三月三日、放課後。

野村絽麻子

ひなまつり

 灯りをつけたら消えちゃった

 お花をあげたら枯れちゃった

 五人囃子が六人だ

 今日は何だかおかしいな



 その時、どうしてそんな子供っぽい替え歌を、けっこう普通の音量で歌ってしまったのか。もう全く思い出せないけれど、歌ってしまったのは言い逃れも出来ない事実で、よもやそれを誰かに聴かれてしまうだなんて思いもよらなかったのだ。

 だって、クラスメートがそれぞれ部活へと旅立って行ったもぬけの殻の放課後の教室ですよ。日直でもない限り、あんまり近寄る人はいないだろう。

 どうして私がそんな場に居たのかと言えば、それはつまり日直だったからである。日直で、通常は二人組で行うはずのもう一人の日直である男子は今日はお休みで、ついてないな~と思いつつも一人でそれなりにやり遂げているという状態だった。

 放課後までなんとか任務を遂行していたけれど、一瞬だけ部室に顔を出さなくちゃならなくて、そちらの用事を済ませて部室から引き返してきて、きっちりと残っていた板書を半分ほど消し終えて今に至る、のだ。

 しかも、である。


「なにそれ。中林さんってそういうキャラだっけ?」


 はわわ。

 はわわ、としか表記しようのない声がする。どこからってそれは私の口元からだ。

「つーか若干オカルトじゃん」と可笑しそうな顔で感想を述べるのはクラスメイトの高瀬くんで、彼の声をちゃんと聞いたのは実は初めてくらいかも知れない。意外にハスキーな声をしている。

 ほとんど親しくしたこともない彼にこんな幼稚な替え歌を聴かれるだなんて、正直、痛恨の極み。どうか流してくれないかな。そんな願いも虚しく、高瀬くんが教室に足を踏み入れた。

 動揺のあまり取り落とした黒板消しが足元にパスンと着地した。白煙があがって、上履きがチョークの粉に汚染される。最悪だ。

 あーあ、とあんまり困ってない感じの声をあげた高瀬くんはクラスの中じゃあまり目立つタイプの人ではない。けれど、例えば馬鹿な話題で盛り上がってる男子の集団から少しだけ外れたところで眼鏡の奥の目を細める感じで静かに笑っていたり、誰かの失言にそっと助け舟を出したり、他の男子に比べたらほんの少しだけ大人っぽく見えるというか、ちょっと雰囲気があるというか。

 つまりは、戯れに行われる人気投票なんかで三位以内には入らないけれど七位以内にはランクインするような、一部の目ざとい女子生徒の間では「いいよね」なんて具合に話題にのぼる、そんな種類の男子生徒だった。


「それ、動かない方がいいかも」

「っえ……」


 高瀬くんは小声で「ごめんね」と断ると素早く手を伸ばして私の足元から黒板消しを拾い上げた。それから、少しだけ考えてから教室の後ろにある道具箱を開けてガムテープを取り出してくる。それを輪っかに。


「はい」

「……はい?」

「取れるんじゃない、粉」


 あー、なるほど。ガムテの粘着を使って粉を吸着させれば、バンバン叩くよりも飛び散らないし、大げさにならないかも知れない。

 黄土色の輪っかの面を変えながら、靴下と上履きに付いたチョークの粉を回収していく。地味な作業だけど甲斐あってかなかなか綺麗に取れたみたいだ。その間、高瀬くんはもう一つある黒板消しを使って残りの板書を消してくれていて、申し訳ないやら有難いやらで非常に恐縮なのだった。


「あのう、何とお礼を申し上げて良いやら……」


 あらかた綺麗になったあたりで再び顔をあげると黒板はもう綺麗に消された後で、高瀬くんは隅に書いてある日付を粛々と更新している所だ。三月四日、と修正された日付はもちろん今日ではなくて明日のもの。


「誰かに言えば良かったのに」

「え?」

「日直の男子、休みだったんでしょう?」

「あぁ、でも、」


 すぐ終わるから、と続けようとした言葉は、けれど声になる前に飲み込まれた。高瀬くんがあまりにも優しく笑うので、その笑顔に、ドキリと心臓が跳ねてしまったのだ。


「次、そんなことあったら言ってよ。手伝うから、俺」

「あっ、うん、あの」

「いや、そこは気付かなくちゃダメだったか。まだまだだな、俺も」

「ありがとう、ございました」


 軽く頭を振って「じゃあ」と短い別れの挨拶をした高瀬くんが教室の戸をくぐる。

 ひょこりと顔だけ出して見送っていると、数メートル歩いた先でその背中が振り返った。ドキン、と再び鼓動が跳ね上がる。


「って、もうクラス替えじゃんね」

「……あ、だね」


 廊下の窓から斜めに入る西陽の中で、高瀬くんがふんわりと微笑んでゆるく手を振る。反射的に振り返しながら、その光景から目を逸らせない自分に気が付く。

 ドキン、ドキンと心臓が高鳴る。

 時々、少女漫画なんかに出てくる「胸を焦がす」とかって表現があるけれど、たしかにこのペースで鼓動が続いたら、あっという間にオーバーヒートしそう。それこそ、胸が焦げちゃうのかも。

 もう振り返ることもなく廊下を遠ざかる高瀬くんの後ろ姿。私が目を逸らせないのは、どうしてでしょう。


「……今日は何だか変ですよ……」


 自分でもちょっと聞いた事がないくらいの心細い声が出て、どうも妙に頬が熱いのだった。

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三月三日、放課後。 野村絽麻子 @an_and_coffee

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