第3話 春の弥生
「いや〜、噂には聞いておりましたが本当に名前の無い名刺なんですね」
応接間に通され、お茶が出てきたところでわたしは会社の名刺を渡す。
黒地の紙の中央に『株式会社 回天堂』と白く書かれ、名前など個人の情報は書かれていない独特な名刺だ。
今の時代に名刺自体が珍しいのにそこには、驚かないのはやはり
「では私も久しぶりに」
老博士はそう言うと、懐のポケットから小さな名刺を取り出す。
両手で受け取ったわたしは名前を確認する。
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鳥乃光学研究所所長 博士
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その名前に違和感を感じた。
私設の研究所なのに研究所名と所長の苗字が一致していない。
「ああ、私は二代目でして、研究所名は初代所長の苗字からとられてますよ」
「えっ!?ああ、そうなんですか……」
わたしは思っていたことが顔に出ていたのかと少しあわてた。
こんなトコでポーカーフェイスが崩れるなんて、対人業務従事者としてはまだダメだってことになるから。
とりあえず、わたしは出されたお茶を一口飲んで落ち着くことにする。
出されたグラスには水滴が付いていて、中身がよく冷えていることが分かる。
わたしはそれを一口飲んだ。
渋みの中にほのかな甘み。
いい茶葉使っていてもなかなか出せない深い味わいだ。
「おいしい……」
小さくつぶやいたわたしの声が聞こえていたのだろう、比奈島博士はニコリと微笑んだ。
しかし、この部屋はなんとも居心地がいいなぁ。
こんなに居心地の良いところなら博士も住み込んでいるのがよくわかる。
だけど、ゆっくりとはしていられない。
今回は確認して最終的には
しかも時間制限付き。
「詳しいことは社からご連絡させていただいていますが、改めてご説明させて頂きます」
わたしは本題を切り出そうと話を切り出した。
「はい、トリノ
そう言うと比奈島博士はソファ横のレターボックスから厚めの封筒をレターボックスを取り出す。
「こちらに
話が早くて助かる、自分でレポートにまとめる必要があるので、まるっと資料を貸し出してくれるのはありがたい。
場合によっては要約が無意識な改竄になっているなんて珍しくないし、場合によっては政府への報告が発生する可能性もあるのだから内容はしっかりと自分の目で確かめたい。
「ところで……」
「んっ?」
わたしが封筒を開き軽く内容を確認していると、比奈島博士が口を開いた。
あまりに唐突なタイミングにわたしは素の声で回答してしまう。
あちゃー、下手したらこじれるぞ……。
「せっかくこんな辺鄙なところまでいらしたんだ、時期も丁度いいですしトリノ光臨の実物、見ていかれませんか?」
「いいんですか?もちろんお願いいたします!」
博士の思わぬ提案にわたしは一も二もなく飛びついた。
「分かりました、本日は天気も良いですし、観測日和ですよ」
ん?観測日和?
わたしの中でイヤな予感がよぎる。
別に命の危機とかそういうんじゃなく、社会的というか査定的な危機感……。
「お部屋をご用意致しますので、観測できるタイミングまでそこでお待ち下さい」
やっっぱりぃぃっっ!!
環境再現ですぐに見られるんじゃなくて、自然発生を待つやつーーー!!!
心の中でジタバタと暴れ倒すわたし。
時間に間に合わなかったらどうすんだよーー!
とは言え、ふと外を見れば日が傾き始めている。
時間的に今日中に会社へ戻るのは不可能かもしれない(本来の予定ではバスとかタクシーとか使えるつもりだったから)。
「では、お言葉に甘えさせていただきます」
表面は極めて平静を装い、わたしはそう言った。
ただ額を伝う一条の汗が隠しきれていない心情を表していたのかもしれない。
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