第4話 陽菜の10年と早矢の事情

 

 設定温度を上げただけあって、エアコンの温風はあっという間に部屋を暖めてくれた。

 リビングのテーブルには、湯気の立つココアとお茶があり、早矢の淹れたココアの甘い香りが、ふわりと漂っていた。

 そのココアを両手で持って口をつける陽菜は満点可愛い。もこもこしたセーターから華奢な指先が見えた。


(なんで、こうなったのか)


 自問自答したところで答えは出ない。

 早矢は陽菜とソファの上で寝ている沙羅ちゃんの様子を窺った。

 外からかすかに車のエンジン音が聞こえるくらい、部屋の中は静かで沙羅ちゃんの寝息さえ届く。

 陽菜がコップを置いたところで、早矢は口を開いた。


「離婚したいはわかるけど……どうしてうちに来たの?」

「離婚したいはわかるんだ?」


 陽菜が小さく笑う。離婚する本人だと言うのに、陽菜の笑顔にはあまり影がない。

 早矢をからかうように聞き返す幼馴染に、早矢は片眉を上げた。


「そりゃ、世の中これだけ離婚に満ち溢れてるんだから、驚かないでしょ。芸能界にいる幼馴染が、いきなり家に来る方がよっぽど驚くよ」


 離婚も、内縁も、不倫も、結局は当人同士の関係だ。他人がとやかく言うことはできない。

 とくに陽菜が離婚したいというなら、早矢はもう陽菜の側に立って支えるだけ。だから、早矢が気になるのは、なんで陽菜が今更関係の遠くなっていた幼馴染を訪ねたかだけだった。

