第8話 『お客様、ご冗談はおやめください』
軽やかな呼び出しメロディが、扉の向こうで響いている。
「ゼネラルマネージャーの幸村でございます。大変お待たせいたしました。ルームサービスをお持ちいたしました」
カチャリと解錠する音がして、象牙色のドアが無愛想に開いた。
「失礼いたします」
鄭重にお辞儀をして、ドアストッパーに身を屈めた頭の上から、煩わしげな声が降ってきた。
「奥のテーブルに置いといて」
立ち上がり、「かしこまりました」ともう一度頭を下げたときには、声の主はすでに廊下の向こうへと消えていた。
わざわざ指名してきたくせに、素っ気ない。
待ちくたびれて腹を立てたのだろうか。ご夫婦客とのことだから、〈一目惚れしちゃってぇ〉の口ではなさそうだけど。ただの冷やかしか?
リビングルームに人の気配はない。
多恵は静かにワゴンを押して、窓辺のテーブルへと向かった。
潮騒が近い。
大きく開け放たれた窓一面に、眩い芝庭の緑と、澄み渡る海と空の壮麗な眺望。
岬の突端に建つポラリスは、海へ向かって傾斜する地形を活かして造られている。客室は全室オーシャンビュー。遮るものは、何もない。
地中海風のピュアホワイトの内装と、シンプルな調度品が、海の青さをいっそう際立たせていた。
シャンパンクーラーをテーブルに置いたとき、白いテラスに吊されたハンモックがふわりと揺れ、キビタキが心地よげに囀りはじめた。手すりの上で尾を振るわせて、雌を呼んでいる。
岬の森は野鳥の宝庫だ。
ホテルにも引きも切らずやって来ては、バードウォッチャーたちを愉しませてくれる。
多恵は、この南西のテラスからの眺めが好きだった。
ここからしか見えない景色がある。建物が弓なりの形をしているのは、そのためだ。
そこに込められた父の思いを、知る者は多恵だけだった。
物音に、鳥が飛び立った。
首を回した多恵は、茫然自失した。
ベッドルームの扉の前に、バスローブ姿の男が立っている。押っ取り刀で出てきたのか、濡れた髪から滴が落ちるのも構わず、泣き笑いの表情で見つめている。
——りょう……?
玲丞が一歩踏み出したのを見て、多恵は我に返った。
動揺を悟られまいと、シャンパングラスをテーブルへ置く。胸の鼓動が伝播して、天板の上でグラスがカタカタと音を立てた。
相手が手の届くところまで近づいたのを気配で感じて、多恵は咄嗟にワゴン上の伝票ホルダーを取った。
顔を伏せたまま踵を返す。そのまま、両手で彼の胸元へ差し出す。
「ルームサービスをお持ちいたしました。こちらにサインをお願い──」
声が震えそうで、つい早口になる。
言い終わらぬうちに、相手の手が伸び、多恵は掴まれた肘を振りほどこうと低く言った。
「お客様、ご冗談はおやめください」
あっという間に抱きすくめられ、多恵は玲丞の腕の中でもがいた。
「放してください」
「やっと逢えた……」
「放してって!」
隔たりを忘れた口調に、心のバリケードが一瞬で崩れそうになる。
その隙間からじんと滲みるものが零れ出て、不覚にも理性を一蹴した。
懐かしい肌の温もり、力強い鼓動が、まるで昔のように伝わってくる。
——このまま、この胸に埋もれていたい。
そう思ったとき、窓から忍び込んだ潮風が、レースのカーテンを揺らした。
玲丞の髪から水滴が落ちて、多恵の頬を濡らした。
「冷たい」
「あ、ごめん」
とたんに、腕の力がほどけた。
こういうところ、昔とちっとも変わらない。
多恵はすかさず伝票を拾い上げ、ワゴンを盾にとった。
「こちらへサインを」
目を合わせまいとする多恵に、切なげな沈黙が流れる。
やがて、玲丞は諦めたような吐息をついて、伝票を手に取った。
「仕事が終わったら、会ってくれる?」
「お断りします」
にべもない返しに、言った方が胸を痛めた。
玲丞は哀しげに目を伏せ、再び深い溜め息を吐くと、おもむろに伝票ホルダーをワゴンに戻した。
「サインはそのときにするよ」
交換条件を出すなど彼らしくもない。
多恵はムッと玲丞を睨むと、ものも言わずに一礼してさっさとワゴンを押した。
「多恵──」
多恵の肩がビクリと震え、足が止まった。
「何時になっても構わないから。……待ってる」
〝多恵〞
その名で呼ぶのは、今はこの世に一人しかいない。
多恵は、運搬用エレベーターに乗り込むと、どっと脱力したように壁にもたれかかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます