない。無性に鼓動がうるさい。いや、今の私に鼓動なんて無いはずなのだが。短い時間の中で、無駄に回転のいい脳みそだけが、答えを弾き出す。そう、今、目の前にある、これは。

 私の亡骸。

 間違いなく、私は、死んだのだ。

―――――❀―――――

 自身が死んだことを悟った次の日の朝。私はまず、主人を探してみようと考えた。今の私を、彼女が認識できるのか、知りたかった。できるのならば、靴下を返さねばならぬ。借りたままではいけない。このままあの世に持っていくこともできないのであろう。であれば、返すことが吉である。本当は生きている間に返さねばならなかったのだが。叶わぬものであった。非常に反省はしている。後悔はしていないが。

 さて、この時間の主人は一体何をしているのか。私の記憶が正しければ、『がっこう』とやらに行っているはずだ。今のうちに主人の自室で忠犬をしてみようではないか。ふすふすと鼻を鳴らしながら、家に侵入できそうな場所を探す。壁に沿って歩きながら左に曲がれば、少しだけ、窓が空いていた。暖かい時期だからであろう。爽やかな風を入れれば、陰気な部屋も明るくなる。窓が空いているということは、そういう明るさが部屋に入ることと同義である。いいことだ。ついでに私も家に帰ることができる。一石二鳥だ。

 近くにあった室外機の上に飛び乗って、窓枠を超える。少々、窓から床までの高さが高かったようで、足が痛んだ。まぁ、主人に会えるのならこれくらい砂漠の砂粒ほどの痛みだ。耐えられる。ひょこひょこと足を庇いながら見慣れた廊下を歩いてゆけば、私が生きていた頃と何も変わらぬ、リビングに出た。私の寝床も、水飲み場も、その隣の食事場も。何一つとして移動していないようだった。私が居なくなれば随分と景色は変わるのだろうと予想していたのだが、どうやらそうではないらしい。一抹の不安が脳裏を過る。主人は元気なのだろうか。あの泣き様では、本当に辛くて辛くて、仕方が無いのではないだろうか。私が死ぬ瞬間、最後に受け取った、あの感情の、数倍、数十倍、数百倍の、苦しみを、抱えているのではいないだろうか。だとしたら、私は、一体どうすればいい?私にできることは、あるのだろうか。

 要らぬ心配だろう。そう思いたくて、頭から思考を振り払う。だが、その邪念は消えなかった。もし、本当に、そうだとしたら、少しばかり、嬉しいような、そんな。非常識にも程がある隙間の思考が、頭を掠ってゆく。今度は物理的に頭を振る。今の私にできることは、主人を探し出して同じ時を共有することができるのか、確認すること。そしてあの靴下を返すこと。それだけである。任務はきちんと遂行しなければ。

 記憶を辿りながらリビングを歩く。食事場をよく見てみれば、そこにはあの頃のように、食事が盛り付けてあったし、水皿には水が汲んであった。なんと律儀な主人であろうか。それとも、私がいないことを受け入れられてないのだろうか。なんだか空腹感を感じて、その食事に口をつける。一口、ぱくり。と食べてみる。なんだか懐かしいような気分になる。大して時間は経っていないはずであるのに。もう一口。味が薄いような。さて、一度水でも飲もうかと、皿から顔を離す。ちらりと見えた食物の量に、唖然とする。それなりに食べたはずであるそれは、見るからに減っていない。最初に確認した量から、一つも変わっていない。疑問符で頭が埋まる。何故。その瞬間、フィルムが巻き戻るように思考が動いて、ああ、と合点する。そういえば、私は、死んでいたのだった。一つとして減らないのも、当たり前なのかもしれない。私の体には吸収されていないのだから。生前であれば、減らない食べ物など喜び勇んで飛びついていたであろうが、今の私にとっては、ただ、悲しくなるだけの物体に成り果てていた。死んだ、という事実を、叩きつけられているかのような、気がして。ぺったりと、床に、伏せる。こういうときほど、主人が側にいて欲しいものである。

 ああ、そういえば。昔もこういうことが、あったような、気がする。この家に来てすぐの頃、私は不安で仕方がなくて、食事が取れないままでいた。食べたいのに、食べる気力が出ず、食事場所の前で伏せて、食物を見つめていた。私は、寂しかったのだと、思う。この家に連れてこられる前は、周りに沢山の兄弟がいた。だが、この場所には私と同族の生き物はいなかった。それがひどく心細かったのだ。

