第20話 『悪魔のようなカオルは天使をも封じたのかもしれない』

「ル・モンラッシェが飲みたいわ」


コバルトブルーのワインリストをすっと開いたカオルは、試すような上目遣いで多恵を見た。


「ラモネ、コント・ラフォン、エティエンヌ・ソゼのグラン・クリュをご用意しております。本日のお料理には、クリオ・バタール・モンラッシェ──ロジェ・ベランのグラン・クリュなど、いかがでしょうか」


白のスタンドカラーシャツにカマーベスト、黒のパンツに着替えた多恵は、視線を合わせもせず答えた。


少しホールの照明を落としているのは、天井まである連双窓の外、ミモザの生垣の葉隠れに揺れる、幻想的な青白いプールの灯りを愉しんでもらうためだ。


とりわけこの一番テーブルのロケーションは格別で、芝庭に置かれたオレンジのガーデンライトが美しいラインを描き、その先には、いくつもの漁り火が揺れている。ゆっくり右から左へと移動しているのは、水平線近くを航行する外国船の灯りだ。


「やっぱり、ラモネよねぇ?」


玲丞に向かって小首を傾げる、あざとさ全開の仕草に、多恵は片頬を引きつらせた。


──この女、わかって言ってるのか? 


ラモネは、〝黄金の雫〞と称される至高の白ワイン。当然、リストにある通り、価格の方も堂々たるものだ。

玲丞は、知っているはずだ。


「あ? うん」


多恵は怒りを飲み込むように、目を閉じた。

カオルの言いなりに頷く彼に苛ついたのではない。気づかぬふりをしていても、ジッと見つめる視線が痛いからだ。妻の前でいったいどういう神経をしているのか。


多恵は大きく鼻から息を吸うと、営業用のスマイルを作った。


「かしこまりました」


サッと踵を返す多恵に、玲丞は「多恵」と言いかけたようだった。




──昔からあんな人だったかしら……?


