人形流し

鹿条一間

ひなまつり

 「え、どういうこと……? 単身赴任だから大丈夫って言ったじゃん……」


「ごめんな、都合が変わって、引っ越さなきゃいけなくなったんだ」


階段から転げ落ちるように、積み上げてきたものが崩れていく。


「でも大丈夫、みやびなら新しい学校でもすぐに友達ができるよ」


「そういうことじゃないもん……」


3月3日、ひなまつりの夜。


「お父さんの嘘つきっ!」


雅は子供部屋に立て籠もり、両親も弟も閉め出した。


 彼女は扉に背を預け、膝を抱えて泣いていた。もうすぐ学校を卒業したら、私は独りぼっちになる。仲の良かった友達はみんな同じ中学に行くのに、私だけが置いてけぼり。


 空っぽの心。


 涙を絞り出したらとうとう何も無くなって、彼女は微睡まどろみの中へ沈んでいった。


 「おいでよ」


夢か現か、頭に響く声が聞こえる。


「無理に大人にならなくていいんだ。此所ここに留まっていたいなら、おいで。雛壇の一番上に登るだけでいいんだ。此方こちら側へ来られるよ」


それは優しく、柔らかく、彼女を誘う誰かの声。雅を求める声。


 はっと目が覚めた時、彼女の目の前には慣れ親しんだ雛人形が並んでいた。


 七段まである立派なお雛様。お母さんのお母さんから受け継いだもので、三月になると雅の自慢の種だった。友達を家に呼ぶと、必ず凄いと言って褒めてくれる。羨ましがられることもあった。


 この家に女の子は雅だけ。彼女のためだけに、お父さんは腰が痛いと言いながら笑ってお雛様を出してくれる。それが嬉しくて、雅はひなまつりが大好きだった。


 両親に裏切られた昨日までは。


 ごくりと唾を飲み込んで、彼女は雛壇の一段目に足をかけた。ほんの出来心だ。あの声が現実に聞こえたと信じているわけではない。でも、少し試してみるぐらい、誰も咎めはしないだろう。だって、自分はこんなに可哀想で、理不尽な目に遭っていて、無理やり友達と引き離されそうになっているのだから。


 お雛様は、扇を口の前にかざし、不敵な笑みを浮かべて雅を見下げている。


 遂に雅の手が最上段にかかり、人形と目が合う。


 お雛様の背後の壁には、ぽっかりと穴が空いていた。こんなもの、昨日まではなかったはずだ。覗き込むと、どこかの河原の風景が見える。咲き乱れる真っ赤な桜、橙色の空、澄んだ水に浮かぶ白い紙切れ。


 あまりの美しさに見蕩れ、雅は思わず身を乗り出し、風景の中に手を差――。


「――何してるの?」


一瞬、血流が逆になって心臓を押し潰したかと思った。バクバクと痛む心臓を押さえて振り返ると、弟のまさるが立っていた。鍵を掛けておいたはずなのに、子供部屋の中に。


「ちょっと、なんで勝手に入って来てんの」

「勝手にって……別に、姉ちゃんだけの部屋じゃないんだけど。俺のランドセルここにあるし」

「ノックぐらいして。ていうか、どうやって入ったの?」

「この部屋の鍵、十円玉で開く仕組みって知らないの?」


まだ小学四年生のくせに、私よりちょっと頭が良いからって調子に乗って……。弟まで私を馬鹿にするの? 面白くない。面白くない。面白くない。


「あんたは嫌じゃないの、転校なんて」

「別にぃ。そうそう、新しい小学校はさ、グラウンドが今より一回り大きいんだって。一学年の人数も倍だしさ、むしろラッキーかも」

「……あっそ」


優は、まだ六年生じゃないから分からないんだ。私の悲しさも、寂しさも。私のことを理解してくれるのは、友達だけだ。弟に話しても、両親に話しても、無駄だ。


 引っ越すことを友達に告げると、中には泣いてくれる子もいた。離ればなれになっても連絡できるようにと、親の電話番号を教えてくれる子もいた。卒業式の後にお別れ会をしよう、と提案してくれた。やっぱり、家族とは大違いだ。


