第16話 誠実な愛

 アストリアが窓辺に座り、バイオリンの弦を丁寧に調整していると、軽いノック音が扉から聞こえた。


「どうぞ」


 彼女が振り向くと、ロイドが顔を出した。


「ちょっと入ってもいいか?」


 ロイドは少し気まずそうに尋ねた。


「ええ、もちろん。」


 アストリアは微笑みながら手を止めた。


 ロイドが部屋に入ると、手に小さな袋を持っていた。


「ほら、これ。一ヶ月分の給料だ。店主から預かって、代わりに持ってきた」


 アストリアは驚きつつ袋を受け取る。


「あ、ありがとうございます。でも、これって……」


「君の稼いだお金だ。堂々と、受け取っていいんだよ」


 ロイドは優しく言った。アストリアは袋をそっとテーブルの上に置き、ロイドを見上げる。


「いつもお世話になってばかりだから、私からもロイドさんに、何かお返ししたいですね」

「そんなこと、気にしなくていい」


 ロイドは椅子を引いて座り、肩をすくめた。


「私は、君が君らしく生きられるようになったら、それで十分なんだ」


 アストリアはしばらく考えた後、小さく笑った。


「じゃあ、何かを弾きましょうか?」

「私がリクエストするのか?」


 ロイドは少し眉を上げて尋ねた。


「ええ、ロイドさんが好きな曲を弾きますよ」


 アストリアは笑顔でバイオリンを手に取った。


「うーん、そうだな……」


 ロイドは腕を組んで考え込んだ。


「実はあまり音楽に詳しくないんだ。だから、君が好きな曲を弾いてくれないか?」


アストリアは少し考え込んだ。


「じゃあ、私が最近思い出した、昔の曲があります。楽譜はないんですけど、弾けそうな気がするので、弾いてみますね」


 そう言いながら、バイオリンを持ち上げた。


 アストリアが弓を弦にあて、一音目を奏でると、部屋の中に柔らかい音色が広がった。ロイドは腕を組んだまま、じっとそれを聞いていた。聞いたこともない曲だったが、演奏が進むにつれて、アストリアの表情が自然と穏やかになり、心から楽しんでいる様子がロイドにも伝わってきた。


 演奏を終えたアストリアは、ロイドに視線を向ける。


「どうでしたか?」

 

 ロイドはしばらく無言のまま座り続けたが、やがて口を開いた。


「……すごくいい曲だな。君が弾くと、本当に心に元気が湧いてくるよ」


「本当ですか?それならよかった」


アストリアはホッとしたように微笑んだ。


「これからもずっと毎日、私のために弾いてほしいくらいだよ」


 ロイドは冗談っぽく言いながらも、その言葉にはどこか本心が混じっていた。


「そう言われると、少し照れちゃいますね」


 アストリアは頬を赤らめながら答えた。


「君の演奏を聞くと、明日はきっといい日になる、そんな気分になれるからね」


 ロイドは素直な口調で続けた。


「じゃあ、これからもずっと、リクエストしてくださいね」


 アストリアは、ほんの少し大胆に言った。


「そうだな。頼むよ、アスタ先生。」


 ロイドがわざと敬称を付けて茶化すと、アストリアは笑いをこらえ切れなかった。


「先生だなんて。もう、ロイドさんってば……」


 笑うアストリアを見て、ロイドは照れくさように鼻を触りながら、視線をそらした。


「まあ、なんだ……とにかくいい演奏だったよ。ありがとう」

「こちらこそ、聞いてくださってありがとうございました」


 アストリアは深くお辞儀をしながら答えた。


 次の日、酒場への道を二人は並んで歩いていた。アストリアが何気なく、道端の青い花を指差した。


「きれい。この花、なんて名前でしょうね?」

 

 ロイドは少し考え込んでから答えた。


「パンジーだな。どこにでもある花だよ」

「意外ですね、ロイドさんが花の名前に詳しいなんて」


 アストリアはクスクスと笑った。


「パンジーの花は、食べられるんだ。騎士は野営に備えて、食べられる野草や薬草のことだけは、意外と勉強してるんだぞ」

 

 ロイドが肩をすくめて答えると、アストリアは少し甘えた声で言った。


「じゃあ、今度ロイド先生に、パンジー料理を作ってもらおうかな」

「ははは、任せておきなさい。ちなみに、青いパンジーの花言葉は、『誠実な愛』だ。どこにでもあるものだが、果たしてアスタ先生のお口に合うかな」


 ロイドが冗談めかして言うと、アストリアはまた笑った。


 その日も酒場で演奏を終えたアストリアは、以前よりずっとリラックスした様子で客の声援を受け止めていた。演奏後、ロイドと目が合うと、彼に向かって自然に笑いかけた。


 ロイドはその笑顔を見て、少しだけ頬を緩める。アストリアの心が少しずつ開き始め、その生命の輝きが、だんだん強くなってきていることを彼も感じていた。彼女の笑顔を見ることが、いつしかロイドにとっても大切な喜びとなっていたのだった。

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