第18話 陽菜の初恋の人


 結局、マンションに帰り着くまで、二人の間に会話はなかった。

 ただつながった指先は掴む力が強くなることも弱くなることもなく、自然と絡まっていた。

 夜の風が頬を撫で、街灯の淡い光が二人の影を伸ばしていく。通り過ぎる車のエンジン音と、自分たちの息遣いだけが繋がった手を通して伝わる。


(私に会いに行かなかったことが、間違いだった?)


 早矢の頭の中では、さきほどの陽菜の言葉がずっと頭の片隅を占めていた。

 どういう意味なのか。自分が知らない内に何かしてしまったのか。

 何もわからない。昔は陽菜のことはすべてわかったのに。早矢は時の流れを噛みしめるように口を結んだ。


「ただいま戻りました」

「ただいま」


 お互いにそれだけを言って、玄関をくぐる。

 陽菜は中に入るとぱっと手を離し、一人リビングへ進んでいく。その背中を眺めながら、早矢は時間を稼ぐように靴を脱いだ。

 玄関にはリビングから紅茶の香りがほのかに漂い、混乱している早矢の心をを和らげる。


「おかえりなさい。まるで、中学校のときに戻ったみたいね」


 陽菜に沙羅ちゃんを渡したのか、陽菜ママが早矢を迎えに来てくれる。

 柔らかな声に早矢はへらりと口元を緩めた。これは愛想笑いに近い。どうしてよいか分からないので、とりあえず笑顔を見せるしかなかった。


「戻りました。すみません、沙羅ちゃんのこと任せきりにしちゃって」

「いいのよ、私の孫だし、むしろ早矢ちゃんが謝る必要はないでしょ」


 おかしそうに陽菜ママが笑う。確かに、そうだ。事実関係だけを考えればそうなのだけれど、早矢にとっては陽菜の子供は、もはや自分の子供のような気がしていた。


「陽菜泣いてたわね」

「すみません、泣かせちゃって」


 やはり、わかったか。早矢は申し訳なさに視線を落とす。

 冷たいフローリングのはずだが暖房で少し温まり、足の裏からじんわりと暖かさが伝わる。

 陽菜は泣き止んでしばらくは経っていた。チラチラと横顔を確認したから間違いない。だけれど、顔を見れば涙の残滓はまるわかりだろう。特に母親にとっては。


「いいの、いいの。あの子、滅多に泣かないし」


 早矢の前で陽菜ママは穏やかに笑う。ぱたぱたと小さく手を振る姿は、早矢を気遣っているのだろうけれど、違和感があった。

 早矢は思わず聞き返す。


「え、陽菜は泣き虫ですよね」


 早矢の言葉に陽菜ママは一瞬きょとんとしたあと、くすりと笑い、肩をすくめた。


「あー、早矢ちゃん以外のことで、って付けたほうがいいわね。陽菜は早矢ちゃんが思うほど弱い子じゃないし、思ったよりしっかりしてるわよ」


 くすくすと笑う姿は母親の実感に満ちていた。

 知らなかった事実が早矢の胸に軽く刺さる。もしかして、私は思ったより陽菜のことを知らないのではないか。そんな疑問さえ沸き上がった。

 リビングからは陽菜が戻って嬉しいのか、沙羅ちゃんのの楽しそうな笑い声が漏れてくる。


「そう、ですよね。結婚も出産もしてるんだから」


 早矢が甘やかすから、陽菜は泣くのだろうか。陽菜のために色々してきたのが、逆に良くなかったのか。

 社会的に陽菜は結婚も出産もしている一人前の大人だ。両方、未経験の早矢が口を出せることは、もうないのかもしれない。

 自嘲するように呟くと、喉の奥が苦しくなった。自分の人生と陽菜の人生が、一瞬で離れてしまった気がして息が詰まる。


「……まぁ、それが良かったのか悪かったのかは、分からないんだけどね」


 早矢の反応に反して、陽菜ママはの視線は微かに揺れた。口調が控えめになり、何とも言えない影が差す。

 それは結局、人生の正解なんてないと言っているようにも感じられた。


「あの、陽菜の旦那さんって、どんな人なんですか?」

「陽菜から聞いてない?」


 静かな問い返しに、早矢は小さく首を振る。

 陽菜から聞いた情報と、周りの人から見た情報はきっと違う。今はできるだけ、自分の知らない陽菜について聞いておきたかった。


「事務所の社長ってことと、沙羅ちゃんのこととか……離婚したいのはワンオペだったからとしか」

「まぁ、間違いじゃないけど……早矢ちゃん、一回、陽菜と話してあげて?」

「はい、もちろん、そうしますが」


 早矢といる陽菜は、どうにもそれ以外と違うらしい。それはモデルのhinaが早矢にとって違う人に思えたように、早矢以外の人にとって、早矢といる陽菜と早矢といない陽菜は違うようだ。

 陽菜よりさらに色素の薄い茶色の瞳が、早矢をじっと見る。それはどう伝えていいか迷っているようだった。


「あの子ね、初恋を引きずってるの」

「初恋……?」


 早矢の頭はその単語に叩かれたような衝撃を受ける。

 初恋、ファーストラブ、初めての好きな人。そんな人が、陽菜にいたのさえ、早矢は知らなかった。

 あんなに一緒にいたのに。早矢は頭の中がふわりと浮遊したような感覚になる。


「そ、その初恋の人とおんなじ事を言ってくれるから今の旦那さんと結婚したんだって」

「そんな人が、陽菜に?」


 早矢もその言葉を言えば、陽菜と結婚できたのか。動揺した頭が、性別を軽く忘れさせる。

 脳裏に次々と陽菜の姿が浮かび上がる。幼稚園、小学校、中学、高校、そして離れてしまったあとのhina。

 どこで彼女に初恋がもたらされたのか。やはり知らない陽菜がいることに早矢の心が疼いた。


「意外だった?」

「そうですね。陽菜のことは大抵、知っていると思ったので」

「間違いじゃないわ。ただ、どれだけ知っていると思っても、知らない面があるのが人間で……きっと、早矢ちゃんしか陽菜にできないこともある」


 その言葉が優しく、そして真剣に早矢にしみ込んでいく。

 陽菜ママはいつも早矢と陽菜を優しく見守ってくれた。たまにしかいなくても、いや、いないからこそ見えるものもあるのだろう。

 結婚、結婚とうるさい自分の母親に聞かせてやりたい。

 陽菜ママの微笑みはまるで聖母のようで、静かに早矢を包み込む。


「私にできることなら頑張ります」

「ええ、お願いね」


 リビングから沙羅ちゃんと陽菜の笑い声が重なって聞こえてきた。

 早矢はその暖かな響きに心がじわりと解けていくのを感じ、静かに拳を握りしめた。

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