第44話 『多恵は来ないし、僕も行かない』

「こんなところで何してんのよ!」


すわ一大事。ホテルのレストランに緊張が走る。

カクテルドレスの美女が、ピンヒールの音をカツカツと響かせながら一直線にテーブルへ向かったかと思ったら、カップル客に突っかかり始めたのだ。


スーツ姿の男は微動だにせず、冷静に美女へ視線を向ける。

その対面で、ぶりぶりのワンピースに身を包んだお嬢様は、口元を押さえて上品に驚いた仕草を見せたが──その瞳には、敵意が隠しきれていない。


浮気現場を押さえられたのかと、就任したてのメートルはこの場を収める手段に首鼠両端した。


「今夜はオーベルジュのオープニングレセプションだって言ったでしょう? 下に慶にぃと由紀ちゃん待たせてるから、早くして」


「お知り合いですか?」


か弱い女を装い上目遣いで尋ねるお嬢様を、黒髪ボブの美女は、まるでダンゴムシを指で弾くような表情でねめつけると、冷たく言い放った。


「邪魔よ。消えて」


「まぁ、こわ〜い♡」


「なぁにが『まぁ、こわ〜い♡』よ。猫なで声で〝にゃんにゃん〞男に媚び売ってんじゃないわよ。いくらメイクで誤魔化しても、おブスな性格は見え見えなのよ」


「何ですって?」


「ほ〜ら、それが地声じゃない。どうせあんたも、彼のステータス狙いでしょ? 図々しいにもほどがあるわ」


図星を突かれ、お嬢様は鶏冠とさかにきた。


「そっちこそ図々しい! あんたみたいなおばさん、彼が相手にすると思ってんの!」


「──あのぉ、他のお客様もいらっしゃいますので……」


横から口を挟んだメートルを、お嬢様はキッと睨みつけて怒鳴った。


「うっさい!」


馬脚を現したなと、女は鼻で嗤う。

薄っぺらな自尊心をズタズタにされ、ヒステリックに椅子を蹴って立ち上がるお嬢様。

女は男のような声で、小馬鹿にしたように言った。


「お疲れさま。また合コンでお会いしましょう?」


殺気立った目を向けたお嬢様だったが、ふと何かに気づいたように目を瞬かせたかと思うと──とたんに顔色を変え、逃げるように店を出て行った。




「やりすぎだ」


「フン、いい歳して親の金で男と遊び回ってるばか女と、親戚になるなんて真平ごめんだわ」


言いながら、女──倫太郎は太々しく椅子に腰を落とし、遠巻きに様子を伺っているウェイターに水を所望した。


「伯母様もさぁ、次から次へと諦めが悪いのよ。あんたもその気がないなら、ハッキリ断りゃいいじゃない。そのたびに火消しに走らされる、こっちの身にもなってほしいわ」


玲丞は小さく苦笑した。

火消しが必要なのは、倫太郎の頭の方だ。

従兄の縁談を聞きつけるや、頼まれもしないのに倫太郎は〝炎上〞させてきた。

今回もどうせ、事前に合コンでも開いて、盛大に花火を打ち上げておいたのだろう。


藤崎家。政財界に多大な影響を持つ名家の婚姻は、もはや思惑の坩堝だ。

彼らのパワーゲームに利用されるのは御免だが、温室育ちのままの母が深く考えもせずに請け合ってくる縁談を、無下に断ればそれはそれで差し障りがある。


母は母で、後悔しているのだ。あのとき、フランス行きを反対しなければ、麻里奈と共に送り出していたら、彼女は命を失うことはなかったと。──だから断れない。


そう考えると、倫太郎のお節介も、一種の人助けなのかもしれない。


「だいたい、親なんて孫の顔が見たいだけなのよ。跡取り跡取りってプレッシャーで、由紀ちゃんも薫子も可哀想じゃない」


倫太郎と関西財界の重鎮を祖父に持つ薫子の結婚は、完全なる政略だった。


倫太郎の父親は精力家で、派手な社交家の妻とは俗にいう仮面夫婦。

冷え切った家庭環境で育ち、倫太郎自身も乱れた異性交友にあったが、幸いなことに見合いの席で薫子に一目惚れした。


相変わらず派手に遊び歩いているのは、初めて愛した女とどう接していいのか戸惑って、逃げ回っているのだ。


ちなみに、倫太郎はノンバイナリージェンダーで、女装は彼にとってファッションのひとつだ。


両親は、病弱だった一人息子に〝男らしさ〞と企業の後継者としての自覚を強制した。

性別の枠に違和感を覚えながらも自己を押し殺していた彼は、姉のように慕っていた麻里奈にせがみ、こっそり少女の装いをすることで、壊れそうな心の均衡を保っていたのだと思う。


麻里奈が亡くなってからは、その傾向がさらに強くなった。まるで、続くはずだった彼女の人生を、自分の中に引き継ごうとしているかのように。


「伯母様も、長男の嫁に見切りをつけて、次男に希望を託してたってこと? そりゃあ、センセイの後継者は、破天荒な兄貴より真面目で出来の良い弟だって、昔からみんな言ってたけど、伯母様だけは長子継承派だったのに」