 そんな時だった。食べない私を見かねて、主人は、どうしたの、と優しく声をかけながら、側に座った。食べる元気、ない、のかな、そうぽつりと呟いて、少し悲しそうに目を細め、白くてやわい手で、ふわりふわりと頭や背中、腹を撫でてくれた。私はその時間が、初めて過ごしたときから、大好きだった。今だって、側に座って、撫でてくれる彼女がいてくれたのなら、私は、こんなにも寂しい感情を覚える必要もなかったであろうに。

 『さくら、どこにいるの』

 また、空気が震えた。はたとして顔を上げる。遠くで、私を呼ぶ主人の声が、聞こえたような、気がした。ぶるぶると、体を震わせる。こんなふうに感傷に浸っている場合ではない。寂しいのなら、早急に主人を見つけ出さねばならぬ。これで何度目だ。まだまだ先は長いのだから、こんなところで立ち止まっている時間はない。思い出に浸る時間は、この辺にしておこうではないか。

 少しばかり水を頂いて、立ち上がる。とりあえずは、主人の自室を目指そう。この家の中にいるのだとしたら、そこにいるはずだ。多分『がっこう』とやらには行っていない。主人はそこにいる。そんなような、気がした。

―――――❀―――――

 私の体には高さのある階段を登る。主人の部屋は二階にあるはずなのだ。生きていた頃は、毎回抱き上げられてこの道を移動していた。階段というのは、腰に良くないらしかった。登ろうとすればすぐに気づかれて、駄目だよ、と抵抗虚しく抱き上げられるのが常だった。今の私には関係のないことであるが。実体がないというのは随分便利なものである。いくら動いても体は疲れを知らぬまま、動き続けることができるのだ。探しものをするには十分なメリットである。死んで良かったとは到底思えないが。まぁ、それは当たり前の事実であるので、省略させてもらうことにしよう。私にしては少しばかり激しさを伴う運動に、はふはふと鼻が鳴る。呼吸とて必要の無い体であるのだが、永年の癖というのは、そう簡単には抜けないようだ。

 一段、また一段。一歩々々、着実にその高低差を登る。まるであの世への階段の様だった。永遠に続くような気がした。少しづつ、主人の匂いが濃くなってゆく。これまた懐かしい匂いだ。先ほどの靴下には土の匂いが混じっていたが、こちらの匂いは純度百パーセントである。体が一段、上に上がる度に、その匂いは強くなってゆく。私が死んでから、どれだけ時間が空いているのか、知る由もないが、なんだか久しぶりのような気がしてならない。亡骸が骨になっていなかったということは、そこまで長い時間は経っていないはずなのだが。

 永遠に続くと思われたその階段は、終わりを迎えた。急激に、視界が開ける。登りきった先の廊下には、開いている窓から、『さくらのはなびら』が中にまで散っていた。主人はそんなにもさくらのはなびらが好きなのであろうか。であれば、一つくらい、拾って行ってやれば喜ぶであろうか。廊下に落ちたそれを、咥えて拾い上げてみる。味はしなかった。生きていれば、少しは味を感じられたのかもしれないが、今の私には無理なようだった。

 陽の光が満ちる暖かい空間を、『さくらのはなびら』を携えながら歩く。これまた良い気分であった。主人だって喜んでくれるに違いない。私の名前の由来にしてしまうくらいに、それが好きなのだから。ふんふんふん、鼻歌が滑り出る。主人と散歩をしたときのような、淡くて優しい、仄かな温かみを感じる心持ちであった。側に、主人が存在してくれているかのようであった。

 見慣れた扉の前に辿り着く。間違いない、ここが主人の自室だ。私が来ることがわかっていたかのように、若干、部屋の扉が開いていた。今日は運がいい。窓も扉も私のために開いているかのようだ。するり、体を隙間に滑らせて部屋に入る。一番初めの視界には、主人は捉えられなかった。ちゃんと『がっこう』とやらに行っているのかもしれない、と落胆と安心を抱えて振り向けば、部屋の隅で丸まっている、主人が、いた。そんな、日の当たらない寒そうな場所にいなくても良いというのに。何をやっているのだろう。急いで近づく。せめて暖かい場所に移動させなければならない。座り込んでこちらには一切意識を向けない彼女に、わふ、と一度鳴いてやる。これまでであれば、これだけで彼女は私の方を向いた。それ以上の存在証明は必要がなかった。だが。

