第6話 『姫様の苦しいお気持ちもわかります』

ポラリスが建つ岬の森は、多恵の所有地だ。


地価としては二束三文だが、それを破格の値段で買い取りたいという業者があった。

四年ほど前からしつこく面談を求めてきていたが、多恵は頑として耳を貸さなかった。


「そのお話は再三お断りしております。先方の開発計画には賛同しかねますので」


二年前、十年ぶりに故郷に戻った多恵は、変わり果てた村の姿に愕然とした。

虫たちののどかな田園も、鳥や動物たちの豊かな森も、魚たちの澄んだ小川も、心優しい住民の姿も、そこにはなかった。

川は灰色の大蛇のように枯れ、ただ傷ついた大地が赤い肌をさらしていた。


自然を破壊し、生態系を乱しても、人は人工的な自然を造ろうとする。


ダム建設反対、高速道路建設反対と、自分たちの生活権を主張するばかりの住民運動を、冷めた目で見ていた多恵だったけれど、故郷が開発と言う名の暴力に蹂躙される姿を目の当たりにして、慷慨を感じたのは言うまでもない。


「お聞きしたところによれば、ポラリスのためにすでに目ぼしい不動産は手放され、お祖父様の骨董や、お父様の蔵書までお売りに出されたとか」


嫌らしい言い方をすると、多恵は苦々しい顔をした。

そこまで調べたうえで今日の面談を仕掛けてきたのだ。

しかも今日から世間は盆休み。金策に奔走しようにも、担当者はつかまらない。


「それに、これは幸村さんだけの問題ではないのです。老朽化が進む港町の港湾整備、観光で出遅れた温泉町の活性化、そのためにもIR構想は欠かせません。過疎と高齢化が進むあの村が生き残る唯一の道だというのに、佐武村長もさぞ辛いお立場でしょう」


高度成長期に水産加工業で都市化が進んだ港町は、産業の衰退と共に人口流出に歯止めが利かない。

古くは湯治場として栄えていた温泉町は、バブル期の拙速な開発で町づくりに失敗し、すっかり寂れてしまっている。


この二つの町を合併し新市を誕生させ、総合型リゾートによって再生を図る。それが行政の意向だ。

二町に挟まれ今まで見向きもされなかった農村の動向が、合併の成否を握っている。


リゾート法というバブルの落とし子と地方分権政策が、財政難の自治体と企業の思惑を一つにして、住民不在の開発を押し進める。


「人間の都合で商業リゾートを造っても、それが真のリゾートでしょうか? 自然と人間が共存共栄するために、先祖たちが守ってきたカンナビを破壊されて、誰が歓ぶのですか? 垂れ流し的な開発は、必ず後でしっぺ返しを受けます」


この沿岸部に豊かな漁場があるのは、照葉樹の森のおかげだ。落ち葉や腐葉土に蓄えられた栄養分が、ゆっくり海へと流れ込み、プランクトンを育み、魚たちを呼び寄せる。


さらに、遠い山々のミネラルをたっぷり含んだ岬の森の湧泉は、この地に豊穣をもたらしてきた。


いにしえの人々はそれを知っていて、この森を神の依り代〝カンナビ〞と尊称し、崇めてきた。


岬に鉱泉を掘削しホテルを建設した祖父は、原生林の偉大さに気づき、自らの過ちを悔いて森の保護に努めた。

それでも、いずれ人間の我欲に自然が貪られる未来を、祖父は半世紀も前に予見していたのに……。


「新市のカジノ付き複合観光レジャーランド構想が実現すれば、雇用も生まれます。都会に出て行った若者たちも戻ってくるでしょう。

周辺の国有地もすでに開発が進み、高速道路建設用地の買収も完了しています。問題はいくつかありましたが、官庁の保養施設もトーエーへの譲渡が認可されました。

残っているのは、あの森だけなのです」


「あの森に、それだけの利用価値があるとは思えません」


「海外投資家たちは、森林と鉱泉を今回のプロジェクトの目玉と考えています。それに、ホテルが倒産すれば、あなたが森を所有している意味はない」


「あの森は──」


多恵が呑み込んだ感傷的な言葉を察したように、次長は頷いた。


「姫様の苦しいお気持ちもわかります」


多恵は訝しげに彼を見た。

〝姫様〞という呼び方に、揶揄はなかった。むしろ憐憫の情さえ感じさせる。


テーブルに置かれた名刺に目を落とし、多恵はあっと息を呑んだ。


──山岡農園の息子?


多恵が子どもの頃、よく山岡を手伝ってホテル幸村へ納入に来ていた。

遅い歳にようやく恵まれた文字通りの子宝で、真っ黒に日焼けした父自慢の息子だった。──確かに、面影はある。


その後、東京の大学を卒業して銀行勤めをしていると、後継者を失った山岡が寂しげに話していたのを覚えている。


「誰しも思い出は守りたい。しかし、美しいおとぎ話のなかで生きてはゆけません。亡くなった方々よりも、今生きている人々の生活が大切なのです」


山岡とすれば、ポラリスの存在が年老いた両親をあの土地に固執させているのだと、考えていても当然だ。


だけど、たとえポラリスがなくなっても、あの頑固な農夫は田畑を耕し続ける。

彼らはこの地の民だ。カンナビがある限り、土地を捨てることはない。


とすれば、山岡が憎んでいるのは、カンナビなのか。その守り主である多恵なのか。


「どこも厳しいサバイバルゲームです。あなたも意地を張らずに、もう楽になった方がいい」

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