第15話(裏)

 明かりが落ちると同時に、怜はにおいを感じた。沼底の泥をかき混ぜた時のような、嫌なにおいだ。

 アリアの悲鳴が響いた瞬間、そのにおいは一層強くなった。

 助けるか、と振り向いた怜は、しかしまばたきを一度しただけで動かない。

 アリアが抵抗していることがわかったからだ。彼女は抗っている。戦っている。

 自らの意志で、彼女はそれを選んだのだ。

 それならば邪魔をするわけにはいかないな、と、怜は前方へ向き直った。

 暗闇の中に、人々のざわめきが響いている。そこにあるのは、困惑と焦燥、そして恐怖だ。

 恐いのならば、こんな企画などしなければいいのに。

 怜はそう思わずにいられない。ホラー映画やお化け屋敷の存在が示すように、恐怖とは明確に娯楽なのだ。しかし、それは「自分は安全だ」という前提がなければ成り立たない娯楽である。

 どれ程のスリラー映画ファンでも、目の前にナイフを振りかざす通り魔がいれば、大慌てで逃げ惑うに違いないのだ。

 闇を見通す怜の瞳には、騒然としている人々の青白い顔まではっきりと映っている。

 どうせ何も起きないと高をくくっていたか。

 バカだなぁと思った時、隣に立つ片割れと目が合った。

 静は半ば呆れたような顔で、無言のまま、くいと顎でどこかを示した。その方向を見ると、二つの人影があった。一つは紺色の背広を着た、痩せて背の高い壮年の男性。もう一人も男性で、白い服を着た恰幅のいい体格をしている。番組の司会者とプロデューサーだ。二人で何か話していることが窺い知れた。

 ——なるほど。

 怜が頷くのとほぼ同時に、双子は足を踏み出した。


「すいません」

 静に声をかけられた二人は、あからさまに声をあげ、肩を大きく震わせた。怜が笑いをこらえている横で、静は落ち着いた調子で話し始める。

「驚かせてすいません。すごいことになっちゃいましたね。もしかして、仕込みでしょうか?」

「とんでもない!」

静の言葉を大袈裟なまでに否定したのはプロデューサーだ。彼は、額に滲んだ脂汗を拭い、何故か自身の腹太鼓を叩いた。

「こんなプランニングはしませんよ。放送事故もいいところだ。正直、祟りより炎上と上司の方が恐ろしいくらいです」

「習木プロデューサー、その言い方はよくないんじゃありませんかね? 渦中の人はこの二人のひいおじいさんですよ」

 司会者にたしなめられたプロデューサーは、一瞬きょとんとして、すぐにハッとした顔で「申し訳ない」とまた額の汗を拭った。

「ただ、番組として、このままでいいわけもないんですよ。何か手を打たないと、最悪私はクビです」

「復旧の目処は?」

 怜の問いに、プロデューサーと司会者は同時に首を横に振った。

 司会者が苦笑いで肩をすくめる。

「扉が開かない、電話も通じない。王道パターンです」

 その言葉に、双子はあからさまに頷き合って見せた。

「柳木病院の時と同じですねぇ」

「ということは、やはりロンが関わってみるとみて間違いないかと」

「そこで、ひとつ提案があるんです」

 双子が“提案”の中身を語ると、プロデューサーは「ほぉう」と唸り、司会者は顎に手を当てて神妙に頷いている。

 語り終えた静がくすりと笑った。

「どうでしょう? テレビの演出、という意味でも、絵にはなると思いますが」

 プロデューサーは深く頷き、司会者も「おもしろそうですね」と笑っている。

「早速準備します。ADたちには私の方から話しますので、湯本さん、出演者たちへの声かけ、お願いします」

「わかりました」

 二人がそれぞれ別方向に向かうのを見送って、双子は目配せをし口角を上げた。

「——さあて」

 双子は声を揃えて目を細める。

 今のうちに、この水の元を絶たなければ。

 その時、声がした。アリアのものだ。

「……だれ?」

 囁きほどの音量しかないそれは、おそらく双子にしか聞こえなかっただろう。だが、その呟きを契機に、水のにおいが変化した。

 沼底に溜まった汚泥のようなものから、豪雨の後の川のような臭いへと。

 同時に、明かりが灯った。

 皆が落ち着きかけたのは、突然の光に目が眩んだ一瞬だけだ。すぐに「どうやって入った!?」という誰かの怒号が響いた。

 カメラの前に立つ、真っ白な人影。髪も、衣服も、顔色さえも白く、生気がない老婆。

 三森千秋。

 ここはテレビ局の中だ。入れるのは、関係者か、許可が出た者のみ。誰もがそれをわかっているから、突然現れた見知らぬ老婆を警戒している。そもそも、このスタジオの扉は今なお閉ざされている。入って来られるわけがないのだ。

 若い男性ADが三森千秋へ近づいていった。

「あの、すいません。困ります。いま生放送の本番中でして……」

 三森千秋はその言葉には応えず、油の切れたカラクリ人形のようなぎこちない動きで辺りを見回している。

 双子はアリアの様子を伺った。彼女はしっかりと自分の足で立っており、自身の目で三森千秋を見据えている。

 彼女は大丈夫。そう確信できた。

「千秋さん」

 ざわめきの中に、篠山の声が響いた。彼はつかつかと迷いのない足取りで三森千秋の前に立った。

「なんでここにいるんですか? 体は大丈夫なんですか?」

 三森千秋からの答えはない。

 篠山が睨むように彼女を見ている。数秒間の沈黙は、場違いなほど明るい声によって破られた。

「うわぁ、なんだか大変なことになってきましたねぇ! みなさん、大丈夫ですか? お怪我ありませんか? ない? それは何よりです! そして、トリニタス先生! あなたはどーしてここにいらっしゃるんでしょうか! お体は大丈夫なんですか? どうやってここまできたんですか? ぜひ教えてくださーい!」

 星野である。彼女は、番組のレギュラー陣であるキャストや、何人かのスタッフの肩を軽く叩きながら三森千秋の方へと駆け寄っていった。

 見れば、彼女が肩を叩いているのは、明らかに顔色が悪く、今にも倒れそうな人ばかりだ。声をかけたのは星野なりの激励であろうと、怜は思った。

 意外と、周りを見ている。

 双子が密かに感心した時だった。

「どうして」

 しわがれた声が、スタジオの中に響いた。

「どうして、報われないんでしょう」

 これは三森千秋の声であり、渡貫まことの声であり、双子の母・ミナーラの声でもある。

「どうして、誰もわかってくれないのでしょう」

 どうする、と双子は思案した。ルサールカが現れることは想定していたが、ああもカメラの前に陣取られてはやりづらい。流石に力を使う瞬間をテレビで放送されるのは避けたかった。

 双子が考えている間にも、哀れな女の独り語りは続いていく。

「私は家族を作りたかったのに。私は幸せになりたかったのに。私はがんばったのに。私はたくさん耐えたのに。私は私は私は」

 哀れな人。孤独な人。弱い人。縋るしかなくて、けれどその縋る方法すら、相手を食い潰す以外のやり方を知らなかった人。

 その慟哭が、湖面に岩を打ち付けた音のように響き渡った。

「そんなつもりではなかったのにっ」

 悲劇ではある。大いに同情もする。だが。

 それでも、彼女らの在り方で得られるのは、せいぜい憐憫が限界なのだ。

 人間の目には、老婆一人が映っているだけ。しかし、双子の瞳には、三つの姿が重なって見えている。三森千秋、渡貫まこと、そして——ミナーラ・ティータ。

 そんなつもりではなかった。

 息子を不幸に巻き込み、幼い子供に暴力を振るった三森千秋。

 娘にひたすら自身が溜め込んだ毒を吐き出し続けた渡貫まこと。

 我が子の幸せな未来を求めただけだったミナーラ・ティータ。

 在り方は違えど、彼女らは皆母親だ。そんなつもりはなかった、というのは、子どもを不幸にする気はなかった、ということだ。

 それはそうだろうと双子は思う。母親に悪意がなかったことなど、子どもなら皆知っている。だからこそ、三森義樹は母と一緒に生きることを選んだ。だからこそ、アリアは母を恨み切ることができなかった。