 一秒、二秒、三秒。それだけ経っても、彼女はこちらを向かなかった。そんなにも悲しみに明け暮れているのだろうか。仕方がない、鼻でも押し付けてやろう。泣いているのなら、その雫を舐め取ってやろう。そう考えて、もう一、二歩近づく。彼女に触れようと、重心を傾けた時だった。すか、と体積のない感覚が鼻先を覆う。おかしいな、そう考えてもう一度、今度は勢いをつけて近づける。すか。つけすぎた勢いのせいで、どて、と前方に倒れ込む。その瞬間に見えた、自分の体が、彼女の体を通り抜けていた。ああ。と思う。確認したかった事実は、確認が取れた。この状態の私は、主人と同じ時を、進めないようだった。呆然としながら、体勢を立て直して、座り込む。主人の顔は、下を向いていてよく見えない。どんな顔をしているのだろう。このままでは、悲しんでいるのかすら、判別のしようがない。だが、今の私には、彼女に触れることすら許されない。私がここにいることを、伝える手段が、無い。くぅ、と情けない声が出て、耳が倒れる。このまま万事休すで禍根を抱えたまま成仏するしかないのだろうか、そう諦めていた矢先だった。口の中に、薄っぺらい物体があることに気づく。たしか、これは。ここに来るまでに咥えた、『さくらのはなびら』だ。ここで拾ったもの。この世のもの。聡明な私の頭が、早急に答えを弾き出す。この『さくらのはなびら』であれば、主人にも触れることができ、なおかつ知覚できるのではないだろうか、と。それができれば、靴下も返すことができるはずである。なかなかに名案だ。流石は聡明な私である。とても冴えている。まぁ、問題は、この小さな物体だけで、どうやって存在を示すか、なのだが。頭をフル回転させる。この物体で彼女を突いてみるだとか、単純な方法ばかり頭に浮かんで、どれも最適解ではないように思える。無意味に、部屋の中をくるくると歩き回る。いっそのことこの物体をたくさん持ってきて、目の前に積んでみるだとか、どうだろうか。ぱたり。何かが落ちる音がした。音がする方向に、反射的に顔を向ける。先ほどと違う部分を探す。主人の手が、だらり、と床に落ちていた。驚いて、慌てて駆け寄る。もしかして、生命の危機に瀕しているのでは。そうであれば、どうにかして助けなければ。ギリギリまで近づいて、観察する。静かに聞き耳を立てれば、呼吸の音がした。鼓動の音は、膝を抱えて、座り込んでいるものだから、確認が取れなかった。とりあえず、呼吸はしているのだから、大丈夫なのだろう。と決断を下す。危険な予感も、匂いもしない。きっと大丈夫だ。そう自分に言い聞かせる。

 ざぁ、と風が吹いて、私の持っていた『さくらのはなびら』が飛ばされてゆく。あぁ、私の最後の砦が。そう思う間もなく、窓の外に飛んでいってしまった。その時だった。ん、と懐かしい声が聞こえた。紛れもなく、主人の声であった。目を覚ましたらしい。これが最後のチャンスだと、無意識に悟る。慌てて、部屋を飛び出して、廊下にあったそれをもう一度咥えて戻る。落ちたままの手のひらに、『さくらのはなびら』を乗せる。祈る。これで、気づいてくれれば、いいのだが。手が動いた。それを握ったまま目を擦る。そして。

 主人は私が乗せた物体に気づいたようだった。なんでこんなところに、花弁が。そうつぶやいたかと思えば、驚いた顔をする。

『さくら?』

 私の存在に、気づいたようだった。作戦は成功を収めたようだった。喜び勇んで、わふ、わふ、と吠える。自分の存在を誇張する。だが、彼女はこちらを向かぬまま。もう一度吠える。わふ!目が、ほんの一瞬だけ交わったような、気がした。だが、すく、と彼女は立ち上がって、別の方向を見てしまった。そして。

『さくらが、呼んでる。』

 彼女は駆け出した。開きかけの扉を一気に開け放って、部屋を飛び出した。暖かい日差しにも目もくれず、一目散に階段を駆け下りる。どこに行くんだい、と、抗議の入り混じった吠え方をして、私は彼女を追いかける。数秒後に、部屋を飛び出して、階段を駆け下りる。家に入るときには使わなかった、玄関までの廊下を伝って、庭に飛び出したかと思えば、裏庭の方向に走る。彼女は一体どこに行きたいのだろうか。一体何が、こんなに彼女を焦らせているのだろう。疲れを知らない体のまま後を追う。同じく、裏庭の方向に、走る。日差しがこのおいかけっこを見守っている。なんだか、こんな遊び方を、生きている間も、していた気がする。はなびらが、私達に向かって吹いている。何がしたいのだろう、なんて、疑問を思考の端に追いやるように、思い出がそれを上書きしてゆく。そうだ、そうだった。何度もここで、私達はこうやって戯れていた。今日のように、心地よく、温かい日も、暑い日も、涼しくなった日も、寒い日も。懐かしいと思うなんて当たり前だ。私はここで彼女と関わって、彼女を理解してきたのだ。そして、彼女もまた、ここで私を理解してきたのだ。