多恵はセラーの冷蔵庫の前で、額に拳を当てた。


10分に一度は笑顔を見せる、良くも悪くもおおどかなな人だった。


善良さが人相に滲み出ているし、お人好しだから、よく近所の商店街のおばさんに上手いこと乗せられて、蜜柑やら大根やらを買わされていたっけ。


一度、大量の生牡蠣を売りつけられて、ふたりしてお腹を壊したこともあった。


あんまりのほほんとしているから、心配になって注意したら、彼はやっぱりのほほんと笑った。


そんなことでは出世できないと意見したら、「出世ってそんなに大事なこと?」と、不思議そうに首を傾げた。


〈多恵は野心家が好きなの?〉


〈野心じゃなくて、向上心のある人が好きなの〉


〈でも、君は肩書きにこだわっている〉


〈肩書きがなければ、世間は女の私を認めてはくれないわ。どんなに優秀でも〝仕事ができる〞で済まされて、男性上司の付属品のように扱われる〉


〈世間が認めなくても、僕は多恵を認めているよ。それだけじゃ、ダメなのかな?〉


──嘘つき。


そんなくさい台詞でも、当時の多恵には嬉しかった。

彼のふんわりとした優しさに包まれていると、何だかこちらまで穏やかな気持ちになって、虚勢を張って背伸びしている自分が、バカらしく思えた。


父が再婚したとき、多恵は心に鎧を着せたのだと思う。これ以上傷つかないように、自分の心は自分で守るしかないと悟ったから。


それは、さらなる孤独に連鎖したけれど、その鎧を自ら脱ぎ去る謙虚さは、生まれつき持ち合わせていなかった。


そんな膝を抱えて蹲るような多恵を見透かすように、玲丞はやすやすと垣根を越え、さりげなく頭を撫でてくれた。


気づくと彼は、多恵の心の肝心な処に住みついていた。


それなのに……。


多恵はいかんいかんと首を振った。

自分は、今夜の主役たちのために夏のディナータイムを優雅に演出する裏方──そう、私情を消して〝無〞になろう。


「よしっ」と気合を入れて、多恵は背筋をシャンと伸ばし、深呼吸をひとつした。




ガーデンテラスの向こうで、木蓮の影が揺れている。少し風が出てきたみたいだ。


「グラスはバカラ、食器はデボラシアーズかぁ。強気よねぇ。料理が負けなきゃいいけど〜」


背後から近づく靴音に、カオルは聞かせるような声で言う。


「失礼します」


カオルは口元を押さえ、わざとらしくバツの悪い顔をした。


──〝無〞だ。〝無〞。


多恵は、機械のように抜栓し、コルクを玲丞に差し出した。


テイスティングする口元に、ふと懐かしさが甦る。

そんな感傷も、カオルの薄ら笑いが見事に打ち砕いてくれた。


「ねえねえ」と、カオルが、グラスに黄金色のワインを静かに注ぐ手を叩いた。


多恵は滴をトーションで押さえ、一呼吸おいてにっこりと微笑みを返した。


「あそこのテーブル、谷垣七生でしょう? 芥川賞作家の」


「あいにくですが、お答えいたしかねます」


「じゃあさ」と、カオルは顎先をしゃくった。


「その奥の陰気な男はカメラマンの須藤拓也で、派手な若作りは女優の永野笙子」


多恵は再びにっこり微笑んで、野次馬根性丸出しのカオルにノーコメントを貫いた。


「口が硬いのねぇ? ねぇ、リョーちゃん」


意味深な笑みに、多恵はもう我慢ならないと一礼して、その場をとっとと立ち去った。


──何がリョーちゃんよ。むかつく女!


そんな挑発に乗るものかと呟いている時点で、すでに煽られている。




「多恵さん」


呼び止められて、多恵は我に返った。

品のいい老夫婦が、娘を心配するように見上げていた。


そう、客は彼らだけではない。危うくホテルマンの矜持を忘れるところだった。


「失礼いたしました、気がつきませんで」


空になりかけた二つのグラスに冷酒を注ぐ。

今夜は真野鶴磨三割五分大吟醸。芳醇でまろやかな飲み口は、雄大な実りの田園を思わせる。まるで、このおふたりのよう。


「ずいぶんと板についてきたようですね」


着物愛好家の文壇の大御所は、今宵もロマンスグレーによく合う銀鼠の夏塩沢を粋に着こなしている。


「先生方のご指導の賜です」


「お小さい頃から大女将のもとで、女将としての修行をされたのですもの、当然ですよ」


こちらのご婦人は、薄青の絣縞の長井縮に紺の羅織の八寸帯。

長く連れ添う夫婦は自然と似てくると言うけれど、そのとおりだと多恵は思う。


谷垣は、旅館ゆきむらの時代から五十年近く通い続ける常連客で、ポラリスと幸村家、そして多恵の関係を知る数少ないひとりだ。


彼の何冊かの小説は、この岬で誕生した。

若い頃にベストセラーを出した後、筆が止まってしまった小説家が、かつて豪遊した老舗旅館に無一文で舞い戻り、亭主との交流をきっかけに再生していく――そんな物語が、彼の代表作となった。

言わずもがな、亭主のモデルは祖父だ。


〈ノブレス・オブリージュ〉。富める者には、奉仕と慈善に身を捧げる義務がある。若い才能を支援するのも、当然の務め――それが、曽祖父から祖父へと受け継がれてきた家訓だった。


教育、芸術、芸能、スポーツ、商い――彼らが遺した〝縁〞という宝物が、今のポラリスを支えてくれている。

だがそれも、多恵の代で、数多の遺産と同じく消えてしまうのだろう。


「厳しい方でしたからねぇ。茶道、華道、日舞に三味線、おおよそ子どもらしくない習い事を、多恵さんに手ほどきされて、芸者にでもするつもりかと、宗一郎さんがぼやいてらした。そう言う宗一郎さんも、書道と武道でしたか……」


