第4話

 鴻巣にキスをされてから、四条の心中は嵐のように波立っていた。思いもしていなかったのだから、当然だ。あまりのことに、かえって冷静でいようと努めて、はたから見ればいつにもまして冷徹な印象になっていた。


 あまり眠れず、もともと細い食が特に細くなり、好物のチョコレートも、口にする度に、あのキスを思い出し――けれどこの嗜好品だけは変えられない四条は、いつも買っているものではない、別の商品にすることで、何とか乗り越えていた。チョコすら食べられないのでは、本当に倒れてしまう。もともと色白の肌は、よりいっそう蒼白になり、日本人離れした顔立ちなため、いよいよこの世のものとは思えない不思議な美しさを保っていた。


:::

 鴻巣は、翌日すぐにでも四条に会いたかったが、やはりそうはいかなかった。


 所属している英文学の学会の本大会があり、講義を履修している院生が、何人か発表をすることになった。彼女たちから頼まれて、論文を見ることもあった鴻巣は(指導じゃなく、アドバイス程度に思ってほしいと言いはしたが)成り行き上、発表にも来てほしいと言われ――質疑応答の練習まで付き合うことになった。普段の講義を行いながら、その論文や発表用の要旨をみるのは、中々に時間をとられる。だが、鴻巣の研究範囲でもある一九世紀の英文学――思いがけず熱が入り、こんなことになった。同い年で、同じように講師でもある川島希美も、まったく同じ経緯を踏んでいたので、これはもう、教育機関にいる者の業だろうと諦めていた。


 大会当日は、川島とともに、院生の発表に同席し、質疑応答に立ち会っていた。質問が活発でなければ、代わりにしてあげる――川島の教え子には鴻巣が、鴻巣の教え子には川島が――と、一応、スタンバイしていた。何だか本末転倒だが、人前で発表を行う経験を積むことが何より大事だ。何も反応がない虚しさを、鴻巣も川島も痛い程わかっていた。だから、身内だろうが何だろうが、質問をする人がいるのは、大いに励みになるのだ。

 ――が、川島は朝から見るからに疲弊しており、聞けば、風邪の引きはじめのようだ。それでも、午前中は耐えていたが――


「困ったな、午後まで発表は続くけど――」

「うーん、さっき、四条先生と生徒さんを見かけたから、ダメもとで頼んでみようかな」


 ボーッとした様子で言う川島に、鴻巣は四条の生徒に頼むのかと「そうだね、それがいいかも」と賛成した。


 川島は立ち上がり、ちょうど会場となっている教室に入ってきた四条に声をかけ――自分の代わりに鴻巣といてくれないかと打診しているのを聞いて――徐々に事態を把握し、顔が熱くなった。彼女と目が合い、一瞬、周囲の空気が逆立つような気配がしたが、短くうなずいている様子で――


 川島は笑顔で戻ってくると、荷物をまとめながら「よかった、四条先生がここに座ってくれるって。そもそも黒岩先生を入院させてくれたのも四条先生だから、頼りになるんだよ」と言った。

――知ってるから―…と内心思いながら、黙ってしまった鴻巣を、川島は訝し気に見たが、緊張しているだけかと思い、謝りながらも慌ただしく去っていった。

 川島が帰り、ふたりきりになると、鴻巣はすぐに「川島さんを唆したわけじゃないですよ」と、言った。

 四条は、鴻巣の隣に座り、「わかってます」と短く言った。


「私の信条は、先日話した通りだから――助けになるなら、誰の頼みでも引き受ける、それだけです」


 やがて発表が始まり、ふたりは黙ってメモを取りながら集中する。

 鴻巣は、前を注視しながらも、椅子の背にもたれ、両手をこすりあわせて息をついた四条を見て、さらに肌が白く、痩せたことに気が付いた。

 その原因が、自分かもしれないと思った鴻巣は、先日のように体調について、聞くことはできないと思ったが――短い休憩の際、思わず「大丈夫ですか」と囁いてしまった。

 物憂げに瞳を伏せたまま、四条は少し肩を震わせ――「ここのところ、眠れなくて、それだけです。体調が悪いわけじゃない」と言った。

 眉根を寄せ、謝罪を口に出しそうな鴻巣に、重ねて「違う――あなたには関係ない。学生がこうして登壇するのは、何年たっても――自分も緊張して――だから、気にしないでください」と、言わせない。

