黄色い花の贈り物

蜜柑桜

ミモザの花から姫になる

 カーテンを開けたら、冴わたる青空が広がっていた。

 アルプス以南に位置するイタリア北部の三月初旬は、日本と大して変わらぬ気温なのに湿気がなくて肌寒い。しかし手が悴む冬も過ぎてこんな晴れた日なら、何かいいことが起きそうな予感が生まれてしまったのだ。

 そしてそんな予感は大抵、本当になる。


💐


 いつも寄るカフェの扉を開けたら、狭いカウンターの定席に先客がいた。

 その子は私のエスプレッソ・カップが置かれるべき位置で、ちょうど朝八時のいま、空から見下ろしている太陽みたいな明るさを振り撒いている。

Buonおは giornoよう。はい。今日は少しいい豆で」

 そう言って黄色のその子の横へ私のエスプレッソを置いた彼は、ソーサーの上にビスコッティを二つ添えた。いつもより一つ多い。

「どうしたの? この花」

「ミモザ? どうしてって今日は三月八日でしょう」

 そうかこの花はミモザだったか、と花の種類に疎い私は、このお客がいる理由をやっと理解した。ちょん、と小さな出迎えに指先で挨拶し、なるほどとエスプレッソをいただく。

「そういえば女性の日だっけ。イタリアではこんな風に始めるんだ?」

「タイミングは人それぞれだろうけど、僕が君に会うのはこの時間だから。花言葉の感謝を贈るよ」

 イタリアで仕事を始めてまだ一年足らず。反応が遅いのはどうか許してほしい。初めてのミモザの日なのだから。

「日本にも女の子の日、三月三日にあるよ。ひな祭りっていうの」

「ひな祭り?」

 たっぷりエスプレッソに浸したビスコッティを口に挟むと、齧る前にほろりと崩れた。

「この日は女の子がお姫様になるの」

「そりゃ……なんてことだ、もう過ぎちゃったじゃないか」

 途端に慌てる彼の様子は、お内裏様より右大臣か左大臣を想像してしまう。

 花瓶の可憐な主役を指でちょい、と揺らしてみる。小さな花がくれた大きな嬉しさに気恥ずかしくも頬が緩む。胸ポケットに挿した花びらでグレーのスーツを飾って、エスプレッソを大事に飲み干した。


💐


 カフェを出たら、北イタリアのパルマの街並みはいつもよりずっと明るく見えた。

 建物を塗る伝統的なパルマ・イエローは、直接の関係はなくてもここがマリア・テレジアの娘が住んだ街だと知らせ、母の偉大さを感じさせる。ミモザの色に似たテレジアン・イエロー、賢母たる女帝の好んだ色だ。

 彼女たちは苦しみながらも戦い、必死で生きたのだろう。


 冷たい空気を肺一杯に吸い込んで、青空の下に映える黄色を眺めて。

 その日は色んな場所でミモザの花言葉に出会った。

 職場の受付では警備員さんがミモザを花瓶に活けて出迎える。オフィスでは上司がミモザの描かれたポストカードを皆に一枚ずつプレゼントしてくれた。お昼を買うパネットリアでは店主のおばあちゃんが「いつもありがとうね」とパニーノのモッツァレッラを増量してくれて、休憩室では先輩がミモザの花びらを散らしたチョコレートをひと粒。

 その度に私の中で、固い結び目が解けていく。見つけにくい糸目みたいに隠れていたらしい移住以来の不安は、緩くなって素直に伸びて、しこりが消え行くようで。

 お礼を言うのに頭を下げたら胸元の黄色が目に入り、体が熱くなる。

 顔を上げる時こんなに晴れやかで胸一杯になるのは、ミモザだけのおかげかな。


💐


 イタリアに移住を決めたのは最近だけれど、彼との付き合いは長い。

 学生時代に留学した時、大学で出会ったのが最初。私が卒業後に外資の仕事を始め、仕事で滞在するたびに会うようになった。

 初めて会った頃から彼は叔父さんの営むお店のアルバイトをしていたし、会社勤めの今でも時々カウンターに立つのは変わらない。彼の淹れるエスプレッソはどんどん深みが増していって、バリスタと言ってもいい。

 ただ、とても美味しく感じるのは、腕が上がったおかげだけなのかな。

 頻繁に食事には誘われて、一緒に遠出をすることもある。彼との時間は心地よく、でも付き合おうとは言われていない。だからあと一歩踏み込めなくて、たまにエスプレッソが苦くなる。

 胸で小さな花弁が揺れる。

 それが目に映ると、やめときなさいと思ってもちょっと期待が膨らんでしまう。 


💐


 路地裏のカフェの軒先にランプがつくと、エスプレッソがワインへ変わるバールになる。古びた重い扉を開けたら、カウンターの定席に先客がいた。

 朝の令嬢は私の胸元。今度いたのは白ワインのグラスと——

「ごめん、すっかり遅くなってしまって」

 振り返った彼が眉を下げ、そこに置かれた小さな箱をスッと押す。

 真っ白な長方形の箱には眩しいミモザ色のリボン。「開けて」と促されて紐を解いて、さらに急かされ蓋を外す。

「三月三日から随分経っちゃったけれど、まだ間に合うかな」

 中から顔を出したのは、花冠を模した指輪だった。

 固まって動かない唇をどうにかこじ開けて、なんとか疑問を口にする。

「なんでって、女性がお姫様になるには、恋人からの贈り物が必要でしょ」

 だって私たち、付き合おうとも言っていない。

 私の困惑もよそに、驚いたのは彼の方だ。

「そんなイタリアじゃ告白なんて滅多に言わないよ。もう同じ気持ちだと思ってた」

 それとも嫌かと聞かれたら、答える前に泣き笑いするしかないじゃない。

 泣きっ面を隠そうと身を捩ったら、一日私を勇気づけたミモザがポケットからグラスにこぼれ落ちて、ほのかに淡い山吹色のワインを目が覚める彩りで満たしていく。

 代わりに彼が手をとって、私の指を花冠で飾る。

 マリッジ・リングはまた今度、と恥ずかしそうに笑いながら。

 

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