 それでも。

 だからこそ。

 親を名乗りたいのなら、子どもの献身と自己犠牲にいつまでも甘んじていいわけがないのだ。

 双子は、もう母に身を献げることはない。己を、まして片割れを犠牲にすることなど絶対にしない。

 とうの昔に決めたことだ。

 今も、ミナーラの慟哭が双子の耳には響いている。許して赦してと泣いている。殺すつもりはなかったのだと、ただ取り返したかっただけなのだと、気の迷いだったのだと。

 捨てるつもりなどなかったのだと。

 双子は静かに、そして冷ややかに、聲を放った。

 ——つもりの話なんかしていない。

 ——結果の話をしているんだ。

 ミナーラは、双子の片方を妖精の子だと思った。だから、妖精に攫われた子を取り戻すおまじないをした。奇しくも同じ時期に、育てにくかった子、妖精の子だと思った方が、明るくなり、育てやすくなった。

 同時に、ミナーラは思ったのだ。この子は自分の子ではない、と。チェンジリングではなかったのに、おまじないをしたせいで、本当に入れ替わってしまったのだと。

取り戻そうとして、彼女は妖精の子を殺そうとした。

 それは、紛れもない我が子だったというのに。

 彼女は、双子を取り違えたのだ。

 殺し切る前にそれに気づいたミナーラは、精神の均衡を崩し、そのまま命を絶った。

 彼女が悔いているのはそのことだ。化け物と間違って殺そうとしてしまった我が子に対して謝っている。化け物と間違ったことを赦してほしいと乞うている。

 謝るところはそこじゃないだろう、と、双子の片方が呟いた。

 出自がどうであれ、己のきょうだい、片割れは、今ここにいる“彼女”なのだから。

 謝るのなら、もう一人に対してだと、冷たく静かな聲がざわめきの中に流れていく。

 それでも慟哭が止む気配はない。

 どれだけ言葉を重ねても、どれほど真摯に向き合っても、相手に聞く気がないのなら、言葉も気持ちも届かないのだ。

 怜はやれやれと肩を落とした。

 静は仕方ないとため息をついた。

 今、双子はカメラの画角に入っていない。

 誰の視線も、意識も、双子には向いていない。

 そもそも、この力を肉眼で捉えられる人間はまずいない。

 ——今しかない。

 双子は目配せをし、呼吸を合わせ、一度目を閉じ、開いた。体はそのままに、二つの視界は一つに重なり、老婆の姿を被っているモノの正体がよりハッキリと瞳に映る。

 黒く、黒く、濁った塊。人のシルエットすらしていない。ただ蠢いているだけの、醜く、哀れな存在。

 一つに重なった視界の中で、双子は矢をつがえ、弓を引いた。

 誰にもそれは見えていない。

 誰もそれに気づいていない。

 それで、いい。

「どうして私ばかりが我慢しなくてはいけないのぉっ」

 滑稽なほどに憐れなその叫びを契機にして、双子は矢を放った。

 次の瞬間、凄まじい悲鳴が鳴り響いた。

 それは言語の体を成していない。叫びの主の側にいた篠山も星野も、驚いたように後退り、距離をとっている。

 双子は「うわぁ」と思わず声をこぼした。

 二つが一つになった瞳に映るのは、バシャバシャと暴れる黒い塊だ。その様子は網にかかった魚のようにも、遊ぶ子どもに踏みつけられる水たまりの飛沫のようにも見える。

 ただ、問題はそこではない。バシャンと黒い塊が弾ける度、悍ましいほどの力が流れ出ている。あるべき姿を壊してしまうその力は、西洋では魔と呼ぶべきものであり、この国では穢れと呼ばれているものだ。

 カメラは今も、黒い塊を映し続けている。放送が続いているのなら、どこにどんな影響が出てもおかしくない。

 側から見れば、老婆が発狂して一人髪を掻きむしり、地団駄を踏み、何某か叫んで暴れているようにしか見えない光景だ。

 しかし、双子から観れば、それは紛れもない惨劇の予兆だ。あれは、このまま放っておいても、この場からは消えるだろう。しかし、それまでに、どれだけの波紋が広がるかわかったものではない。

 一度目の矢は確かに効いた。だからこそ、あれは暴走している。

 双子は密かに舌打ちした。

「やるしかないか」

「しょうがないね」

 再び、矢を構えた。一対となった双子の瞳の中で、黒い塊は尚も蠢き、膨張している。的が大きくなったのはありがたい、と狙いを定めた。言葉を失ったモノの慟哭は、止むどころか、さらに激しさを増している。

