第3話

──コンコン。


 部屋のドアをノックする音が聞こえたが私は狸寝入りを続けていた。


「フェリー? 寝ているのか?」


 前世・今世を通して聞き慣れた声に心臓がドキッと跳ねる。前世の記憶を思い出した私としては声だけでも妊娠してしまいそうな(いや、実際妊娠してるんだけど)子宮に響く美声。目を閉じていても分かるミューゼ様の声だ。


 静かな室内に彼の足音が微かに聞こえ、明確に人の気配を感じているのだが、まだまだ現実逃避していたい私はひたすら目を閉じていた。


「フェリー……」


 ミューゼ様の大きな手が私の髪を撫でているのが分かる。


『前世の最推しであったミューゼ様に髪を撫でられている!』


 それよりももっと凄い事をしてしまっているのに、髪を撫でられている現実に飛び出てきそうな程心臓が高鳴っている。


「フェリー……起きているのだろう?」


「……」


「顔が真っ赤だ……可愛すぎだろう」


 彼の口から出てきた「可愛すぎ」という言葉が余りにも衝撃的で思わず目を開いた。あの雨の一夜でも可愛いとは言われなかった。


 未だかつて言われた事がなかった言葉の破壊力は半端なく、思わず目を開いてしまったのだが、そんな私をミューゼ様はとんでもなく優しい笑顔で見つめていた。


「おはよう、フェリー」


「……お、おはよう、ございます」


「体調はどうだ? どこか辛い所はないか?」


「大丈夫、です」


「ロマンナ侯爵から聞いた。フェリー、子が出来たんだって?」


 その言葉に浮かれていた感情が一気に引き戻された。


 それを感じ取ったのかミューゼ様は私の頬を撫でながら「怯えなくていい」と優しい笑みのまま私を見つめている。


「お腹が大きくなる前に式を挙げなければな……いや、俺達の子が生まれてから式を挙げた方がいいのか? 子供と一緒に式を挙げるなんて幸せ過ぎじゃないか? 取り敢えず書面だけでも揃えて一日も早く夫婦になって……」


「あ、あの、ミューゼ様?」


「あ、ああ、すまない、浮かれてしまって」


「浮か、れた?」


「あぁ。だって君のお腹の中には俺と君の子がいるのだろう? これが浮かれずにいられると思うか?」


「喜んで、くださるのですか?」


「当たり前だ。愛する君との子なのだから」


『そっか、今は愛されてるのか……』


 何ともいえない感情が胸に押し寄せる。


 そして同時に明日からスタートするであろうゲームの事が怖い。


 と思っていたのに私はそれから一週間学園を休む事になった。「念には念を」と言う両親とミューゼ様の強い希望で。


 倒れた翌日にはの彼がご両親と一緒に我が家に「この度は我が愚息が大変申し訳ない事を」と謝罪にやって来て、そのまま入籍の話になり、ミューゼ様が「入籍はなるべく早く! 式は出来れば産後に子供と共に行いたい」とそれは熱く語られ、余りのその勢いに周囲が唖然とする事態となった。


 彼の頭の中では式の内容もある程度出来上がっているようで、彼のお母様であるセナ様は「はぁ……この子、フェリーちゃんの事となるといつもこうなのよね」と苦笑し、「こういう所を見ると親子だと思うわね」とチラリと夫であるクリス様を見、見られたクリス様はいつもの仏頂面を真っ赤に染め慌てふためくというとても貴重な物まで見ることができた。


 後で聞いたのだが、ミューゼ様のご両親であるクリス様とセナ様は大恋愛の末の結婚だったようで


「あの仏頂面からは想像出来ないでしょうけどね、結婚式に向ける思い入れが凄すぎて『あれは誰だ?』って言われてしまう程の豹変ぶりだったのよ」


 とセナ様が笑っていた。


 こうして私達は妊娠発覚から三日後には夫婦となり、体の事を考えてという名目で私は学園に必要最低限のみ通う事となった。


 当初は中退して出産に備えて欲しいとのミューゼ様の要望が強かったのだが、あと半年ちょっとで卒業を迎えるし、今後どうなるか不安もあったから卒業だけはしたいと私が我儘を通したのだ。


 結婚式は私の出産後一年経ったら子供のお披露目も兼ねて行われる事が決まった。


「もしも式の時までに子供が歩けるようになっていたら二人で子供の手を引いて入場したい」

「我が子を抱いて入場するのもいいな」

「だけど子供が疲れてしまわないように十分考慮しなければ」

「あぁ、フェリーと我が子が一緒にいる姿を想像するだけで幸せ過ぎておかしくなりそうだ」


「あんた誰?」と言いそうになるのを堪えたのはいうまでもない。


 いつも無口で無表情だったミューゼ様とはまるで別人の彼の姿がそこにあった。


 ゲーム内でヒロインに向けていた表情とも全く違う、最早人格そのものが変わってしまったかのような変貌ぶり。


 私のまだ膨らんでもいないお腹に手を当てながらニコニコと幸せそうな笑顔を振りまくミューゼ様。


『本当に誰?』


 そして私が休んでいる間ミューゼ様も学園を休み、毎日我が家に足繁く通い、「早く一緒に暮らしたい。一緒に暮らそう」と言われ続けた結果、学園に復帰するその日の夜から私はランベスト家で夫婦として暮らす事まで決まってしまった。


 セナ様は


「出産するまでに母体には色々あるのだし、きっと住み慣れた家で出産を迎える方がフェリーちゃんにとっても安心出来るわ」


 と言ってくれたのだが、ミューゼ様が


「俺達はもう夫婦なんだ。一瞬たりとも離れていたくない」


 と、氷の貴公子のキャラは既に崩壊してしまったのか? と思う程の執着ぶりを発揮し


「フェリーを不安にさせたりなんかしない!だから一緒に暮らそう」


 と何度も何度も熱烈に口説かれた。


『何度も言いますが、本当に誰?』


 ゲーム内のミューゼは氷の貴公子といわれるだけあって中々好感度は上がらず、MAXに近い状態まで好感度が上がるとようやく笑顔を見せ始め、MAXになると溺愛ルートに突入するのだが、その溺愛ルートの時でさえも今のミューゼ様より表情は乏しいし、基本口数が異様に少ないキャラだった。


 ところがどっこい、今のミューゼ様はその時以上に表情豊かだし口数も多い。本当に誰? 状態。


『何が起きてるの? 子供が出来たから?』


 何か違うのかも……と思いつつ、まだヒロインと出会っていないからかも……とも思い、学園復帰の日が近付くにつれて気が重くなっていくのだった。

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