第2話 十年ぶりの幼馴染
冷たい夜風が、早矢の頬をかすめた。酔いの回った体には心地よいような、けれどどこか現実に引き戻されるような感覚だった。
繁華街の喧騒から少し離れたマンションのエントランスは静かで、街灯の光だけがぼんやりと地面を照らしている。
「……飲みすぎたかな」
千鳥足でふらつきながら、マンションのエントランスへ向かう。玄関の自動ドアが静かに開き、少し遅れて閉まる音が響いた。
エレベーターホールには誰もいない。壁にかかったミラーに映る自分の姿が、少しぼやけて見える。
「あー……ジェイさん、冷たいわ」
呟きながら、エレベーターのボタンを押す。数字が順に変わっていくのを眺めながら、陽菜のことが頭に浮かんだ。
最後に会ったのは、陽菜が東京に行くとき。
最後に連絡をしたのは、無事東京の大学に受かったとき。
モデルとして目にするようになってからは、連絡するのが怖くなった。
モデルとしても結婚のニュースが最後――それももう三年前のことだった。
「結婚したんだっけ」
独り言のように呟く。
記憶の中の陽菜の笑顔とはかけ離れた話のように感じた。いや、遠くにしておきたかったのかもしれない。
エレベーターが到着し、扉が開く。
足を踏み出そうとした瞬間、肩が扉の端にぶつかった。酔いのせいで足元が覚束ない。
まぁ、部屋まではもう少しだ。どうにかなる。嫌なことを忘れて寝れそう……そう思った時だった。
「……あれ?」
「早矢ちゃん!」
弾むような声が、エントランスの静寂を破った。
その声と名前の呼び方を忘れるわけもない。
「……へ?」
早矢が顔を上げると、帽子を目深に被った女性が扉の前から背を離し早矢を見ていた。
手元にはベビーカー。しかも中にはしっかり毛布がかかっている。
何が起きているの呆然としていると、その人影は帽子のつばをあげ、早矢を覗き込む。
「ほんとに、早矢ちゃんだぁ……久しぶり。元気だった?」
声を聞いても、照れたような笑顔を見ても、すぐには信じられなかった。
今、陽菜がいる現実より、酔っ払って夢を見ているの方が真実味が高かった。
だけど。
「……陽菜?」
名前を呼べば、小さい子のようにコクコクと何度も頷く。
目の前にいるのは間違いなく、あの陽菜だった。
「えっと……陽菜、ひさしぶり? どうしたの?」
なんて間抜けな言葉。これが十年ぶりで会う幼馴染に言うことか。
まさか、こんな時間に、こんな形で再会するなんて思わなかった。
言い訳させてもらうなら、そう言いたい。ここで、カッコよく「ずっと会いたかったよ」とか言えれば、早矢の今は変わっていたのかもしれない。
陽菜は早矢の言葉に、少しだけ眉を下げた。
「……あのね、早矢ちゃんの家にあたしと沙羅を泊めて欲しいの」
私の家に、陽菜を、泊める。
その意味が理解できたとき、早矢の頭からアルコールがすっと引いていった。
(どういうこと?)
少しでも情報を得ようと陽菜を観察する。
見た目は綺麗。元々色素の薄い髪の毛は、染めてなくてもこげ茶に近い色をしていた。肌も相変わらず抜けるような白だ。
怪我もない。痩せてる様子もない……前見た時より、さらに綺麗になっている気はしたけれど。
ぱっと見、健康状態に問題はなさそうだった。
気になるのは、大荷物をつけたベビーカー。確実に、これが止めて欲しい理由だろう。
「え、約束とかしてないよね。というか、沙羅って?」
「この子」
陽菜がそっとベビーカーのフードを少し上げる。
すやすやと眠る小さな顔が、かすかな街灯の光に照らされていた。
(……二歳くらい?)
赤ちゃんよりは大きい。だけど、子供と言ってしまうのも困るくらいの年齢。
ふわふわの茶色い毛に、もちもちしてそうな頬っぺた。
陽菜そっくり。聞くまでもなく、陽菜の娘だろう。
ベビーカーに積まれた荷物の多さに、早矢は一目で「長期戦」を覚悟した。
「まだ小さいじゃん。なんでこんな時間に外にいるの?」
混乱した頭が口から出したのは、そんな言葉だった。
陽菜は早矢をちらりと見上げ、少しだけ唇を尖らせる。
「寒くないように準備はしたんだけど……」
「寒くないようにって言ってもさ」
陽菜が困ったように目を伏せる。
その肩がかすかに震えているのに気づき、早矢は口を噤んだ。
何を言っているんだか。そういう問題じゃないだろう。
早矢は自分の回らない頭をイラつきのままかき乱し聞く。
「ちょっと待って、まず、どういうこと?」
混乱する頭を整理しようとするも、そう事態はうまくいかない。
陽菜がいる。しかも子連れで。それだけで情報量は多いのに、酔いが邪魔をして、中々考えがまとまらない。
「あたし、離婚するから家出てきた」
「離婚?」
「旦那にばれるとまずくて……」
陽菜が深々と頭を下げる。その勢いの良さに、早矢は目を丸くした。
「行く場所ないから、早矢ちゃんの所にいさせて下さい」
「……はい?」
思わず間抜けな声が出た。
矢継ぎ早な言葉の中で、早矢が理解できる部分はほとんどなかった。
十年以上会っていない幼馴染を頼る理由なんて、ろくなものじゃないだろうが、それにしてもこれはないだろう。と神様を恨む。
この夜の静けさの中で、彼女の言葉だけが鮮明に早矢に刻まれていく。
(離婚? 家出? 旦那にばれるとまずい?)
頭の中で疑問が渦巻く。
沙羅はそんな大人たちの事情など関係ないように、ベビーカーの中で無防備な寝顔を見せていた。
「えーと、まずは陽菜なんで――」
もう少し話を聞かなければ、そう思った時だった。エレベーターが到着する音が響く。
「……っ」
陽菜の体がピクリと強張った。
早矢ははっとして、エレベーターの方を見る。
普通に陽菜がいたから、忘れていたけれど、この幼馴染は芸能人のくくりに入る。こんな所で立ち話をしているのは、まずいだろう。
陽菜の表情を窺えば、先ほどまでとは違う硬さがあった。まるで何かに怯えているように見えて、早矢は唇を噛みしめる。
(……旦那から逃げてるってこと?)
早矢はエレベーターから玄関の入口、陽菜、ベビーカーに乗る沙羅と順に見渡す。
ここで陽菜を帰すことが、一番面倒じゃない選択だろう。早矢は何も知らなかった振りで、明日を過ごすことができる。
だけど——それができるなら、早矢はとっくに恋人と長続きできるようになっているはずなのだ。
早矢は小さくため息をついた。
「……入って。とりあえず、中で話を聞くから」
「ありがとう、早矢ちゃん!」
陽菜がぱっと表情を輝かせる。
子供の頃と変わらない、眩しいほどの笑顔。
早矢は昔からどうしても、それに弱いのだった。
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