第42話 『亡霊に嫉妬することほどやり切れないものはなかったわ』
藤崎玲丞。
トーエーグループの顧問弁護士。ポラリスを買収したトーエー開発社長の従兄。屋敷の新たな所有者の甥。そして──カンナビを奪おうとする政治家の息子。
倫太郎から真相を明かされたとき、多恵の胸は、氷水をぶちまけられたように冷たく凍った。頭からかぶった水の冷たさに震える間もなく、足元の氷が音を立てて崩れ、そのまま冷たい海へ沈んでいくような──そんな絶望に、心が砕け折れた。
もしあのとき目の前にいたのが玲丞だったなら、煉獄へ突き落とす前に命綱を着けてくれただろうし、多恵だって必死に手を伸ばしただろう。
玲丞もそれがわかっていたから、多恵の心を壊さないように、必死に言葉を選んでいたのに。聞く耳を持たなかったのは、多恵の方。わかっている……。わかってるけど……。
「それは、弁護士だってことを隠していた言い訳?」
「……隠していた、のかもしれない。君に、僕がしていることを知られて、軽蔑されるのがこわかったから」
「やっぱり欺罔じゃないの。黒川に泣きつかないように先手を打ってあんなことするなんて、汚い」
「ごめん……。でも、君が強情だから。ああしなければ、君はまた黒川に会いに行く」
「それが弁護士のすることなの?」
「弁護士である前に、僕は一人の男だ。君に誰の指も触れさせたくなかった」
「さすがは不祥事対応の専門家。ご自分の弁護もお上手で」
「多恵!」
一瞬、打たれるかと思った。
打たれた方がましだった。玲丞の痛々しいほど傷ついた瞳を見るよりは。
「僕がそんな人間だと、本心で言っているの? 僕を愛していると言ったのに?」
多恵はたまらず視線を逸らした。
狡い男だ。酒の勢いでつい口を滑らせた告白を言質にとって、不実を責めるなんて。
悔しいのか、情けないのか、辛いのか、感情がごちゃごちゃに入り交じって、自分でも何を言い出すのかわからない。
「私にだってわからないわよ。あなたを愛しているのか……、憎んでいるのかなんて……」
「……多恵」
涙ぐむ多恵の頬にそっと玲丞の掌が触れた。あたたかく、優しく、けれどどこかおそるおそる。
視線が重なり合う。深く、そして長く。まるで時間が一瞬止まったようだった。
「君を……苦しめるつもりじゃなかったんだ」
多恵は口元を歪め、フッと仕方のない薄笑いを浮かべた。
「私は──ずっと、苦しかったわ」
愕然とする玲丞の手を、多恵は引き剥がした。
「リョウが、ときおりぼんやりと私を見つめるたびに、私は胸が切り刻まれそうだった。あなたの目が捕らえているのが本当は誰なのか、知るのが怖くて」
涙が一粒落ちた。悟られまいと、多恵は顔を背けた。
「あなたは私が訊かなかったと言うけれど、訊かないのじゃなくて、訊けなかったのよ」
涙声になりそうで、多恵は大きく鼻から息を吸った。
「女なんて、好奇心と独占欲の塊なの。好きなひとのことなら、本当はどんな些細なことでも知りたくてしかたがない。そこに少しでも疑念があれば、疑う心が増殖して、徹底的に追求しなければ気が済まなくなる、業の深い生き物なのよ。だから、一度訊いてしまったら、あなたの古傷を抉るようなことでも、確かめずにはいられなくなるでしょう? あんな写真を見てしまったら、どうしようもないのよ」
「写真?」
と声にして、思い当たったように玲丞の唇は開いたまま凍りついた。
「リョウのなかに麻里奈さんは生きている。私の父も同じだった。あなたを好きになればなるほど、彼女の影は大きくなって、私を苛むのよ。──亡霊に嫉妬することほど、やり切れないものはなかったわ」
重い沈黙が続いた。
懊悩する玲丞に、多恵は自分の唇を呪った。
これは言葉の折檻だ。彼が反論できないことがわかっていて、責めている。
突然込み上げてきた胸の悪さに、多恵は逃げ場を求めて背を向けた。
「待って、まだ話が──」
「もう何も訊きたくない」
ドアノブに手をかけ、振り向かずに言う。
「言ったでしょう? 真実なんて何の役にも立たないって。もう、私に構わないで」
そして、すべての未練を断つように、後ろ手で──扉を、閉めた。
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