「どれも中途半端で」


多恵を幸村家当主として、そして旅館ゆきむらの立派な女将として育てることが、祖父母の生きがいだった。

叶わぬ夢だったけど。


「あなた、少しお痩せになった?」


眉をひそめる夫人に、多恵は頬に手をやって微笑んだ。


「ダイエットの成果でしょうか」


「まあ、ダイエットだなんて不健康な。痩せている方が美しいなんて、悪しき風潮ですよ」


気のいい夫人のお説教が始まるのを察して、谷垣が嘴を入れた。


「そう言えば、二ヶ月ほど前に牧村君から連絡があって、多恵さんが企画したマクロなんとかという健康食プランを絶賛していましたよ。体も頭も、心も軽くなったと言ってね」


牧村もやはり古くからの馴染み客で、今では巨匠と呼ばれる映画監督だ。仕事に詰まるとぶらりとやってきて、ふらりと去って行く。


「よろしければ、先生方もぜひお試しください」


「そうだなぁ。のんびりと粗食を愉しむのも、一興かもしれないなぁ」


「あなたはのんびりしすぎです」


遅筆で有名な先生は、これはまずいと話を逸らした。


「しかし、いつもながら修司君の料理はいいねぇ。また一年、寿命が延びた気がするよ」


「ありがとうございます。グラン・シェフも歓びます。後ほどご挨拶に伺わせますので──」


そのとき、一つ空けた隣の席で、華やかな笑い声が上がった。


多恵は一礼をしてテーブルを移動すると、深紅のサマードレスの女性に微笑み礼をした。

サスペンスドラマの当たり役そのまま闊達な人で、ワイングラスを手にした姿は写真集のポージングのように決まっている。


「お下げしてよろしいですか?」


「聞いて、このひとったら、いつになったらスカンクが出てくるのだろうっ……て……、真顔で……、スカンクって、食べたら臭くない?……」


今夜の主な献立は、とうがんと駿河湾産(赤座海老)のタルタル仕立て、フィレッシュトマトのパスタ、鮑と金目鯛のポワレ、牛フィレのステーキだ。


笙子は笑ツボに入ったかのように再び笑い出すと、苦しげに目尻に溜まった涙をナプキンで吸い取り、笑い皺を伸ばすようにこめかみを指先で押し上げた。

美とは一瞬も気を抜かない努力に培われるものだと、多恵はつくづく思う。


「今夜は、珍しいのがいるね」


皿を引く多恵に、須藤がぼそっと呟いた。

肩まで伸びた髪、痩せた体、黒づくめのファッションが、神経質な思想家のように見える。

テレビや映画のポスターなどを多く手がける広告写真家として有名だけど、本来はネイチャーフォトグラファーで、岬の森をこよなく愛する一人だ。


「どこどこ?」


笙子が振り向く。そこには玲丞とカオルの姿があった。


傍から見ると実に美しいカップルだ。

特に黒いカシュクールドレスに着替えたカオルは、中性的で妖しげで、他の客たちもときおり視線を流し見ていた。


そういえば、さっきバンいっぱいの衣装が届いたと、大和が慌てふためいていた。

ファッションショーでも始めるつもりか?


「女優より目立つなんて、やぁねぇ」


「いや、そっちじゃなくて……」


言いかけて止めるのは須藤の癖だ。口が重く、その分、笙子がお喋りだから、気に留める者もない。

正反対な夫婦だが、あと二十年もすれば彼らも似てくるのだろうか……。


ふと、多恵は奥のふたりに目をやった。

玲丞はまだ懲りずに、切なげな視線を多恵に向けている。カオルはお構いなしにひとり喋り続けている。


フンと、多恵は背を向けた。


ふたりがどんな夫婦になろうが関係ないが、あんな女と二股を掛けられたうえ捨てられたなど、悔しくて仕方がない。

だいたい、あの写真の女性とは似ても似つかぬではないか。


──だからなのか……。


玲丞の瞳が、多恵の体を通して、別の誰かを見つめていると気づいたのは、いつだっただろう。


そう、冬の日溜まりで、はなとうたた寝していた彼が、寝ぼけて多恵を抱き寄せむせび泣いたとき、多恵は悟ってしまった。

彼の心は今も、遙か彼方のポラリスにある──と。


多恵の玲丞への想いは、恋と呼ぶには冷静すぎて、友情と呼ぶにはあまりに切なかった。

ただ、彼を大切にしたかった。失いたくないと思っていた。

それが〝愛〞だと気づかせてくれたのは、そのとき胸を貫いた痛みだった。


その日から、多恵は行き場のない想いを胸に押し込めて、どんなに司に絞り上げられても、自分さえも欺き続けてきた。

愛なんて言葉を口にすれば、彼が苦しむだろうから。


多恵が死者を蘇らすのなら、悪魔のようなカオルは天使をも封じたのかもしれない……。

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