6、迷えるふたり
第40話 『他に目的があって、来たのよ』
色を変えた銀杏並木に、初冬のゆるい陽差しが降っている。
坂道の途中で地図を手に首を捻った多恵は、枯葉をお供にすれ違って行く木枯らしに、コートの襟を立て廻れ右をした。
民家の屋根の奥に海が広がっている。閑静な住宅地、平日の昼下がり、尋ねるにも通行人の姿はない。
ふと見ると、ハーブが飾られたアプローチ階段で、男がそわそわと行きつ戻りつしている。
「理玖?」
「ユキさん!」
多恵は目を瞠った。
バンダナキャップを被った顔は陽に焼けて精悍になり、ビストロエプロンを着けた体は筋肉がついて一回り大きくなっている。
「何で反対から来るんです?」
呆れたと、多恵は指先で抓んだ紙をひらひら振った。
「画伯の暗号が解読できなくてね」
まるで子どもの宝探しのような地図に、嫌な予感はしていたけれど、冗談だと笑って受け流されたところ、本人には満点の出来だったらしい。
「司さんが心配して落ち着かなくて。ユキさん、前しか見えないから、迷子になってるんじゃないかって。とにかく中へ」
相変わらず失礼な司は、一年前に元麻布のバーを引き払い、実家のある横須賀近郊にカフェレストランをオープンさせた。
オーガニック食材を使ったランチメニューが好評で、なかなか繁盛しているらしい。
店内は、無垢材とレンガを使ったプロヴァンス農家風の造りで、緩やかにパリ・ミュゼットが流れている。
雑貨をペパーミントグリーンとラベンダーブルーで統一しているのは、レルブ(フランス語でハーブ)という店名からだろう。
カウンター席から首だけをこちらに向けて、理玖と揃いのバンダナを被った司がニヤリと笑った。多恵もニヤリと笑い返した。
駆け寄り抱きしめたいくせに、大人ぶって平静を装うのはお互い様だ。
「久しぶり」
「うん、元気そうね。──瑠衣ちゃん?」
司の膝に子どもがテントウムシのように座っていた。
喋るにはまだ早い愛娘のために、司が小さな手を取って振る。
司に似てきれいな顔立ちで、ニコニコと愛嬌があるのは理玖に似たのだろう。
「まあ、座って。久しぶりの街で疲れたでしょう?」
「なかなか良い店ね。それに理玖、調理師免許取得、おめでとう」
司の妊娠を機に、一念発起して医大を卒業した理玖は、医者にはならずコックになった。
「メスが包丁に変わっただけ」とあっけらかんと宣う彼に、田舎のご両親はさぞや嘆いていることだろうと心配したけど、病院の跡取りには長女夫婦がいるし、出来の悪い息子を人殺しにしなくてよかったと、物わかりのよい両親は笑っていたそうだ。
幼い頃から、忙しい母親に代わり姉たちに食事をふるまっていたというから、ザナデューで賄い作りをしていたのも、たんに司の気を引くためではなかったのだ。
「変われば変わるもんよね。結婚式であれだけ号泣してたから、本当に大丈夫かぁって心配してたのに」
司と理玖は、ポラリスでのウエディング第一号だ。
新婦入場から感極まって、花嫁に洟を拭いてもらっていた新郎の姿が、今も目に浮かぶ。
「あんたは相変わらずね、ユキ」
「その憎まれ口も相変わらずね、司」
「あら、まあ、こわいでちゅねぇ?」
わけもわからず瑠衣がきゃっきゃっと声を上げた。
子どもはかわいい。人間でも動物でも、見ているだけでどんな気難し屋の頬も緩ませてしまう。
きっと生まれたときはみな、誰からも無条件に愛されるように、神様がギフトしてくださるのだろう。
「るーちゃん、おばちゃんに抱っこしてもらおうか」
少し遅れて、多恵は気づいたように目を瞬いた。
「おばちゃんって、私?」
「あんたしかいないじゃない。ほら──」
「え? ま、待って」
おろおろする多恵の首根っこに、瑠衣は無邪気に抱きついてくる。
はじめて抱っこした赤ちゃんは、意外に重い。それに温かくて柔らかい。
「かわい……い」
「ユキも子どもを作りなさい。女にはタイムリミットがあるんだから。ご両親も草葉の陰で心配してるわよ」
「そうねぇ……」
指を掴む小さな手を見つめながら、感慨深く言う多恵に、司は眉を潜めた。
「やぁねぇ、何しんみりしちゃってるのよ。地震でも起きるんじゃないの?」
減らず口は健在だ。それが司独特の励まし方なのだけれど。
やはり居心地が悪いのか、瑠衣がむずがった。
おろおろする多恵を、司は意地悪く笑っている。
すぐに調理場から出てきた理玖が、慣れた手つきで子どもを抱き上げるのを見て、多恵は何だか不思議な感じがした。
