第1話
“俺たちを殺す方法を知ってるか?”
絶望の淵に立たされた私に、そう言って笑った彼の唇から覗く八重歯の先端を、今でも覚えている。
少し昔話をしようと思う。
『末期の癌です』
確かに体調はもうここ何日…いや、何ヵ月かずっとすぐれないなとは思っていた。
元々体が強くないことに加え、だいぶ無茶な働き方をしていたので、当然の不調だと思っていた。
もう少し自分を大切にすればよかった。そう思っても、もう遅いところまで来てしまっていた。
いつ死んでもいいやと漠然と考えることはあったけど、いざ目の前に死が現れると、「どうして私が」そう思わずにはいられなかった。
初めて まだ生きたい そう感じた。
刹那的にそう思った12時間後、私は会社の屋上に座り込んでいる。
死にたい。
私の人生の後半部分を苦痛で埋めた会社に、少しでも迷惑が掛かればいい、だからここから飛び降りてやろうと思った。
まだ死ぬと決まったわけじゃないけれど、自分が想像していたこれからの未来が何分の1かになるとわかって、唐突に、それなら自分でこの人生を終わらせたいと思った。
どうせこのあと、治療や病気で苦しみながら死を待つぐらいなら、いっそここでスッキリしてしまいたい。
現代の医療は進歩しているから!希望を捨てないで!だなんて、だからと言って生き続けたところで、この先の人生に何が待ってるかなんてわからない。いいことが必ず起こるとかそんなポジティブに生きることをしてこなかったし、想像ができないから、希望なんて捨てるどころか元々持っていない。
…と、ついさっきまでそう思っていて、屋上の淵に立ってみたはいいけど、下を見たのが間違いだった。無理だ。こんなところから飛び降りるなんて無理だ。
死ぬこと以上にここから落ちるほうが怖いんじゃ?と恐る恐る下を見て、泡を吹きそうになって尻餅をついた。両腕は震えながらしっかり柵を掴んでいる。
だからといって、他の死に方を……だなんて、もうこの時間は電車も走ってないし自分の死で他人にトラウマを植え付けるなんてしたくないし、首吊りは準備がめんどくさいし。
なんかもう全部がめんどくさくなってきた。あーもういや。
死ぬことすらこんなにめんどくさいなんて……。
勢いづいてここまで来たのにこの様だ。
生きることに向いていないと思ってここに来たのに、ここにきて死ぬことにも向いてないとわかってしまった。
「あーあ、なんて日だ!!!」
緊張した手足を放り出して、冷たいコンクリートに大の字に寝転がった。
見上げた暗闇は、下を覗いたときよりはるかに深く遠いのに当たり前に怖さはなかった。
皮肉なぐらい綺麗な満月が雲を退けるようにそこに君臨していた。こいつのせいで、明るくて見通しがよかったのか…クソッ
「それはもうちょっと古いギャグなんじゃねぇの」
ん…?
「俺が知らねぇだけでそれはまだよく聞くやつなのか?わりぃな時間感覚狂ってるもんで」
こんなところで他の人の声が聞こえるのはおかしい。そう思ってきょろきょろと左右を見渡したけど人影は見当たらない。
幻聴か。
「こっちだ」
「うわっ」
「いや驚くの遅いだろ。普通最初に声が聞こえたときに驚くもんじゃないのか」
思いっきり顎を掌で上げられた。そして視線の先に逆さまの男の顔が現れた。
咄嗟に体を起こしてずりずりと後退りしてしまう。
「え、いやあの、誰ですか、て、ていうかなんでこんなところにいるんですか」
「それはこっちの台詞だ。なにしてるんだこんなところで」
「わ、私はちょっと、ここらで死のうかなと思ってました」
「うん、知ってる。見てたから」
「えっ!?」
いちいち反応がうるせぇーなー、と耳をかっぽじられる。
この状況で冷静でいられる人を教えてほしい。動悸がすごい。どうせなら違う感じでドキドキさせて欲しかった。
「退屈だから散歩してたら、なんかうろうろしてる人間見つけて観察してた。んで、そいつそこにガクガクしながら立ったと思ったら腰抜かして座り込んでたから、面白いなと思って話しかけに来た」
こんな真夜中に散歩って…いや、散歩してたとは言うけどまるで私のことを上から見ていたような言い方だ。こいつどんなところを散歩してたんだ?スパイダーマンか?
