第38話 『母娘そろって、同じ目をしやがって!』

「やめてください……」


自分の声が震えていることに気づいて、多恵は己を叱咤した。


ここまできてみっともない。生娘でもあるまいし、ギブアンドテイクと覚悟して来たはずだ。

頭ではわかっているのに、体が拒絶している。

第一、こんな明るい畳の上で、いきなりとは野蛮すぎる。


ヤニ臭い唇が迫り、多恵は我慢ならないと男の顔を両手で押しのけた。


「やめましょうか?」


黒川は意地悪く薄嗤った。


そうだ、誘惑したのは多恵の方だ。たかが肉体一つ。こんな体でも何人かの従業員と家族を救えるのだから、女に生まれてきて良かったと感謝しなければならない。屋外であろうが、人前であろうが、こちらが贅沢を言える立場ではないのだ。


多恵は抵抗をやめ、覚悟を決めて目を瞑った。


ふと、多恵を畳に貼り付けていた重しがとれた。

頭の上で襖が開く音がした。


怪訝に襖の奥の薄闇に目を向けて、多恵は顔を覆いそうになった。

枕元の行燈に浮き出された布団には、淫靡に枕が二つ並べられていた。


「さあ」


促され、多恵は幽鬼のように立ち上がった。

とたんに獣の力に引っ張られ、多恵は寝具の上に転がり倒れた。


「あっ」と虚しく零れた唇を、待ちかまえていた唇が吸う。噛みしめた歯を蛙のような舌に押し割られ、思わず吐きそうになって、多恵は首を左右にした。


そうした攻防の間にも、蛸のような手が八つ口から侵入し、胸を鷲掴みにする。

蛸は、ひとしきり乳房を陵辱すると、着物の裾を捲り上げ、すぐに内股を這い上がってきた。


絶望に断崖絶壁から飛び込む覚悟を決めた、そのとき。

──多恵の脳裏に、玲丞の哀しげな顔が浮かんだ。


〈多恵、僕と東京へ帰ろう〉


次の瞬間、多恵は思いもよらぬ力で、男をはね除けていた。


「何をする!」


尻餅をついた黒川は、こめかみに青筋を立てて怒鳴った。


多恵自身、自分の行動が理解できない。無我夢中の本能が勝手に踵と肘とを動かして、ずるずると明るい座敷へ向かって後退してゆく。


「母娘そろって、同じ目をしやがって!」


黒川は先刻までとは人が変わったかのように、余裕をなくし目を血走らせた。

少年時代の屈辱的な記憶が、若者の凶暴さをも甦らせたのか、七十男の嗜みも恥も忘れ、多恵に躍りかかる。


反動で、多恵は座卓の縁にしこたま頭を打った。銚子が倒れ、酒の匂いが部屋に充満した。


「やめて!」


朦朧とするなかで、多恵は叫び足掻いた。

馬乗りになられ、グローブのような手で口を塞がれ、息ができない。

徐々に体の力が吸い取られていく。


薄れてゆく意識の隅で、コツンコツンと乾いた音が谺した。

朝靄の森に響くアカゲラのドラミングだ。またあの年老いたスジダイを叩いている。


そのとき、入口の襖がパンと音を立てた。


「何だ、お前は! 部屋を間違えているぞ──」


夢なのかもしれない。

次の瞬間、黒川の体が宙に浮き床へ転げたのを、多恵は見たような気がした。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る