自信のなさがすっかり消えて、地に足が着いた感がする。これが、親になるということなのだろう。
「何はともあれ、元気そうで安心したわ」
代わりにオープンキッチンへ入った司が、ダージリンティーとフィナンシェを出しながら、安堵したように微笑んだ。
ダージリンティーのフレーバーにはリラックス効果があるし、フィナンシェは金の延べ棒を模した縁起のよい菓子だ。これから戦場へ赴く多恵への、力水のつもりかもしれない。
ホテル・ポラリスは春を待たずに閉館する。
秋の訪れとともに静枝がみまかり、多恵は航太に相続放棄(この場合は負債過多だけれど)させ、自らポラリスの代表取締役に就任した。
弟の将来を守ることが、多恵が静枝にできる、最初で最後の親孝行だったから。
こうなることを待っていたかのように、トーエー傘下の債権回収会社による、執拗な取り立てが始まった。
従業員たちは一致団結して、リベンジを誓った。
あからさまな妨害行為もあったけど、暴力団員風の客からの嫌がらせに、秋葉は驚異的な忍耐力で耐えた。クレーマーのしつこい言いがかりに、紗季も唇を噛んで謝罪した。早坂をリーダーに、警邏隊も結成された。
市場関係に怪文書が回ったけれど、そこは幸村一族の力が強い。
山岡も息子の説得に耳を貸さず、ますます元気に野菜を納めてくれた。
農道が今さらながらの水道管工事で通行止めにされたときは、村長自らトラクターを駆って、臨時道を整備してくれた。
最も用心したカンナビは、ダンプが突っ込んだり、花火を投げ入れられたりと、いくども危険に晒された。
警邏隊では後手にまわり、神経をすり減らすばかりの毎日。そんな多恵たちの助っ人となったのは、怖いもの知らずのNPOの狐目たちだ。
許可なくライブカメラを設置して監視していたようで、森の入り口に不審者発見とみるや飛んできて、例のシュプレヒコールで追い返してくれた。
権力に逆らえず言いなすばかりの警察より、よっぽど頼みになった。
インターネット上に謂れのない誹謗・中傷が書き込まれたときには、谷垣が強引な開発事業への風刺を新聞に掲載してくれたし、牧村や笙子もSNSで擁護してくれた。
多恵は、トーエーの包囲網を掻い潜り、残った資産の売却先を画策し、並行して民事訴訟の準備もした。
それなのに、闘うことをやめたのは、多恵だ。
「それで、これからどうするの?」
「まだ考えてない。まずは、従業員たちに何とか条件の良い就職先を探して、それからね、自分のことは」
「ユキも、とことん苦労性ねぇ」
自分が仕損じたのだからと、多恵は心の中で言った。
黒川との密約は破談した。
多恵はいく度も謝罪と再交渉の場を求めたけれど、黒川は腫れ物に触るように多恵を避け続けた。顔に泥を塗られて、えげつない報復をされても止むなしと覚悟していたから、良かったのか悪かったのか、拍子抜けもいいところだ。
多恵がティーカップに口をつけるのを待っていたように、司は訊ねた。
「あれから彼には逢った?」
いずれはその話題になるだろうと覚悟はしていた。
それでも、あまりに唐突な振り方で、多恵は返答に詰まった。
理玖も瑠衣をあやすふりをして、しっかりこちらへ耳を向けている。
「彼、あんたがいなくなってからもザナデューによく来てね、ユキはボストンに戻ったって言っても信じてないみたいで、いつも閉店まで独りで寂しそうに呑んでた。ドアが開くたびに振り返る姿が切なくって……」
理玖がうなづく。
「そりゃ、初めのうちは、あんたを傷つけたことに腹を立てたけど、何だかあんまり気の毒で、何度も口を滑らしそうになったわ。そのうちパッタリと来なくなったけど、諦めちゃったのかしら……」
「司がきついことを言うからさ」
「ツカサ、か」
ここで茶化すのは軽薄だ。けれど自分を落とさなければ、とてもその先へ踏み込めそうになかった。
多恵は、感情を読まれまいと、子どもに顔を移して表情筋を緩め、さらっと言った。
「夏に、ポラリスに来たわ」
「ほんと? それで?」
何を期待しているのか、司も理玖も目を輝かせて身を乗り出してくる。
「それだけ」
「それだけって……。あんたに逢いに行ったんじゃないの? 偶然だったの?」
「偶然じゃないわ。他に目的があって、来たのよ」
「他の目的って?」
多恵は口元に自嘲を浮かべた。
それから一つ大きく息を吐くと、怪訝な司を真っ直ぐに見つめた。
「司、お願いがあるの」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます