僕と彼女のカーニバル

ウゴクヨミヒル

プロローグ

プロローグ <1>

 高校生になっても、僕の日常はかわらなかった。

 家と学校を往復する、この単調な日々は終わらない。

 わかっていたけど、わからないふりをしたまま生きている。

 学生の本分をそれなりに守って、年齢相応の教養をそれなりに身につける。

 僕の無色透明な人生は、たぶんその営みによる副作用。

 友達はいない。彼女もいない。別に、不便は感じない。

 一生このままなんだろうかと、なんとなくそう思う。

 そんな雑念を思考の隅で遊ばせているうちに、ブレザーの制服を夏服にかえる時期になっていた。

 いつもの朝、自室で新しい制服の袖に腕を通す。

 僕の世界は、なにもかわらない。

 はじめから、なにも期待していない。

 そのはずなのに、ため息がもれてしまった。


 リビングのテーブルで、妹が用意したドライフルーツ入りのシリアルを食べる。牛乳ではなく豆乳がかけてある。僕は牛乳の方が好きなのだが、用意してもらった立場なので意見はしない。

 ——お兄ちゃん、夏服にかわったの?

 そう。

 黒かっこいいよね。

 夏服なのに太陽熱を吸収しまくるから暑いだけだよ。髪が鳥の巣みたいになってるぞ。

 うそ、やばっ。ぎゃあ。

 小学六年生の妹と、他愛もない会話をしながらテレビに目をやると、天気予報がもうすぐ梅雨入りすると伝えていた。

 マンションの前で学校に向かう妹の背を見送り、僕も駅へ向かった。黒いアスファルト、灰色のブロック塀、どの民家も似た形。いつもの住宅街の景色はこの時間、通勤、通学の人たちがまばらに歩いている。見慣れたのではなく、見飽きたのではなく、見尽くしたのだ。

 空は晴れていた。

 僕は、どこになにを求めているのだろうか。

 どれだけ自分にたずねても、こたえはでなかった。


   * * *


 階段の前でひかえめに周囲を見渡して、誰もいないことを確認する。立入禁止を示すカラーコーンのバーをまたいで階段を上がる。昼休み、僕は屋上へ向かっていた。この高校の校舎は三階建てで、一年生の教室は三階にある。

 購買部でパンとペットボトルのコーヒーを買ったあと、一度は教室の前まで戻ったのだが……。引き戸の窓越しに室内を見て、踵を返して屋上へ行くことにしたのだ。僕の席の近くにギャル系の女子がいて、休み時間、他のクラスの友達と一緒にたむろすることがある。特に害はないのだが、僕が教室にいないとき、勝手に机を椅子がわりにするのはやめてほしい。

 塔屋内の窓から屋上を見て、誰もいなそうなことを確認する。人の姿はないが、見ると、ドアノブのサムターンが縦になっていた。前回、僕が鍵を締め忘れたか、どこかのクラスが授業で屋上をつかったあと、担任が締め忘れたか。それとも、僕以外に屋上をつかっている奴がいるのか——そんな予想を頭の中に描きつつ、そっとドアを開けた。日差しと若干の熱気が肌に纏う。夏になったらここはつかえなくなるだろう。

 塔屋の壁沿いに見つけた日陰に、壁を背にして座り込む。あぐらをかいて、食事をはじめる。ビニール袋からパンとペットボトルを取り出した。

 僕は月に何度か、昼休みをこうして過ごすことがある。今日のように机を使われてしまったときや、教室の喧騒がひどいときだ。図書室をつかうこともある。

 今日は青空の広がる快晴だ。

 ときどき、心地よい涼しげな風が吹く。

 僕はパンに噛みついた。


 屋上の外から聞こえてくる昼休みの喧騒に、鴉のか細い鳴き声が被った。塔屋の上からだ。全身をつかって必死で絞りだしたような、弱々しい声だった。死にかけている姿を想像した。

 パンを咀嚼しながら、昨晩、寝る前にネットで観た生き物の捕食動画を頭の中でリピートした。海外の自然系ドキュメンタリー番組<ナショナルジオアニマル>の内容の一部を、誰かが動画共有サイトにアップロードしたものだ。僕のような捕食シーンマニアに定評のある番組だ。

