ep.7 grâce 《神の手》

 ※この話にも手術描写が出てきますので、苦手な方は次話、ep.8へお進み下さい。



 13:15を少し回った頃、顕微鏡を設置し、マイクロ操作に移る。いよいよ脳実質の手術である。

 マイクロ操作に移ると、手術室内を流れていた音楽は消されることがここでは暗黙のルールとなっているらしく、手術室は静かになる。


 顕微鏡自体にも滅菌カバーがかけられるため、そうなると顕微鏡にも《清潔》の者しか触れない。この顕微鏡には2箇所双眼レンズが着いているため、執刀医のマティス教授と助手のリアム先生は顕微鏡を覗きながら術野を見ることになるが、顕微鏡に映るものは手術室内にある大きめのモニターにも映し出されるため、外回りの医師や看護師はそちらで状況を把握することになる。


 静かに手術は進行していくが、ここからが山場の手術は、ここからが果てしなく長くも感じる。重要な脳領域や神経などを傷つけないように丁寧に行われるこの手術は、毎回長丁場な上にずっと同じ姿勢で顕微鏡を覗いているため、執刀医本人の肩こりとか大丈夫なのかと心配になる。……そんな心配をしている場合ではないのだけど。

 そして、リアム先生はやっぱり睫毛が邪魔そうだった。



 顕微鏡をのぞきながら行われる手術中は、時折マティス教授がリアム先生に意見を求める場面も見受けられることもあり、教授がリアム先生に多大な信頼を置いているのが分かるようでもあった。鬼教授と名高いこの教授が始終こんなに穏やかなのも珍しいのでは……と思うほどに。



 その時、マティス教授が唐突にリアム先生に話しかける。


「リアム先生、そろそろ交代、よろしいですかな」

「えぇ。いつでも交代できます」



 ……? リアム先生の生手術が見られると?



 後から知ったことだが、マティス教授もリアム先生の手技を間近で見てみたいがために、マイクロ操作を一時的に交代する手筈になっていたらしい。

 ちょっと! 聞いてないよそんなの! 私にもちゃんと教えておいて!

 まぁ、嬉しい誤算ですけど!



 手術器具を一度すべて安全な場所に置く。マティス教授とリアム先生は顕微鏡の場所を変わり、リアム先生が執刀を始める。

 なんとなく空気が、変わる。

 その手技は……まるでリアム先生自身、すべての脳組織を把握しているのではないかと思わせる程精密で、畏怖すら感じる。そして、速い。神業とはどのようなものか例えよ、と言われたら、一番にリアム先生の手技だと答えられるほどにまさに、神の手。

 近年では脳病変や周囲の脳組織をリアルタイムに把握するナビゲーションシステムや、術中に神経機能等を評価するためのモニタリングシステムなどを用いた先進医療が多く浸透してきたが、もはやこのシステムすら不要なのでは? と思うほどに。この先生……やばいです、私の語彙力が吹っ飛ぶほどには余裕で。ええ。



 この人の頭の中、どうなってんの……???

 いや、冗談抜きでこの人の頭の中を覗いてみたいくらいだ……開頭手術を目の前に言うのはブラックジョークがすぎますけどね。えぇ。



 手術室の扉が開く。

 実は先程から脳神経外科の先生たちが入れ替わるように手術を見に来ている。この手術の様子は医局のモニターでも見られるので、きっと気になって見に来るのだと思う。その先生が私に話しかけてくる。


「はぁ……すごいですね」

「えぇ、私もずっと見ていますが、まさにお手本のようです」

「いやぁ、全くです。マティス教授が凄いのは知ってましたが、リアム先生は脳に何を見ているのでしょう」


 その先生もマティス教授とリアム先生の様子とモニターを後ろから見ている。


「ところでレミ先生、しばらく交代しますよ。私も少し見学したい」

「いや、大丈……」


 と言いかけたところで、腹がぐぅ、と間抜けな音を出した。いや、全然腹が減っていたわけじゃないのに、この手の話をすると腹の音が鳴るのはどういう訳なのだろう。普段長時間の手術でも集中しているからか、腹が減って仕方ないということは殆どない。……今日はいつもより朝食が早かったから? いや、関係ないだろう。