と思えるぐらいには少し落ち着いてきたらしい。
「なに?死ぬの、諦めたの?」
「はい…。ここにきて死ぬことすら煩わしいと思いまして…」
「そもそもなんで死のうと思ったんだ?お兄さんが話聞いてやるよ」
この歳になって男の人にお兄さんと言ってもらえるとは思ってなかった。
でも確かにその人はおじさんでもないし、若者兄ちゃんという感じでもない。同世代ぐらいに見えるのに、まとう雰囲気がそうさせているのか、自分のほうが幼いと感じさせられる。なんだか不思議な人だ。
「今日、癌ってことがわかったんです。しかも末期」
「……それで死のうと?」
「はい。恋人も家族もいないし、1人で闘病生活なんて耐えられる自信ないし、そもそも治療に意味があるのかもわからないし…痩せこけて今より可愛くなくなって最後を迎えるぐらいなら、もう死んじゃおうかなって」
「で、結果ここに立ってみたら怖くて無理だった、と」
「……そんな感じです」
改めて口にするとどうも恥ずかしくて、俯いた。
「なるほどな。じゃあその孤独に生きる予定だった余生、俺と一緒に過ごしてみるか?」
「な、なんて?」
「だから、一緒に生活してみるかって」
「いや、なんで…」
「俺も似たような理由でここに来たからさ、ほら、なんかシンパシー感じちゃって」
訳が分からないこの人……。でも正直完全独り身の私にとってちょっと、ちょーっとだけ魅力的な提案だった。
「その前に俺から1つ話しておくことがある。俺は人間じゃない」
「ぇえ!もしかして既にもう死んでらっしゃる!?ていうか私が死んでる!?だから視えてる!?」
「違う。そういう非科学的な存在じゃない」
「じゃあ、限りなく人間に近づいたチンパンジーとか…」
「吸血鬼だ」
「…はあ……」
ひ、非科学的ぃ。
「もう長く生き過ぎたからそろそろ死にたいなとおもって」
「仮にあなたが本当に吸血鬼だとしましょう。私、血吸われるんですか…?」
「いや、人間に擬態して生きるのに体が慣れたからその必要はない」
「そうなんですね…私は病気だからたぶん不味いし、もしその必要があったらどうしようかと思いました」
「ていうか本当に吸血鬼なんですか…?」
「別に信じなくてもいい。支障はないからな」
目の前のお兄さん(というかおじいちゃんなのではないかと思ったけどさすがに口にするのはやめた)を見つめた。
特に肌が青白いということもないし爪がとがっていることもない。
ただ、今まで漫画とかで見てきたみたいに、恐ろしく顔が美しいし体格が素晴らしい。
餌を釣るためにこういう造形で生み出されたんだろうか。うらやましい限りだ。
こんなイケメンと余生を過ごせるなんてちょっとどころか結構ラッキーな……これ以上は黙っておこう。だめだ、自分の人生がどうでもよくなった途端、思考回路がショートしている。
「あなた、お名前は」
「忘れた。だから適当につけてくれ」
「……じゃあロゼで」
「ほぅ、なぜその名を?」
「昔飼ってた猫の名前がローズだったので」
「猫……」
「私のことは雫ってよんでください」
なんだか納得してないようだけど、咄嗟に浮かんだのがこの名前だ。
仕方がないから受け入れてもらおうと思う。
「まあいい。わかった、雫」
「でも本当に私でいいんですか?」
私たぶんもうすぐ死ぬよ。
そういった私の双眼をじっと見つめて、
だからちょうどいいんだよ。そういった目の前の彼のほうが今にも消えそうで、少し怖かった。
「じゃあとりあえず、お前の家に行くか」
「私の家なんですね」
「俺の家に女が快適に生活できる設備ないからな」
「なるほど?」
「嘘だと思っただろ」
「さぞかし女を連れ込んでそうなお顔をお持ちですので…」
「もうそれも100年以上前にし飽きた」
「…さいですか…」
これが私と彼が初めて出会った日のこと。
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