 早矢の説明に陽菜はくすっと笑った。


「早矢ちゃんは、そういう人だよね」


 カップを両手で包むように持ちながら、陽菜がぽつりと呟く。

 ココアの湯気が、彼女の伏せがちな瞳をかすかに曇らせる。

 陽菜の言う〝そういう人〟がどういう人なのか、早矢にはとんと想像がつかなかった。ただ、悪い意味じゃないと良いなとだけ思った。


「高校から東京に来たじゃん」

「あー……大泣きだったね。陽菜は」


 早矢は陽菜が東京に行く時のことを思い出しながら苦笑した。

 駅まで行くと絶対離れがたくなると家の前で見送った。それでも陽菜は大泣きだったし、早矢もずっと胸を針で突かれているような痛みがあった。

 二個下だった陽菜は、中学卒業と同時に上京した。スカウトされた芸能事務所に所属し、事務所の寮に入りながら高校に通うことになったのだ。


「早矢ちゃんと同じ高校に行けるとは思ってなかったけど、まさか住む場所も変わるなんて思ってなかったから」


 陽菜が頬に手を置き支えるとを少し顔を横に逸らす。その横顔が子供の時のまんま、拗ねているように見えて早矢は小さく笑いを漏らした。

 こんなちょっとした事で胸の中に甘みが出てきてしまう自分に、どうしてよいか分からなかった。


「私も東京行くからって慰めたんだっけ?」

「そう! 志望大学は東京だからすぐ会えるって……一回も会いに来てくれなかったけど」


 陽菜が不満そうに頬を膨らませる。

 会いに行ける訳ないじゃない――早矢は胸の中で溢す。どうして、芸能界に入った幼馴染を追いかけられるというのか。

 元々、陽菜はすごく可愛かったから、いつかいなくなると思っていた。手放す覚悟はしていた。そのはずだった。


「それは……ごめん」


 結局、この年まで引きずったまま。早矢はお茶のコップを見ながら、小さく謝った。

 陽菜が東京へ出たばかりの頃は、まだ連絡を取り合っていた。 だけど、早矢が大学に入った頃にはすっかり疎遠になっていた。

 モデルとして見かけるようになった陽菜の知り合いだなんて言えなかった。というより、会いに行って迷惑そうな顔をされる可能性を考えただけで怖かった。

 結局は、逃げた。それに尽きる。後ろめたさに乾いた口調になった。


「そんな頼れるかもわからない幼馴染じゃなくても、知り合いはいっぱいいるでしょ?」

「こっちに来てからの知り合いは、ほとんど関係者だから……すぐ旦那にばれちゃうんだよね」


 小さく息を吐きながら、陽菜はココアのカップを撫でるように指でなぞる。

 東京に出たのが、事務所に所属するためなのだから、知り合いや友人も同じ業界の人になるわけだ。


「なるほど」


 早矢は頷きながら、お茶を口に運ぶ。ふと、陽菜の旦那さんが誰か知らないことに気づく。

 芸能界関係者に逃げるとばれるということは、きっと芸能関係の仕事をしている人なのだろうと想像した。

 陽菜が結婚したという事実だけで、早矢にはお腹いっぱいで、相手のことなど知りたくもなかったからだ。


「陽菜の旦那さんって、誰?」


 純粋な疑問と、少しの興味。それを陽菜の事情を聴くと言う言い訳でコーティングする。

 早矢が少し首を傾げると陽菜は眉間にシワを寄せた。


「……うちの事務所の社長」

「え、そうなの?!」


 予想の斜め上を来る答えに声が大きくなる。同じモデルさんとかスタッフさんかと思ったら、社長と来たか。

 陽菜くらい可愛かったら、社長でも問題なく付き合えるだろうけど。確かに、知り合いには逃げづらいだろう。

 驚きのあまり、湯飲みに添えていた手がぶつかり、お茶の表面が波紋を描く。


「そう、だからこっち来てからの知り合いには頼れなくて」

「社長さんじゃなぁ」


 陽菜が力なく笑う。と、半ば呆然としていた早矢を見て、陽菜は唇を尖らせた。

 どうやら知らなかったことが不満だったらしい。


「ニュースにもなったし、早矢ちゃんのお母さんにも伝えたよ?」

「実家帰らないし、仕事忙しくてさ。陽菜が元気にしてるのはわかったし」


 ニュースはほぼ見ない。陽菜のことは確認しても、ショックを受けそうなものは飛ばした。

 母親との会話も同じ。陽菜が無事でいてくれるなら良かったし、この頃は結婚話をされることが多くて短い会話しかしていない。


「とにかく、旦那にバレない知り合いってなると早矢ちゃんしか思い浮かばなかったの」

「なんと、まぁ……」


 何と言っていいか分からなかった。

 お茶をすすりながら、早矢はため息をつく。事情は分かったが、断る理由までなくなってしまった。

 酔いが完全に醒めてきたのもあって、頭がずきずきと痛む。


「だから、お願い。しばらく、ここにいさせてくれないかな?」


 陽菜がそっと早矢を見上げる。

 うるうるとした瞳。 少しだけ唇を噛んで、不安そうな顔。


(……ずるい)


 小さい頃から早矢は陽菜に弱かった。激甘だった。その自覚はある。

 だから、陽菜がこの顔をする意味も十分理解していた。

 この顔をした陽菜から早矢は逃れられたことがない。


「……はぁ」


 早矢は頭を掻きながら、大きく息を吐いた。

 まとまらない考えを振り払うように、スマホを見ると、もう12時を過ぎていた。

 いい加減寝なければ明日の仕事に響く。それに、今から追い出せるわけもない。

 早矢は自分のお茶を飲み切ると、ソファから立ち上がる。陽菜の不安そうな視線が背中に突き刺さっている気がした。そのまま、寝室の方の扉を開けた。


「もう遅いから、今日は寝よう。明日、仕事から帰ってきたら、もう一回詳しく聞くから」

「ありがとう、早矢ちゃん!」


 ぱっと表情を明るくして、陽菜が飛びつくように抱きついてくる。

 久しぶりの抱擁は昔と違って大人の女性の香りがした。

 どうにか抱き留めれたことにほっとする。


「……はいはい」


 にやけそうになる頬を誤魔化すように、陽菜の背中を軽く叩く。

 ソファの上では沙羅ちゃんが穏やかに寝ていた。丸いほっぺた。目を閉じててもわかる、ぱっちりとした二重。はっきりした眉。

 小さい頃の陽菜にそっくりなことに、嬉しいような悲しいような複雑な気持ちになる。

 だけど、今はただ、陽菜がいることを喜びたかった。

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