 少々変わってはいるが、こういう気の使い方が四条らしさなのだと、会った回数が少ない中でも徐々にわかってきた。鴻巣は、フッと微笑む。

 口を引き結んで、四条はもう、その後は何も話さなかった。それでも――発表の間にチラチラと盗み見た横顔は、絵画のように美しく、鴻巣は邪心なく、素直に胸打たれた。


 幸か不幸か、発表の質疑応答は活発で、ふたりが質問をしなくても問題はなかった。滞りなく、大会が終了し、四条は「じゃあ、私はこれで――」と言い、立ち上がった。


「あ、ありがとうございました――」


 鴻巣も慌てて立ち上がり、礼をすると振り向かず手を挙げて外へ出た。

 ほどなくして、院生と挨拶を交わすと、自分も外へ出た。

 雲行きが怪しかったが、雨が降り出していて――傘は持っていない。車を止めていたところまで、走っていくしかないが――さて、車を取りに行って、家へいったん帰って大学へ行くか、それとも――と何気なく周囲を見まわすと、四条が少し離れた開店していない何かの店の軒先に立っていた。

 驚いて、またもや何も考えずそちらへ走る。


「もう行ってしまったのかと――」


 四条も傘は持っていない。少し濡れた髪とコートの肩が光っている。


「急に降り出したから――」

「あの、私の家がここから車で十五分くらいなので、もし四条先生の家より近いなら、寄っていきませんか。相当、お疲れでしょうし、休んでもらってもかまいませんし――せめて、雨がやむまでは」

 と、鴻巣は言ってみた。まともに寝ていない、雨で濡れた四条は、今にも倒れそうで――通常なら断る申し出だろうが――正直、四条も限界だった。


「ああ、ありがとう――でも、本当に少しだけで、すぐに帰るから――疲れているのはあなたも同じ――」

 大丈夫です、と言うと目立たない所にとめていた車まで走っていき、急いで四条を乗せると帰路についた。


 鴻巣は、一人暮らしのマンション住まいだが、それなりに広い部屋に住んでいた。その代わり、築年数が古く、見た目はよくない。一生住むわけではなく、普段は寝に帰っているようなものだから、と気楽に決めた仮住まいだ。


 組み立て式、三人掛けのソファベッドを、そのままにしておけるくらいの広さで、脱ぎっぱなしの服や、雑誌が床に散らばっているが、食べかけのものや皿は置かないようにして、そこそこ清潔だった。


 四条は、先にシャワーを浴びさせてもらい、鴻巣のスウェットの上下を貸してもらった。鴻巣がシャワーから出ると、すでに四条はソファベッドに横になり、うつらうつらとしている。


 慌てて追加の毛布を出す――四条は置いてあった鴻巣が使っているだろう寝具は、遠慮してたたんで避けていた――四条へそっとかけると「申し訳ない、寝るつもりは――なかったんだけれど――無理そうで――」と、絞り出すような声で言った。


「気にしないで眠ってください。私はそのつもりでしたから」


 安心したように息をつき、四条は、本当に久しぶりに――熟睡した。


:::

 深い眠りから覚め、一瞬、どこにいるのかわからず――ああ、鴻巣さんの家だ――と、身じろぎすると、後ろから抱きしめるように鴻巣が寝ているのがわかった。動揺して今度は本当に体を起こすと、鴻巣は寝ぼけているのか、四条の腰を抱きしめ、案外強い力で引き寄せた。

 密着した腰と、彼女の体の熱さに気づく。同時に、当然ながら、寝具も、貸してもらったスウェットも、何もかもから鴻巣の匂いがする。シャンプーや柔軟剤のような人工的な香り、肌や汗の匂い――両腕で後ろから抱きしめられ、首にも感じる鴻巣の呼吸――そのすべてが、突然の濃密な距離感が、四条の体も熱くした。


 先日のキス、自分の家へ招いてくれたこと、それらを無視して、自分に好意を持っていないとは、さすがに四条も思ってはいない。だが――どうして、なぜ、自分を?鼓動が早くなる。ほぼ眠っておらず、雨にも降られ、弱っていたとはいえ、一人暮らしの、自分に何等かの好意を持ってくれていることがはっきりしている――同じ大学で働いている彼女の家へ、無防備に行ってしまい、同じベッドで寝ている――何をしているんだ、私は――


 四条は、鴻巣のことをよく知らない――が、それでも、鴻巣が何か企んだり、悪意があったりして自分に近づいているわけではないとわかっていた。だから、それよりも――同情心を恋と錯覚しているのではないかと、考えていた。鴻巣よりだいぶ年上の、天涯孤独の冴えない自分に対して同情している、それを――

 パニックになっている四条の思考は、数年前の出来事を思い出していた。

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