流し雛
葛西 秋
流し雛
ある時、和歌山の山村を訪れた。
たまたま大阪であった用事が短く済んで、これは良い機会とばかりにまだ乗ったことのないローカル線に乗ってみようと思ったのがきっかけだ。
どこかに行こうとか、何を見ようとか、そんな予定は皆無だった。ただ線路のガタゴトという振動に身を委ねて風情のある駅に降り、気ままな散策を楽しもう――。
確かそんな気持ちだったはずだ。
車窓には田園の光景がひろがり、三月になったばかりの春の陽はなだらかな紀伊の山肌に花々の気配を浮き上がらせていた。
思惑通りに適当なところで私は電車を降り、聞いたこともない無人駅のホームを出た。
人家はある。人影は無くても家屋の内や裏にうごめく人の気配はあった。
誰か地元の人に出会えば声を掛けて見どころなど名所を尋ねようと、私は気楽に歩き始めた。駅前から伸びる道を歩き始めて直ぐに水の流れる音が聞こえてきた。そちらに足を向けると小さな川がきらきらと畑の合間を流れている。
あまりにその反射がまぶしいので訝しく思い、流れの近くに寄ってみると川には指先程の小さな紙片がいくつか浮かび流れていた。
白い紙片、桃色の紙片。小川の水面だけでなく、小さな色紙それぞれが春の陽をちらちらと反射しながら流れてくる。
やがて藁船に乗って人形が流れてきたのを見て、私はようやく今日が三月三日で今見ているのが流し雛の行事であることに思い至った。目の前を流れていく人形は、紙の身体に赤や橙色のきれいな端切れ布を纏っていた。
――この流れの上流で、雛祭りが行われているのか
そう思って小川の流れを遡るように歩いてみたが、いっこうに祭りのような人が集まっている気配がない。小川沿いに踏み固められた小道の行く手は、やがて満開の梅林に遮られた。
紅白の花弁が青空の下に咲き誇り、甘くさわやかな梅の花の香りが辺りに漂っている。あれきり流し雛は一つも流れてこなかった。
――個人や家で行う流し雛だったか
身の穢れを人形に移して水に流し、祓う行事。江戸時代から人形は飾り物となり、毎年使い回すことが慣例となった。
――本来なら人形とともに流し去るはずだった穢れはいったいどうなってしまったのだろう。
梅林の日陰でそんなことを思うのも浮世離れした空気に浮かされてのことだったのかもしれない。春の散策を十分に楽しんだ私は満足した気持ちで帰路に着いた。
何ということもない日記のようなこの話には、後日譚のようなものがある。
まったく別の用事で和歌山の白浜という温泉地を訪れたときのことである。
景色が良いのでレンタカーで海辺の道路を走っていると、漁村の外れに小さな神社があるのが目に入った。
――青い空と海に揺蕩う漁船、松の木の下には小さな神社
良い写真が撮れそうだと車を止めた。かろうじて境内といえそうな小さな敷地に近づくと、そこには思ってもいないほど鮮やかな色彩が溢れていた。
赤や黄色、白や桃色。華やかな模様が染められた小さな布が張り巡らされた縄に結わえつけられている。このような布を結んで祈願する民俗は全国に多く見られる。昔から続く人の祈りの形に自然と私も手を合わせてお祈りをした。
写真を撮る前に、神社の脇に建てられている由緒書きに目を通してみるとこんなことが書かれていた。
御祭神 淡島大神
御由緒 新編風土記に神社の名は見えるが建立の年はあきらかならず
この神社にはむかしからきれいな布を結ぶ祈願の風習がある。布は漁網にかかっていたり、浜に打ち上がったものを使う。手に入れない場合は行人から買うこともあった。○○町教育委員会
和歌山の海を漂う小布。
もしかして、それは川に流された流し雛が纏っていた衣装なのではないのだろうか。
"大津辺に居る大船を舳解き放ち、艫解き放て大海原に押放つ事の如く、彼方の繁木が本を焼鎌の敏鎌を以て打掃う事の如く 遺る罪は不在と祓賜い清め賜う事を――"
古い祝詞の一節がふと頭の中をよぎる。
海に辿り着いた穢れは海原の彼方に運ばれて、海に清められた小布は陸に流れ着いて誰かの願いを引き受ける。思わぬところで人の祈りは結びついているのかもしれない。
山村の流し雛と、漁村の結び布と。
けれどこのことを私は公にしないことを決めた。もし本当に異なる二つの地の祈りがそのような形で関連していたとしたら、まったく関係のない第三者がそれを明らかにすることでどちらの祈りも壊してしまう可能性がある。
各地を訪れて書き綴った私のフィールドノートには、このような未公開の事例がいくつか並んでいる。
流し雛 葛西 秋 @gonnozui0123
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
同じコレクションの次の小説
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます