格子越しに華酔いの時

そうざ

When I'm Intoxicated by the Flowers and Peer through the Lattice

 あれは桜だったのか、梅だったのか、桃だったのか、定かでは御座いませんが、奥座敷の格子の嵌った窓から距離にして拾四じゅうし五間ごけんくらいでしょうか、田畑を幾反いくたんか挟んだ畦道の土手に一本の古樹こじゅが植わっておりました。


 の古樹に思いを馳せます時は、不思議と満開の頃ばかりが蘇って参ります。私の在所は山々に囲まれ、季節毎に新緑や紅葉の色も目にしていた訳ですが、其方そちらはとんと憶えが御座いません。ほんの一時いっときの華の盛りが如何に鮮烈であったかという事なのでしょう。


 それはもう見事な眺めで御座いましてね。老夫のようなごつごつとした木肌の樹木が、くもまぁあれだけ色鮮やかな華を戴くものだと、感心しながら見惚みとれておりました。好天のもとでは言わずもがなで御座いますが、日暮れになりますれば淡い黄昏が華にほむら色を添えて燃え立ち、宵を迎えては月明かりを溶かし入れて夜陰に仄かな光を放つので御座いますよ。何れも身震いする程に幽玄な佇まいを呈しておりましたね。


 それにつけましても、華を眺めておりますと、魔に魅入られるとでも言いましょうか、度々たびたび名状し難い心持ちになる事が御座いました。総身が火照り、脳裏から思案が汲み出され、辺り一面から音という音が消え失せ、それはあたかも時が凍り付いた感触に陥るのです。あれは華酔いとでも表せばよろしいのでしょうかね。おのが身の陶酔というものを初めて知ったように思います。


 ところで、私には姉が居りました。一人ではなかったように思います。三つ四つ上の姉が二、三人は居たような気が致します。奇異な物言いに聞こえますでしょうが、何分なにぶん、当時の私はとみに薄弱で御座いまして、姉と遊んだ記憶すら御座いません。きっと両親が、私を避けるよう姉に言い含めたに相違御座いません。そんな私でしたから、日がな一日、古樹を眺めて過ごしていたのですよ。


 何故なにゆえに姉の事を思い出したのかと申しますと、古樹の側に屡々しばしばその姿を見掛けたからで御座います。姉達はあそこを待ち合わせの場所にしていたのでしょう、実際いつも人待ち顔で御座いましたから。幹に寄り掛かり、そわそわ、いらいら、おろおろ、じりじり。しゃがみ込んだかと思えば立ちすくみ、右を向いたり左を見たり、すべなく行ったり来たりと、その滑稽な様と言ったら、正直な話、愉快痛快な見世物で御座いました。


 結局、どの姉も待ちぼうけを食らっておりましたよ。一体全体、何処の誰を待っていたのやら。姉に思い人が居ただなんて、天地が引っ繰り返ったって考えられやしません。増してや、誰かの思われ人になるだなんて、石が流れて木の葉が沈んじまいますよ。姉は揃いも揃って、阿多福おたふくちんくしゃ、おかちめんこ、夜目遠目でもはっきり分かる醜女しこめでした。そりゃ、あの絢爛な華の下に置いたら、どんな別嬪べっぴんだって場末の売笑婦にも劣るってもんですがね。


 そうだ、思い出しました。実際に待ち人を見掛けた事も御座いました。何処からともなく粗末な身形みなりの醜男が、一人、二人、三人と現れたのです。誰も彼も堅気には見えませんでしたね、きっと凶状持ちですよ。醜男共は、姉の耳元で何やら囁いたり、肩をぐっと引き寄せたり、口八丁手八丁で口説き落としに掛かりました。やがて華吹雪の舞う中、男と女の影は手に手を取って草叢くさむらの方へ消えて行きました。一度切りじゃ御座いません、同じ事が幾度もあったように思います。


 身内の恥を晒すようですが、姉達は一様に多情でした。誰に似たのか、男がなければ一時も暮らせない恋狂い揃いでした。あぁ、あれは逢引きなんかじゃなく、手当たり次第に男を誘っていたのですね。淫蕩な血が流れる姉達であれば然もありなん。えぇ、そうです、そうに決まっていますとも。そう考えますと、全てに合点が行きます。両親が私を姉達から遠ざけたのも、北向きの奥座敷に留め置いたのも、流行り病から身を守るのと同じ仕方だったに違いありません。


 けれど、けれども、こうも思うのです。一連の光景は、本当に真実まことの出来事だったのでしょうか。微睡まどろみの合間に見た夢だったようにも思えて、今一つはっきりしないので御座います。もしかしたら、偶に村にやって来ます田舎芝居の筋書きと混同したのかも知れない。村祭りで見掛けた覗き絡繰からくりと重ね合わせてしまったのかも知れない。


 実を申せば、見てはいけないものを見てしまったとも感じておりました。それなのに、それだからこそ、格子越しに盗み見た一部始終が今も忘れ難く目に焼き付いているので御座います。貧しい村に童女ばかりが立て続けに産まれたらどうなるか。捨て子や間引きなんかより、もっと利口な為熟しこなしが御座いますからね。まだ小便臭い未通女おぼこの私は、男共の正体にまで知恵が回りませんでした。


 その一方で、姉達は駆け落ちをしたんだと、一縷いちるの望みを捨てたくない自分も居ります。たと醜婦スベタであろうとも、蓼食う虫も好き好き、割れ鍋にじ蓋の故事に倣えば、有り得ぬ事ではないでしょう。今頃、何某かに嫁ぎ、子宝に恵まれ、つもしくも安寧あんねいに暮らしていると。そう思いたくなるのは、私が密かに姉を羨んでいたからに相違御座いません。気侭に戸外おもてを駆け回り、殿方と手を取り合い、何よりも格子を隔てずに華を眺められる、そんな様子に憧れていたのです――。



 はい、湿っぽいお耳汚しはこれにておしまい。お天道様が高い内はついお兄さんみたいな冷やかし客に戯れ言を垂れてしまいます。女郎の悪い癖で御座いますね。今のお噺が嘘か誠かなんて、野暮な詮索はして下さいよ。吉原ここじゃどんな話にも尾ひれはひれが付くものです。


 さっ、親御さんが心配なさいますから、そろそろお帰んなさいね。何れ一端いっぱしに稼げるようになったら、おぜぜをたんまり持ってまたいらっしゃい。その時まで筆下ろしはお預けだ、初めての女は私と指切りで約束しておくれ。


 あぁ、それにしても綺麗だ事。華の色も形も辺り一面に溶け出したみたい。どうもこの頃は益々近眼ちかめが酷くなりました。でも、それがまた一層、景色を艶やかに見せるのですから、何が幸いするか分かりませんね。


 こうして格子の内から眺めておりますと、どうしても物思いに耽ってしまいますよ。あれは桜だったのか、梅だったのか、桃だったのかって。私に姉なんて居たのか、懐かしむに故郷さとなんてあるのかってね。

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