 突然、彼女が急ブレーキをかけた。その瞬間、疑問も、思い出たちも、どこかに飛んでいってしまった。

 彼女が、立ち尽くしている。『さくらのはなびら』が舞い散る中で、上を見上げている。この場所に降り立った、あの時の私のように。異様な雰囲気に、彼女の足の周りをくるくると回る。そうこうしているうちに、ついには、しゃがみこんで泣き始めてしまった。わたわたと、慌てるだけの私には、できることが、一つもないように思えた。その間にも、さくら、さくら。そうやって彼女は泣いている。私の名を、呼んでいる。私には、そっと、寄り添うことしかできなかった。私にできることなど、やっぱり。相変わらず、『さくらのはなびら』は散り続けていた。まるで、私がこの世界に存在できる刻限を、決めているかのようで、憎たらしかった。

 ふと、投げっぱなしの靴下が目に入った。そういえば、私はこれを返さねばならないのであった。今考えることではないだろうと言われれば確かにそうなのだが、今やらねばならないような、そんな気がしたのだ。これがあれば、気づいてくれるような、そんな気がした。主人から離れて、靴下に近寄る。咥えて、差し出す。わふ、と鳴いてみる。

『さくら?』

 その瞬間、私の世界から、主人の声以外の、音が、消えた。今、まさに。確実に視線が交わった。目が、合った。くぅ、と鼻を鳴らして靴下を揺らす。ざああ、風がまた鳴った。世界が、作り変えられていくような感覚に陥る。

『そこに、いるの?』

『わん!!!』

 さくら、そうやって私の名を叫んだ彼女は、ようやく私を知覚する。腕が伸びてきて、ぎゅう、と抱きしめられる。大好きだった匂いがする。懐かしい体温が、じんわりと皮膚を通って伝わってくる。今この瞬間。確かに、私は、主人と触れ合っていた。二度と起こることない事象だと考えられていたそれは、いとも簡単に乗り越えられてしまった。さくら、さくら。そうやって、今度は嬉しそうにしたかと思えば、予想外にも、また泣きだしてしまった。しゃがんで地面についている膝に飛び乗って、顔を近づける。ようやっと、慰めることができる。泣きやませることが、できる、そう思った。容赦なく、その雫を舐め取ってやる。私からも、触れることができるようになったらしい。喜ばしいことだ。先程まで憎たらしかったはずの『さくらのはなびら』が、まるで私達を祝福しているかのように、ひらひらと踊っている。美しいと、思った。煌めく光が、私達に降り注いでいる。私だけではなくて、主人にも。暖かく、優しく、包み込まれている。

 そうやって体温を分け合うこと数十分。彼女が漸く泣きやんだ頃。私達は顔を突き合わせた。視線を絡ませて、感情を混ぜ込む。

 一つ、息をのみこんだ彼女が、喋りだす。


色々、伝え忘れてたんだ。さくらは、最後の最後まで、全部を伝えようとしてくれていたのに。私は、何もできなかった。


 彼女のが、憂いで、陰る。許しを乞うように、私を見る。私は、ふす、と鼻を鳴らして続きを促す。


私ね、あなたと、さくらと生きていることが、何よりも幸せだった。あなたといれて嬉しかった。


 その一言に、どうしようもなく、心が緩む。やはり、私達は通じ合っている。全てが全て、同じなのだ。私達は一心同体だった。お互いに側にいることが、一番に幸せだったのだ。言葉を遮って、彼女に飛びつく。ぐりぐりと、顔を押し付ける。わうわうと喉を鳴らして、喜びを示す。大丈夫、伝わるはずだ。そのうち、彼女が私の猛攻に耐えきれなくなって、地面に仰向けに倒れ込んだ。私は、その上に乗って伏せる。あの頃のように、甘えて、撫でることを催促する。変わらず、世界は私達を祝福していた。暖かい陽の光と、満開の『さくら』の中で、泣き顔の笑顔を晒す。風は、いつの間にか止んでいた。ただただ静かに、舞い散っていた。その景色はまるで、二度目の出会いを願った、私達の祈りが届いたようだった。

