車中の女
六散人
【1】
気がつくと電車の中にいた。
車両の中に他の客の姿はなく、俺だけが長椅子の中央にぽつねんと座っていた。
記憶が曖昧だ。
曖昧と云うよりも、今以前の記憶がはっきりしない。
家を出たことは何となく憶えている。
街を歩いて駅に着いて。
しかし何故俺は電車に乗っているのだろう。
何処に向かっているのだろう。
そもそも俺は誰なんだろう。
そうだ。
俺の名前はオザワユウヤ、28歳。
職業は会社員、の筈だ。
そんなことを考えていると電車が停止し、扉が開いて女が一人乗って来た。
俺と同年代くらいの女だ。
その女は社内がガラガラに空いているにも拘らず、俺の真ん前の席に躊躇なく座った。
そして手にした物を前の床に置く。
それは少し
その容器には丸い蓋が乗っていて、紐で十字に固定されていた。
その蓋と容器の境目には、所々赤黒い染みがこびり付いている。
――あれは血痕じゃないのか?
その染みを見た俺は、直感的にそう思った。
何故そう思ったのかは分からないが、それは確信に近かった。
そう思った途端、容器から血の匂いが漂って来るのを感じた。
そしてよく見ると、微かに容器がカタカタと動いている。
何故だかすすり泣くような、か細い声まで聞こえてきたのだ。
「あれが気になるの?」
いつの間にか俺の隣に座った女が、俺の顔を覗き込んで訊いた。
容器は俺の前に置かれたままだ。
驚いた俺は、反射的に女から身を反らす。
そしてまじまじと女の顔を見た。
「気になるんでしょ?
蓋を開けて見てみれば?」
馴れ馴れしく言う女の顔には、確かに見覚えがあった。
しかし女が誰なのか、どうしても思い出せない。
女の顔に貼り付いた乾いた笑顔に恐怖を覚えた俺は、逃げ出すように席を立った。
そして丁度停車した電車の扉から、ホームに飛び出したのだった。
電車を降りたのは、何故だか俺の自宅の最寄り駅だった。
そのことを不審に思いつつも、俺は改札を抜けて帰路に就く。
自宅の2DKのアパートまでは、駅から歩いて10分程の距離だ。
駅から家まで帰る間中、俺は何度も振り向いて、電車の女が付いて来ていないかを確かめていた。
アパートに到着した俺は慌てて自室に駆け込むと、急いでドアロックを掛ける。
ホッと一息ついた俺が見まわすと室内は暗く、玄関には何故か旅行用の大きなキャリーバッグが置かれていた。
そして部屋の灯りを点けた俺の目に飛び込んできたのは、凄惨な光景だった。
部屋の壁中に赤黒い手形が幾つも付いていたのだ。
そして床には同じ色の足形が、無数に付けられていた。
その光景に絶句した俺は、ダイニングのテーブルの上を見て思わず悲鳴を上げそうになった。
そこには切り離された血まみれの手首と足首が、一対ずつ置かれていたからだ。
その時扉の外から、「ゴトリ」という音が聞こえてきた。
その音に驚いた俺は、ドアスコープに目を当てて外を見る。
ドアの外に人影はなかった。
俺は恐る恐るドアを開け、隙間から外の様子を確認する。
外にはやはり人影はなかったが、共用廊下に置かれた物を見た俺は、「あっ」と声を漏らした。
電車で会った女が持っていた、あの白い円筒形の容器だったからだ。
何故だか俺はその容器をそのまま放置することが出来ず、部屋の中に持ち込んでしまった。
壁や床の手形と足形は消えずに残っていたし、ダイニングテーブル上の手足も、玄関に置かれたキャリーバッグもそのままだった。
しかし俺は、玄関の上がり框に置いた容器のことが、気になって仕方がなかった。
俺の理性が警鐘を鳴らしているにも拘らず、おれはどうしても耐えられなくなって、十字に掛けられた紐を解いてしまった。
そっと蓋を開けると、突然容器が倒れて中から何かが転がり出て来た。
それは血塗れの首だった。
今日電車で会った、あの女の首だった。
その顔にはあの時と同じ、乾いた笑顔が貼り付いていた。
それを見た俺の咽から、部屋中を震わすような絶叫が迸り出たのだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます