第十三章.水の行方と俺の行方
◆ 工房 Lv.3【ザーベラの自然診療所】
地味に良いことがあった。
朝起きると、布団の上に一本の抜け毛も落ちていなかった。
ときどき、ごっそり髪が抜ける夢を見るせいで、そんな些細なことでも妙に安心してしまう。それが何を意味しているのか──考えるのは、やめておいた。
「ゆうりおはよ♡」
「お早う、アリョーナ。──って、おい! ここで二度寝すんな〜っ!」
ガウン姿のまま、アリョーナがぐったりともたれかかってくる。はだけた襟元から、薄いインナーがちらりと見えて、思わずぎくりとした。
普段からオフショルダーを着ている彼女の鎖骨は見慣れているつもりだったが、見てはいけない何かを覗いてしまったようで、ほんのりと罪悪感が胸をかすめた。
・
アトリエの前には緩やかに広がる草地があり、俺とアリョーナはそれを”庭”のように使っている。
「ふう……」
深呼吸をして、胸に支える違和感を取り除く。
見上げれば、異世界の空は青く澄んでいるのに、俺の心はどこか曇ったままだ。何もしないでいると、気持ちが底へ引きずられそうだった。
だから、手を動かすことにした。
アリョーナがアトリエで“風呂釜”をつくっている間、俺は命の恩人・ハウラーの世話をしたり、外壁の補修に取り掛かっていた。初めてここに来たときから、ずっと気になっていた“あの大きな裂け目”に、ようやく手をつけたのだ。
木材を適当な大きさに切り、釘で打ち留めたあと、上から丁寧に漆喰を塗り込んでいく。
少し離れて、出来栄えを確かめる。
……よし。素人の日曜大工だが、見た目はかなりマシになった。まあ、相変わらず窓がないのは気になるけど。
「────」
そんな折、遠くから何かが近づいてくる気配があった。草を分ける音。
俺は手に持ったパテを止め、音のする方向に顔を向ける。
ハウラーも体を起こし、俺と同じように耳を立てた。
「今、何か聞こえたよな?」
「ガルルルル……」
視界の奥には、森へと続く緩やかな下り道が見える。それが、正体を見極めるのを遅らせている。焦ったい。
確実にこちらに近づいている。草を踏みしめる足音──人ではない歩幅──馬?
隠れた方がいい──そう思った矢先、坂の向こうからゆっくりと一人の頭が見え始める。
金髪、
ロン毛、
甲冑、
馬の頭──
順繰りとヒントを与えられながら、その人物に見当をつける。
「……なんだ、あいつか」
レオニードだった。アリョーナの薬を買いに来たのだろう。
「ハウラー、気にすんな。一応、あれは味方だ」
俺としては退屈な客だが──。
・
「すごいじゃないか、アリョンカ」
木箱に詰まった薬瓶の数々を手に取って、レオニードが素直に感嘆の声を漏らす。
中身はポーション他、解熱剤や止血剤、興奮剤……。どれも現場の兵士が喉から手が出るほど欲しがる品ばかりだ。
「レベル7になったんだよ。ね、ユーリ♡」
アリョーナが振り返って笑った。俺は頷く。
「ああ。暫定だけどな」
するとレオニードが奇妙なことを俺に向けて言った。
「……いやいや、お前、いいよ。本当にいい仕事をしてる」
何故かその言葉がやたらと印象に残った。
口調はいつも通りなのに、どこか湿っている。言葉の意味が、ただの感謝に思えなかった。
「はあ……ありがとう」
「ご苦労だったな」
肩に手を乗せられる。なんだか気味が悪く、首を回して払い除ける。
「ただ──」
と、言いながら、レオニードの視線が部屋の奥に滑る。
一人用にしてはデカすぎる布団──。目線の動きだけで分かる。俺が”お泊まり”していることを勘繰ったのだ。
「……いや、これは、言うのは最後にしよう」
いま言えよ。
喉元まで出かけた言葉を飲み込む。
何を言われるのか、だいたい想像がつく。
俺とアリョーナの関係に釘を刺しておきたいのだろう。だが彼女の前でその話はできない。こいつはまだアリョーナに気持ちを打ち明けていない。
「レオ、紅茶いれようか?」
アリョーナが間に入った。いつもの、やわらかい声色。
「ありがとう、アリョンカ。でも今日は結構。実はまだ任務の途中でね。これでお
レオニードは箱を抱えたまま扉のほうへ向かう。
去り際にこちらを見やって、口元だけで笑った。
「お見送りはないのかい、イーリヤ?」
「……俺? あー」
察しがついた。
……やっぱりな。
さっきの布団を見る目つきを思い出し、ため息が出る。
・
徒歩で森を進む。レオニードも馬を降り、手綱を引いていた。身体に纏った金属が、歩くたびにジャキジャキと音を立てる。
「どこまで送らせる気だよ」
「ルドヴィヤまで」
「ふざけんな」
「フフ」
俺は思わず顔をしかめる。
その笑い方にももうだいぶ慣れたはずだったが、今日のそれはどこか違う。アトリエにいるときからそうだった。妙に抑制されていて、楽しげなのだ。
昨日から抱えていた、ぼんやりとした「嫌な予感」が、今まさにここで合流した。
「生意気な口を叩けるのも今のうちだよ、イーリヤ。じきに僕に泣きつくことになるんだ」
「はぁ?」
言い返しかけた声が、空振りした。レオニードの目が笑っていなかった。
「お前を前線に連れて行ける日が、ようやく来たよ」
「前線?」
思わず足が止まり、身長の高い金髪の男を見上げる。
「……何を言ってんだ」
「分からない奴だね」
レオニードは、ことさら穏やかに言った。
「軍がお前を正式に“兵”として迎え入れることに決めた。トゥラーニャの正規兵としてね」
「馬鹿な……」
──いや。
「決めたって……俺は、まだ何も聞いてねえぞ」
──そんな話が出ていることは知っていた。かつての友、エカリナがそれを匂わせたことがある。ただ俺の方が考えないようにしていただけだ。
「これから話すそうだ。今日、今から。そのために僕が迎えに来たんだ」
まじかよ、としか言えなかった。
じゃあこいつ、本気で俺をルドヴィヤまで歩かせる気だったのか?
急すぎる、理不尽すぎる。……ふざけんな、ほんとに。
「ま、詳しくは指揮官たちに聞いてくれよ。
「……行かねえぞ」
喉がかすれた。
「それに、兵隊になる気もない。じゃあな、こっから一人で帰れ」
振り返った俺の背中に、恐ろしく平坦な声が掛けられた。
「だろうね」
ガツッ。
鈍い音がして、視界が崩れた。振り返る暇もなく意識が急速に遠のく。
「手荒な真似をして悪いね。けれど、”連れて来い”としか言われてないんだ」
ジャキッと剣柄が鞘に当たる音だけがやけに耳に残った。
「ま、僕のフィアンセに手を出した報いだと思ってよ──って、もう聞こえてないか」
そうして俺は、アリョーナに何も伝えられぬまま、馬に乗せられてしまった。
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