 太陽の光が降り注ぐアフリカのサバンナ。ハイエナの群れが、逃げ惑う一頭のシマウマを追いながら攻撃している。胴体や四肢のあちこちに噛みつき、やがて腹の肉が破かれて臓物が露出した。シマウマは後ろ脚から崩れるように倒れて、直後、ハイエナが四方八方から一斉に飛びかかる。まだ息のあるシマウマの胴体を、ほじくるように貪るハイエナたち。その形は少しずつ崩れていき、白黒の体毛はあっという間に赤黒く染まった。

 そのうちの一匹が口に咥えて引きずり出した塊は、シマウマの胎児だった。


 引きずり出した腸を奪いあう鼠たち……。くちばしで眼球をほじくる雀——上に行けば、他の生き物が鴉を食っている光景を見られるかもしれない。

 ——見たい。

 いま見に行かないと捕食中の生き物がいなくなって、死肉がただ遺されているだけになってしまうかもしれない。

 食べかけの昼食をビニール袋の中に戻しつつ立ち上がって、塔屋の外壁沿いに歩いて裏手にまわる。途中、屋上フェンスの金具に昼食の袋を引っ掛けた。塔屋に上がるための梯子をつかんで、音を立てないように足をかける。白いペンキで塗られた梯子は全体的に錆びていて、昇っているだけでも、腐食した鉄が塗料と一緒にボロボロと剥がれ落ちていった。

 視界が、塔屋の上に設置されている給水ポンプの全体をとらえた。同時に、ポンプのすぐそばでこちらに背を向けてしゃがんでいる女子生徒を見つけた。上下ともに黒色調のセーラー服であるせいか、一瞬だけ、黒い塊が蠢いているように見えてしまった。

 小柄な体格と、腰まである長いストレートの髪には見覚えがあった。僕の隣の席にいる、糸城 舞(いとしろ まい)に違いない。

 彼女はしゃがんだ姿勢で、手に何かを持っているように見えた。ただ、彼女の正体よりも気になることがある。例えば、人の形をしたものが両手に中型の鳥くらいの物体を鷲づかみにして、齧りつくように食べていたら、後ろ姿のシルエットはあんな感じになるのではないだろうか。

 ——鴉……。

 無意識に声が出てしまった。梯子に身を預けたまま彼女を観察したつかの間、自分がここまで梯子を登った理由を思い出したときだった。

 咀嚼と思しき動きが止まった。

 頭部がもたげ、首が回って僕を向く。

 切れ長の目が僕を見る。

 その顔はやはり、糸城だった。

 赤黒く染まった口の周りは、まるで子供が悪戯で口紅をつかった痕のようである。

 猫のような小さな顎がゆっくり上下して、喉がゴクンと動いた。

「……そうよ」

 人間の——少女の声だった。でも、僕の脳はそう思わなかった。彼女の姿は教室で毎日見かけているのに、声だって何度か聞いたことがあるはずなのに。

 言葉の意味を理解したのはその違和感のあとだった。やはり今、彼女は鴉を食べている。あの手の中には、半壊した鴉が握られているのだ。

 食べている様子を近くで観察したいが、理性が躊躇った。他人に見られたら困る行動をしているのは間違いないだろう。こういう状況からの会話の続け方も僕は知らなかった。

 少し考えてから、「腹、こわすぞ」とひかえめに伝えた。それだけで済めばいいが。

「……へいき」

 彼女の返答は抑揚が乏しく、素気なかった。教室で見る地味な印象よりも更に暗い感じがした。そして、プイッと向きを戻して食事を再開した。邪魔しないで、と言われた気がした。

 僕も元の場所で食事の続きをとることにした。食中毒、ウイルス感染、寄生虫——ジビエを調理せずに食べた場合の危険性を思い出しつつ、梯子を降りた。

 今日の昼食は彼女のと同じ、鶏肉だ。

 ただ、一つ大きな違いがある。

 僕のほうは安全な、調理されたチキンバーガーだ。

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