その部分は間違っている。

玲丞は両親の望み通り法曹家になった。けれど、父も母も玲丞に政界を期待したことはない。


〝順法精神〞と〝利権〞。その矛盾を看過できる図太さが玲丞に欠けていることを、母は見通していた。そして、家族でさえ寝耳に水のような形で電撃結婚した慶丞こそ、カリスマ性という政治家の資質があることを、父は昔から感じ取っていた。


「やっぱ〝女優〞はまずかったのかなぁ? 彼女、個性派だし生じっかうまいし。──前に伯母様が、詐欺師の方とはお会いしたくないってゴネたときには笑ったよね。そういう役だっちゅうの。さすが公家の血を引くおひいさま、和むわ〜。うちのサイコパスババアに爪の垢でも煎じて呑ませてやりたい」


茶飲み話にひとり花を咲かせていた倫太郎は、体を縮めてテーブルにやってきたギャルソンの姿に、はたと本来の目的を思い出した。


「あの、次のお料理をお持ちしても──」


「バカね、キャンセルに決まってんでしょ。キャ・ン・セ・ル!」


言いながら、急かすように立ち上がり、


「こんなところでのんびりしてる場合じゃなかった。ほら、早く!」


玲丞は困惑するギャルソンに言った。


「続けてください」


「行かないつもり? 信じらんな〜い。タカさんをそそのかして、オーベルジュをつくらせたのはあんたじゃない。感謝は態度で示しなさいよ」


目を尖らせる倫太郎を疎むように、玲丞は窓へ顔を向けた。


倫太郎はしょうがないなと再び腰を下ろし、顔を覗き込んで言う。


「今夜こそ、絶対に来るよ」


玲丞の瞳に動揺が走った。見逃さなかった倫太郎は、畳み掛けた。


「ボストンにいるって話だけど、あれだけの準備を素人にできるわけがない。どう考えたって多恵が一枚絡んでるって。だから、行こうよ。そんで、タカさんからうまいこと言ってもらってさ。きっと、これまでのあんたの尽力を知ったら、感激するよ? 鬼の目にも涙だったりして」


ハッハッハッと、空笑いする倫太郎に、玲丞は心の中で答えた。


──多恵はすべて知ってる。だから一度も現れなかった。赦す気はないと伝えるために。


「気まずいのはわかるけどさ、あたしだってあのことについては責任を感じてんのよ。ちょっと脅かしてやれって言ったのに、あの蝦蟇、マジで多恵を手篭めにするなんて、ほんと野蛮なんだから」


倫太郎は悪びれずに言う。

確かに、今回は倫太郎にしては手ぬるかったし、脅迫したとはいえ、黒川の情報をあっさり白状したのは、やはり多恵に思い入れがあったからだろう。


「でも、まさかミイラ取りがミイラになるなんて、思いもしなかったわよ。──しょうがない、あたしも一緒に謝ってあげる。ついでにIT会社社長と女優にも土下座させる? 弟がレイプまがいなことをして申し訳ございませんでしたって」


玲丞に睨まれて、倫太郎は肩をすぼめた。


「冗談だよぉ」


会話を面白く可笑しくしようとして、洒落にもならない不謹慎を招くのは、倫太郎の悪い癖だ。玲丞がお目付け役をしているのは、一族に仇なすような舌禍を未然に防ぐためでもある。


そもそも、多恵が玲丞に背を向けたのは、そのことが問題ではない。


「──だって……、玲丞が麻里奈以外の女を愛せるなんて、思ってなかったんだ……」


倫太郎の呟きは、弁明のようでもあり、愁嘆のようでもあった。


彼が玲丞に近寄る女性を徹底的に排除するのは、三人で過ごした美しい青春の思い出が、ぼやけて薄れてゆくことを恐れるためだ。


それは玲丞も同罪。

愛してると言いたかった。でも、言えなかった。──だから、多恵は背を向けた。


「多恵は来ないし、僕も行かない」


「何でよ?」


玲丞は答えることなく、再び窓に顔を向けた。


倫太郎は唇を尖らせ、空になったグラスを指で弾いた。


「お前さぁ、弁護士になってからよけい無口になったよな。言質を取られないように発言が慎重になるのはわかるけど、何も聞かれなくても、女にはこちらから言葉にしてあげないとだめなんだ」


倫太郎の方こそ、いい加減、薫子と向かい合ったらどうだと、玲丞は心の中で言い返した。


「特に多恵は、何でも自分の中で片付けようとして、逆に自分自身を追い込んでしまう。だいたい、もし玲丞が多恵に麻里奈を重ねていたと思ってたのなら、あいつバカだろう。あんな強情っぱり、多恵以外にいないじゃないか──」


と、そのとき軽快なメールの着信音。

会話を遮られ、スマホ画面を睨んだ倫太郎は、ビックリしたように立ち上がった。


「ああ、もう! 慶にぃたら、いらちなんだから! 先に行っとくから、とにかく新幹線でも何でも使って来なさいよ。絶対よ!」

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