ならまち桃花幻影
加賀屋 乃梨香
第1話 いでたつおとめ
冴えた月の夜だった。
甘い桃の香りが充満する裏庭で、ぷうんという蚊の音に反応して作務衣姿の男が、ぺしっと音を立てる。
取り逃がしたか。
また、ぷうんという音に足元にあった蚊取り線香を踏まぬよう気遣いながらも腕を振り回す。
「うふふ、哲二。なにほたえてんの?」
握り飯と湯呑みをのせた小さな盆と大きな急須を持った文枝が、桃畑の柔らかい土に危なげな足取りでやってくる。
「あ、お嬢さん。」
合わせて、哲二と呼ばれた男も答える。
「お
「おおきに、ありがとさんです。」
住み込みの内弟子の身で、そうそうおかわりなどできない哲二にとって、いつもさり気なく食べ物をくれる文枝は、本当にありがたい存在だった。
「いただきます。」
お嬢さんが咬まれてはいけないと、蚊取り線香を文枝の足元にそっと置き、軽く手を合わせると塩のきいた握り飯を頬張る。
思った以上に一口が大きかったのか、口中の水分を取られた哲二が胸をどんどんとすると、慌てた文枝がぬるい茶を持ってきた湯のみに注ぎ、笑いながら差し出す。
目を大きくしばたたかせていても、軽く会釈した哲二は湯のみを受け取り一気に飲み干す。
「ごめんね。今日はもう火を落としていたから、新しいお茶は入れれんかってん。」
「とんでもない。これだけしてもろたら十分です。」
誠実な眼差しで見つめる哲二に、ふっと恥じらいの表情を浮かべた文枝が二杯目の茶をいれ渡す。
そして、もう一つの湯のみにも茶を満たすと、両手で包み込むようにして一口啜り
「きれいなお月さんやねえ。」
とつぶやく。
哲二も
「ええ、せやから親方が、今夜は桃泥棒が出るかもしれへんさかい。
云わはって」
「寝ずの番せなあかんの?」
少し首をかしげ、心配そうに哲二を見上げる文枝に
「そのかわり明日の午前中の仕事は、休んで良いそうです。」
と微笑みかける
「お父ちゃんは、
よその人は成り下がる。
いうて庭には植えへん桃の木を、桃は特別な木やから他の生り
云わはって。
けどほんまは、うちらに食べさせたくて植えてくれはったらしいんよ。」
「解ってます。
親方は仕事には厳しいお方やけど、こどもには優しい。
「拾うやなんて。
あんたは、ちゃんと弟子入りしたんやないの。」
自分でも驚くほどきつい調子で言ってしまったと、慌てて顔色を伺う文枝に、大丈夫です。
とばかりににっこり笑う哲二。
ほっとした文枝は、俯きながら哲二の手を握った。
繋がれた手に一瞬驚いた表情の哲二も、そっと握り返した。
何も言えず月を見上げる二人。
『はるのその くれないにおふ もものはな したてるみちに いでたつおとめ』
大伴家持か・・
花じゃなかったけど・・・
ほのぼのとした男女とやけに鮮明な月の夢を楽しんでいた
「竜ちゃん、竜ちゃん。朝ですよ。」
母の美鈴の声で現実に引き戻される
「もう少し夢の世界にいさせてよ」
ぼやくと、閉めきったはずのカーテンから漏れる光を見上げ、それから目覚まし時計を探した。
まだ八時。
しかもデジタルの曜日部分が日曜日を表している。
「母さん、今日は、日曜ですよ。休みの日くらいゆっくり眠らせてください。」
寝言と間違われるぐらいのトーンで答えると
「竜ちゃん、開けますよ。」
と、了解も得ずに美鈴が引き戸を開ける。
慌てて、枕に顔を埋め、
「母さん、今日は日曜日ですよ。寝させてください。」
もう一度繰り返し、被ろうとした布団の端を、すべて見越していたかのように美鈴が、ガッと勢い良く掴み
「今日は、お茶会だって言ってあったでしょう。」
と、息巻く。
「だから、僕は、後期の試験が終わったとこで、今日は勘弁してくださいって、ゆうべ言ったでしょう?」
「今日は、絶対ダメって言ったでしょう。
早く起きて、シャワーを浴びて着物に着替えて頂戴。」
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