 そうして、二度目の矢が放たれた。

 視界が揺らぎ、一つに重なった視界が二つに戻っていく。今回は他人の無意識に入り込んだ訳ではないから、怜が自分自身の体の感覚を取り戻すのは早かった。

 それでも頭は痛いし、体は重い。目も心なしか霞んでいる。隣に立つ片割れも同じだと見てとれた。

「……どうなった」

 怜の問いに、静が答えた。

「……ダメっぽいね」

 双子の二対の目には、それぞれ、ますます激しく暴れる老婆の姿が映っている。

「そっかぁ」

 怜は呟くようにそう言って、両膝に手をつき、力なくうなだれた。

 あれは、三つが混ざった存在だ。

 外側になっている三森千秋。慟哭をかたどっている渡貫まこと。そして、核であるミナーラ・ティータ。

 二本の矢では、三つ全てを射ることはできない。しかし、三本目を射てば、それは双子自身の死に際となる。

 既に体は限界を訴えていて、今すぐにでも倒れたいと叫んでいる。手に力は入らず、拳も握れない。気を抜けば、膝からも力が抜けそうだ。

 ぎゃあぎゃあと、もはや獣のようにすら聞こえる叫びは、未だ衰えずに響いている。

「千秋さん、千秋さん、やめてください」

 狂騒に、篠山の悲痛な声が混ざった。

「あなたが苦しんでいたのは知っています。あなたが孤独だったのは知っています。知っているのに手を差し伸べなかった。知っていたのに傍観するだけだった。私も兄と同罪です。だから、言いたいことがあるなら私に言ってください。これ以上はやめてください。せめて、せめて」

 その必死の訴えの間も、狂騒は止むどころか、俄然激しさを増している。

「義樹くんに、会いに行ってあげてください」

 篠山が涙すら滲ませたその懇願を、獣の咆哮としか思えない絶叫がかき消した。

 崩れ落ちる篠山に、星野が駆け寄っている。他の皆も遠巻きで、誰も何もできていない。一種のパニックからくる膠着状態だ。

 このままでは、何人死ぬかもわからない。すでに手遅れの人もいるかもしれない。巻き込まれただけなのに、それは流石に憐れというものだ。

 怜は静の方を見た。

 静は怜の方を見た。

 双子は目を合わせ、仕方がないかと微笑み合った。うっすらと覚悟はしていたことだ。

 母のための自己犠牲ではない。どこかの善良な誰かのための献身だ。そう思うことにした。

 乗りかかった船である。船出まできちんと見届けなければ、どのみち気持ちの良い朝日など望めない。

 深く、深く息を吸う。目を閉じ、開く。二つの視界を一つに合わせる。世界がぼやけて見えるのは、限界だからだ。

 その瞳に映るのは、怯える人々と、嘆く男性、戸惑う女性。そして、黒く黒く染まった塊。片割れとは別の意味で、この世で最も近しい命だったもの。その成れの果て。

 最後に見るのがこれとはなぁ、と自嘲しながら、重たい腕を叱咤して、矢をつがえた。

 その瞬間、双子の耳にある音が届いた。

 獣のような慟哭ではない。もっと静かで、澄み渡った美しい音。

 火花が散るような、焚き火の中で割れる薪のような。

 双子は、矢をつがえようとした腕を下ろした。その視界は一つから二つへ戻っていく。

 紛れもない幸運だ、と怜は筋張った肩をほぐした。

 後は任せてよさそうだ、と静は安堵の息をついた。

 隣人の気まぐれ。その風向きが、こちらに向いた。

「Welcome, ladybird.」

 双子が歓迎の意を示すと同時に、それは始まった。

 パチパチ。ピキピキ。パチパチ。カラカラ。

 この音を何と形容するか。焚き火のような、と言う人がいるだろう。レンガ造りの暖炉のような、と表す人もいるだろう。松明を思い浮かべる人間は、流石に今の時代にはいないかもしれない。

 だが、双子は知っている。

 この音の主が、炎ではないとわかっている。

 火花にも似たその旋律をかき消すように、ぽたぽたと水が滴ってきた。ルサールカの最後の抵抗だ。雨のような大粒の雫がどんどん落ちてくる。それは不可視ではなく、質量を持った液体として、床を飲み込んでいく。