 咥え続けていた靴下を思い出して、主人の上から地面に降り立つ。それを確認して、起き上がった彼女の手に、一つ、それを乗せる。これで、任務は完了である。ふふ、と彼女は込み上げるような笑いをこぼした。どうせなら、あの世に持っていってくれていいのに、と。

 それではいけないのだと、手に靴下を押し付ける。私にはもう、沢山の思い出がある。それだけで十分なのだ。それらを背中に乗せて、持っていくだけで私はお腹がいっぱい。これ以上望むのは罰当たりだ。落ちていく『さくらのはなびら』のように、この思い出の詰まった靴下を落とす訳にもいかないのだし。

 今一度、視線が絡み合う。彼女も、どうやら、気づいたようだ。


ありがとう。行ってらっしゃい。


 私の主人は、泣き顔で笑って、そう言った。その顔に、私は酷く安心する。あの頃と変わらぬように、彼女が私の頭を撫でる。視線が絡み合う。止んでいた風が、また息を吹き返す。もう、本当に、これで最後だ。死ぬ間際のときのように、視線に心を込める。彼女の目が、驚いたように、広がって、笑った。その瞬間以降の記憶は、私の中には、残っていない。

―――――❀―――――

『あなたが生まれる前にね』

 ご主人は、私が寝る前に話をしてくれる。内容は大抵、『さくら』という私と同じ種類の生き物が、この家に住んでいたのだ、という話だ。そいつは、死んだあと、ご主人のところに、幽霊とやらになって会いに来たらしい。そして、借りていた靴下を返して、話を聞いて、旅立っていったのだと。これで何回目だ。もうあらすじを話せるほどになってしまったではないか。そろそろ僕も聞き飽きてきた。でも、その事実を伝える術を持っていないので、伝えようがない。

 この話をするときのご主人は、嬉しそうで幸せそうな顔なのに、どことなく寂しそうで、僕はそっちのほうが気になって仕方がない。毎回、その理由を探るべく、観察することを試みるのだけれど、いつの間にか寝てしまっていて、未だに解明出来ていない。情けないとは思うが、眠気には逆らえない。仕方がないのである。

 回らない頭でふと、この家に来た日のことを思い出す。狭い箱の中に入れられて、揺られること数十分。ようやく出してもらえたかと思えば、そこは知らない場所。酷く心細くなって、何もする気に慣れなかったとき。僕と似たような姿をした、半透明の生き物に出会った。その生き物は、僕を見るなり、何かを理解したような顔をして、僕に近づいてきた。遊ぼう、そう誘われて、乗り気がしないまま、その流れに乗っているうちに、僕は元気になっていた。お腹が空いてきて、食べれずに放置されていたものを一口食べてみれば、案外いいもので。そのままむしゃむしゃと食べきってしまった。半透明のやつも、食べるか聞いたのに、そいつはいらないと言った。そして、微笑ましそうに必死に食べる僕を見ていた。不思議に思ったが、自分の取り分が減らないことは嬉しいことだったので、そのままにしておいた。

 その日の夜まで、そいつは僕の側にいた。眠りにつこうかと、用意されていたベットに入ったときに、もう一度話しかけてきた。眠気に抗いながら、なんだよ、なんて少しだけ警戒して応答すれば、笑いながらそいつは言った。主人を頼むよ、と。主人?そう聞き返すと、また笑って、そのうちわかるさ、と言った。僕は眠かったから、適当に、わかったよ、なんて返事をして眠りについた。寸前で、ついでに、幸せだったと、伝えておいてくれ、そう言われたような気がした。次の日の朝には、そいつは居なくなっていた。

 もしかして、と思う。あの半透明の生き物は、その『さくら』と言うやつではなかったのだろうか。ご主人から聞いた特徴と、大体が一致している。僕は確信した。あいつはきっと、『さくら』だ。大好きなご主人を、あんな顔にしてしまう、悲しそうな顔にしてしまう、張本人。ああ、伝えておかなければならないこと、忘れていたな、と思い出す。ただ、今の僕は眠たくてそれどころではない。一度眠りについて、明日また、伝えることにしよう。僕にはまだ、明日があるのだから。

 そうだ、夢の中であいつに会ったら言ってやろう。きっと、僕といるときのほうがご主人は幸せそうだぞ、と。だって事実なのだから。言ったっていいでしょ。そう言い訳をして、瞼を閉じる。ご主人と呼び合う、誰かの声が、頭の中で、響いていた。

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さくら うみつき @160160_umitsuki

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