ひなまつりの思い出
紗久間 馨
幸せな記憶
「今日、ひなまつりだね」
「そだね」
「テンション上がるわ」
高校生くらいの女子の会話が聞こえてくる。
とうに三十路を越えている
だが、今はどうだ。夜勤明けのくたくたな状態で電車に揺られている。今日がひなまつりであることなど忘れていた。
朝の光と若さがまぶしすぎる。
「そんなにテンション上がる?」
「上がるでしょ」
「なんでよ」
「春っぽい色がいっぱいでかわいい。おいしいものも食べれるし」
「ひな人形は?」
「あれは着物とかはきれいだけど、顔が怖い」
「顔が怖いとか、笑える」
「夜に見たことない? 本当に怖いんだって」
「ごめん。うちにひな人形ないから」
「そっか。なんかごめん」
「気にしないで。ママと一緒に描いたり作ったりするの、楽しかったから」
楽しげだった会話に物悲しさが漂う。
思い返すと、日向子の家のひなまつりは豪華な祝いの日だった。
一戸建ての広い和室に、七段のひな人形が飾られた。飾るのも片付けるのも大変だが、それもまた家族との幸せな記憶だ。
祖母の生けた桃の花。菱餅とひなあられの淡く美しい色。桜餅の葉の塩味。色とりどりの具がのったちらしずし。大人は白酒を、日向子は甘酒を飲んだ。
ずっと遠くの記憶がぽこぽこと浮かんでくる。
最後に帰省したのはいつだっただろうか。
「今日さ、桜餅とか買ってひなまつりパーティーしよ」
「いいね。そういう気分だわ」
「どっかで桜とか咲いてないかな?」
「まだ早いんじゃない?」
スマホで検索し始めたらしい彼女らは、一時的に静かになった。
電車内に次の到着駅を知らせるアナウンスが流れる。
「ここで降りるんだったけど、どうする?」
「とりあえず降りとこ」
「だね」
日向子に切なさを残して、彼女らは去っていった。
「もしもし。特に用はないんだけど、なんとなくね」
アパートに帰った日向子は母親に電話をかけた。
「ひな人形まだ飾ってるの? うん。写真送って」
今でも毎年、日向子のためにひな人形が飾られているという。
「次の連休は帰るから」
日向子は感謝の念を深くしながら、近くのスーパーで買った桜餅と甘酒を独りで味わった。
ひなまつりの思い出 紗久間 馨 @sakuma_kaoru
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