「ははっ、交代しろということだ。さぁ、行った行った」


 そう言われて、私は仕方なく一度手術室を後にして医局で軽く食べることにした。他の医師もあの手術の様子を見てみたいというのも分かる。だけどあの手術室という限られた空間であまりに人が多いと邪魔にもなってしまうため、仕方がない。

 ……でも手術が気になりすぎて、家から持ってきたサンドイッチをブラックコーヒーで流し込んですぐにまた手術室へ戻った。



 でも手術室へ戻ると、私が離れている間に執刀はマティス教授に戻っていたうえに既に腫瘍は摘出されており、出血確認をして間もなく閉頭の流れとなっていた。

 ……予定手術時間は10時間だったけど、だいぶ早くに終わりそうですよ、これ。

 えっ、なんで? アスクレピオスだから? でも、だってそれ異名でしょ? ほんとにアスクレピオスの生まれ変わりだったりする???



 ……えぇ、速いです、えぇ、えぇ。



 いつもなら交代してもらってありがたいはずが、これなら全部見たかったー!という気持ちの方が今日ははるかに強い。

 10:45に手術を開始して、まだ16:00前。

 マティス教授に「ちょうどよかった。レミ先生、手洗ってきて」と言われて、私とリアム先生で最後閉頭することになった。


 私が状況を確認し、手を洗ってガウンを着せてもらっている間にマティス教授は顕微鏡を片付け始め、リアム先生は看護師と一緒に機械や物品のカウントを合わせ、表面の膜を閉じているのを見た。いや、この先生も速すぎる。そして、丁寧。リアム先生はどの所作の1つをとっても丁寧なのが、手術にも現れているようだった。そして私はまたガウンテクニックで後ろの紐を結ってもらう時に少しかがむのを忘れている。

 ……いつも気を付けようと思ったのに。


 リアム先生は骨を戻して固定し、最後の閉創の一針一針まで等間隔で、まさにミシンで縫ったかの如き綺麗な仕上がりに、私はもう舌を巻くしかなかった。



 だけど終ぞ、私はリアム先生を以前どこで見たのか、思い出せないままだ。

 やはりあの8年前の災害の時に会ったのだろうか。あの時の記憶は、未だ曖昧のままだから……

 だけど、1つ……いや、2つだけリアム先生に聞きたいことがある。



 最後の一針が縫い終わり、無事に手術は終了した。創部を拭いてガーゼなどで保護したら清潔区域を保っていた滅菌カバーを外す。まだ17:00前。10時間を予定していたが、6時間ちょっとで手術は終わってしまった。

 教授とリアム先生がタッグを組めば最強なのでは???

 私はリアム先生に声をかけてみる。



「お疲れ様でした」

「レミ先生。お疲れ様でした」

「いやぁ……速かったですね」

「えぇ、マティス教授の手術は素晴らしかったです」

「リアム先生もですよ、最後の閉頭も、めっちゃ速くて綺麗でした」

「そうですか。ありがとうございます」



 褒められても表情一つ、声色一つ変えない淡々としたしゃべり方は、確かにこれだけでも精密機械のようでもある。我々医師の間でリアム先生は『医術の神・アスクレピオスの再来』とも並んで『精密機械かと思うほどに天才的な技術の持ち主』とも噂になっていた。そうでもなければこの若さでの神がかった技術は説明できない、などと誰かが言っていたのを思い出した。

 確かにこれは……実際にリアム先生が施したのはマイクロ操作の一部と閉頭だけだったが、それだけでも神がかっているとしか言いようがないと思うほどに、正確で綺麗な手技だった。


 片付けは進み、あとは患者のサルトルさんが麻酔から覚醒するのを待つだけとなった。


 だけど、リアム先生の『感情表現できない』というのは、気になっていたことでもある。

 本当に笑わないんだろうか。私はリアム先生に近づき、声をかける。



「リアム先生」

「なんですか」

「……ふとんが、ふっとんだ」

「……」

「……」


 ……


 ……


 ……



「…………あの……レミ先生?」



 サルトルさんの心電図の音が規則的にピッ、ピッ、と鳴っている他、シーンとした手術室で口を開いたのはその場にいた、外回りの看護師。彼女はナチュラルメイクの優しそうな顔をジト目にして私を見ているし、リアム先生は綺麗な真顔のまま首を傾げている。マティス教授は……怖い顔をしたまま無視、だ。



 ごめんなさい! 誰か、このいたたまれない空気、どうにかして!

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