 スタジオの中が一挙にざわめいた。

 誰かが「何、何なんだ」と叫んでいる。

 誰かが「これやばいな」と呟いている。

 誰かが「助けてくれよ」と嘆いている。

 誰かが「霊能者呼べよ」と慌てている。

 誰かが「死にたくない」と泣いている。

 その中で、老婆の姿を借りた異形が、三森千秋が、渡貫まことが、双子の母——ミナーラが、赤子のように泣き喚いた。

「どうしてわかってくれないの」

 そして、その叫びが向けられたのは、身構えていた双子ではなく、無防備に立っていたアリアだった。

「縺雁燕縺ョ縺帙>縺?遘√?謔ェ縺冗┌縺?♀蜑阪?縺帙>遘√?謔ェ縺上↑縺?□縺雁燕縺ョ縺帙>縺?縺√=縺√=縺√≠縺√=縺√≠縺√=縺√=!!!!!!!!!」

 三森千秋の姿をしたモノがアリアに掴みかかる。二人はもつれ合うように水の張った床に倒れ込んだ。しわがれた腕がアリアの首を閉めようとしている。アリアは抵抗しているし、篠山も、星野も、近くにいた者たちは皆止めに入っているが、老婆であるはずの細い体はびくとも動かない。

 怜は足を踏み出した。水音が鳴り、その波紋を打ち消すように、静も水面を踏みつけ、歩き出す。

「縺雁燕縺輔∴險?縺?%縺ィ繧定◇縺?※縺?l縺ー縺?∪縺上>縺」縺溘?縺ォ遘√?險?縺??壹j縺ォ縺励※繧後?繧医°縺」

 三本目を打つべきかと思ったのは一瞬で、どこかから吹いた冷涼な風を感じ、その必要はなさそうだと安堵した。

 アリアの抵抗が勝とうとしている。

「——私だって、完璧なんか、無理だよ」

 風に乗って聞こえたその言葉で、彼女はもう大丈夫だと、そう思った。

 アリアが老婆の体を跳ね除け、しわがれた体を床に叩きつけた。水飛沫が上がり、アリアは立ち上がって老婆から距離をとっている。

 その瞬間、双子の間を、何かが吹き抜けていった。

 矢だ。

 風で象られたその矢の根は、縮こまっていた老婆の背中に突き刺さる。

 双子は後ろを振り返った。ざわめく人々の中で、すらりと立つ白い影。光を人の形に固めたようなそれは、弓を構えた人間の輪郭によく似ていた。

「——thanks, mum」

 双子の片方がそう告げると、白い人影は陽炎のようにゆらめいて消えていく。感謝の意を述べた片割れを、もう一人は微笑んで見守っていた。

 気づけば、ルサールカの気配も消えようとしている。あの中には、双子の母もいる。

 言いたいことは、どれほどあるか。

 ぶつけたい感情がどれほどあるか。

 叶えてほしい願いがいくつあるか。

 何度も父や祖母に問われた問い。しかし、双子の答えは、いつも同じだ。

 何もない。

「——Let it be to me according to your word.」

 お言葉どおり、この身になりますように。

 聖書に残る、聖母の言葉。

 双子が、母だった人に贈れる言葉は、これしかないのだ。

 神は、人と人が助け合い、慈しみ合うことを望んでいる。何度裏切られても、神はその望みを人に託し続けた。聖書はそれを綴っている。

 人を助け、人を慈しむ。

 あなたが、本当の意味で、それをできる日が来ますように。

 人は、誰かに幸せを与えた時にしか、満たされることはない生き物なのだから。

 願わくば、あなたがそれを解する日が来ますように。

 願わくば、あなたがそれを行える日が来ますように。

 願わくば。

 あなたが幸せを与える誰かが、私たちではありませんように。

 母が子に抱く執着が消えることは決してない。それは双子も理解している。それでも、そう願わずにはいられない。

 もう、大事ではなくなったから。

 これ以上、絶望に絶望を重ねたくないから。

 何度でも何度でも叱咤し、戦いを選び続けること自体が、信頼と期待の証であり、ある種の愛情でもあったのだと——あなたが気づく日が、どうか、来ませんように。

 相手には、もう動く力も残っていないことを確信し、双子はようやくアリアの傍に行くことができた。

「おやすみなさい。よい夢を」

 そして、己への憐憫だけで出来た妖精は形を失い溶けて消えた。

 最後まで、その瞳には、ただ一人の我が子しか映っていなかった。

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