 ここにいたい。卒業したくない。引っ越したくない。


 雅たちは一学年一クラス、ずっと一緒に六年間を過ごしてきた。そのうち半分は保育園も同じで、計九年の付き合いになる。九年だ。彼女はいま十二歳だから、人生の四分の三を共に生きた仲間たちと、ここで別れなければならない。しかも一人だけ。


 どうして。どうして。黒い濁流が、頭の中を渦巻いて離れない。


 どうして、私だけ。


 そして迎えた卒業式当日。色とりどりの着物を纏った卒業生たちが、続々と体育館へ吸い込まれていく。自分の番が近付くと、緊張と別れの苦しみで既に泣きそうになっていた。しかしその時は訪れる。川の流れのように粛々と、一方向に淀みなく。


 その列の中で、雅は見た。


 卒業生が立つ段の一番上、卒業証書を受け取るところに、あろうことか、お内裏様とお雛様がちょこんと佇んでいるのである。


 彼女はぞっとして立ち止まりそうになったが、なんとか行進を続けた。周りは誰も気付いていないようだ。


 どころか、いつのまにか、先生方が大きな紙人形に変わっている。陰陽師が使う式神のようなものが、ヒラヒラと手を叩いて拍手をしている。


 保護者席も同じだった。全員のっぺらぼうなので、もうどれが雅の両親か判別もつかない。


 在校生も紙人形だった。白い紙が整然と並びうごめくさまは不気味で、この世のものとは思えない。


 気付けば、隣を歩くクラスメイトも、前を歩く友人も、後ろからついてくる仲良しも、誰も彼も白い紙人形に変わっていた。


 「おいで。昔に戻りたいのなら、おいで」


 あの声だ。


 雅は一目散に駆け出した。


 叫びたくなるような恐怖を振り切って、階段を飛ばしながら上がり、そのまま、例の河原の風景に手を伸ばした。


 「雅ちゃん!」


 後ろから呼び止める声が聞こえた気もしたが、もう手遅れだ。彼女は水の中に突っ伏して、やがて――深い眠りに落ちていった。


 夢の中で、彼女は歳をとらなかった。いつまでも古臭い校舎の教室で、仲良しグループと駄弁っていた。狭いグラウンドの中心で、優がボールを蹴っている。その様子を窓から眺めて、やんちゃだなぁと姉らしくクスクス笑ってみる。


 その笑い方がお雛様に似ていたから、かどうか知らないが、ふと妙な記憶が頭をよぎった。彼女は既に、卒業式を終えたような気がするのだ。友達が着ていた着物も、別の友達が着ていたスーツも、何となくだが思い出せる。


 あれ、私って、ここに居て良いんだっけ?


 そんな疑問が浮かんだ瞬間、身体が鉛のように重たくなった。いや、重い何かが纏わり付いているのだ。未精製の石油のようにベトベトした、てらてらした、これは、泥。


 雅はあの河原に居た。でも、白い人形が流れる清流とは別の場所。


 黒い人形が滞って溜まっている、沼のような場所。


 彼女は明るい方へ手を伸ばすけれど、その手はドロドロとしたものに覆われ、うまく持ち上げることができない。だんだん力が抜けてきたと思ったら、肩の先が徐々に紙切れになりつつあることを悟る。


 白く清らかで、すいすい流れていくあの人形ひとがたとは大違い。

 黒く穢らわしく、淀むだけの紙人形。


 濁って霞む視界から、微かに清流の行く先が見えた。


 雅をそのまま大きくしたような女性が、男性と手を繋いで楽しそうに歩いている。別の集団と合流したかと思えば、再会の握手を交わし、時には抱き合って喜んでいる。


 私が捨てた幸せ。もう永遠に届かない場所。


 手で口を覆って笑う彼女の横顔は、どこか、あのお雛様に似ているように見えた。

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人形流し 鹿条一間 @rokujo-hitoma

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